北条の攻勢が強まってきていた。
 真田忍び隊は前線へと、あるいは敵陣内へと駆り出され、奔走していた。
 佐助の傷は彼が思っていたより深かった。いや、その直後に動き回ったのが原因かもしれない。
 とはいえ、幸村を穢したことについては、後悔どころか暗い喜びを感じていた。
 あれから、幸村とは会っていない。避けられていたのか、単に忙しかっただけなのか。床に伏せっていた佐助にはわからない。おそらくは前者なのだろう。幸村の性格を考えれば、時間を作ってでも見舞いに来たがるであろうことは明白だ。

『何があっても動かないように』

 それが、才蔵を通じてもたらされた主の命であった。
 佐助は愚直にそれを守っていた。動いたところで命に関わるような傷ではないが、本来の仕事が出来るわけでもない。足手まといになるくらいなら、休んで英気を養っていた方が幾分かましだ。
 それを口惜しく思わないといったら嘘になる。戦場よりも好ましいといったら嘘になる。

(そろそろ頃合いかね)

 横になっているのも飽きてきた。胸の傷に手を当てる。傷はちりりと痛んだが、戦場を自在に駆けるには問題はなさそうだ。忍びとしてではなく、一兵卒として戦に参加するのも悪くはない。
 佐助はふらりと立ちあがった。佐助が寝かされていた真田の屋敷は、戦の準備であわただしく、彼が動くのを見とがめる人間はいない。
 軽くはない足取りで、部屋を出ると、佐助は足軽の姿へと転じた。










 本格的な開戦を前に、佐助は上手いこと幸村の率いる隊に紛れ込むことが出来た。とはいえ、幸村の側で戦うというには身分差がありすぎる。
 佐助は胸の傷にふれた。これさえなければ、もっと側で――

(違う)

 頭をかきながら、周りに気付かれない程度に首を振る。
 決して幸村の隣で戦いたかったわけではない。手柄をあげたかったわけでもない。ただ、戦場のにおいが恋しかっただけだ。
 なぜ幸村を思い出したのか。自分でも納得がいかなかった。今回は幸村の影となる必要もない。彼は上の上のそのまた上の――直接的には関わりのないひとだ。

(いけねえな。足軽になりきらないと)

「皆のもの」

 佐助は顔をあげた。声の主は幸村直属の武将だ。招集だろう。
 周囲で思い思いに過ごしていた足軽達が皆、立ちあがって武将の方に向き直る。佐助もそれに倣った。

「真田幸村様からのお言葉がある。皆、心して聞くように」

 おう、だの、はい、だのと、足軽達は声を上げる。

(戦前の士気向上ってとこか。旦那の考えたことじゃないだろうな)

 そもそも、こんなことで効果が出るとも思えない。佐助は白けた気持ちで周囲と同じ方角を見つめていた。
 紅い戦装束に身をまとった幸村が、垂れ幕を持ち上げて入ってくる。あの日と、あの初陣の日と同じ顔をしていた。佐助の胸中に暗い影が忍び寄った。

(せっかく俺様が汚してやったのに)

 凛とした表情で、それでいて何かを期待するようにきらきらと輝く目で、幸村は配下の足軽達を見渡した。

「皆、大儀である」

 少年の影を残した、少し高めの声が陣幕の中に響く。

「北条との決戦は目の前でござる。皆の命、この幸村が預かった。お館様の御ためにも、全力を尽くして働くよう」
「おおっ!」

 怒号にも似た、歓声が響く。士気向上の目的は達せられたようだ。
 幸村の視線が一周して、先の武将の前で止まった。

「ここからは、内緒の話だ」

 幸村は少し声をひそめる。

「先だっての戦で、某をかばって大怪我をした者がいた」

(!!)

 何を言い出すのか。武将が慌てて、幸村を陣幕の外に連れ出そうとしているのがみえる。

「生きよ、そして、勝て。いいな、皆の命はこの幸村のものだ」

 幸村が全てを言い終える前に、武将は彼を陣幕の外に連れ出すことに成功した。幕の外から、言い争っている声が聞こえ、やがて静かになる。
 足軽達も、当惑したように騒然としていたが、しばらくすると、思い思いに腰を下ろし始めた。

「おい」

 佐助の肩を叩く者があった。確か、五平とかいう足軽だ。

「面白い事いうご主人様じゃねえか?」
「そうかね」

 佐助は空返事を返す。

「俺ぁ、武田軍のいろんな武将を見てきたが、あんな事いう奴は初めてよ」
「ああ、そうだな」

 当たり前だ。普通の武将は足軽を駒としか見ていまい。それが正しい武将のあり方で、幸村にもそう、教えてやったつもりだ。

「それで……」
「ああ、悪い。小便だ」

 佐助は早々に会話を打ち切った。幸村の話題など、面白くもない。

(あの人のことは、俺が知ってればそれで十分なんだよ)

 その場を足早に立ち去る。
 佐助はいらだっていた。そして戸惑っていた。

(あれだけ汚したはずなのに。なんで変わってねぇんだよっ)

 玻璃のような子供だと思っていた。曇りのない、だが割れやすい。割ってやったつもりだった。いや、割れていたのだ、確かに。あの涙はその証だったはずだ。
 それでも変わりのない、武将があそこにいた。割り切ったのか、立ち直ったのか。同じことをいう武将があそこにいた。

(わっかんねえよ。どうしたら――)

 佐助は手近な木の幹を殴りつけた。そうでもしないと、この暗い衝動は収まりそうにない。

(どうしたら、俺の、俺だけの思うとおりになるんだ――?)










 北条との再戦は、またも武田軍の圧勝に終わった。幸村の活躍が勝敗を分けたと聞き及ぶ。
 幸村の隊の戦死者は十余名、画期的な少なさだ。それでも、死者が出たことに変わりはない。
 武田軍の凱旋と同時に、佐助は元の姿に戻っていた。足軽姿で参加する戦は、楽ではあったが、楽しくはなかった。
 佐助が真田の屋敷を抜け出していたことは、もちろん幸村の耳に入っているはずだった。幸村付きの女中にこっぴどく叱られたのだから。それでもなにもいってこないということは、やはり避けられているのか。
 忍び小屋に戻ってきていた佐助は、ぼんやりと暗器の手入れをしていた。怪我はすっかり治った。次の戦は、忍びとして、幸村の影になり参加しなければならない。

「佐助」

 名を呼ぶ声がする。才蔵のものだった。

「なんだ」

 顔をあげずに応えると、才蔵は幾分いらだった声音でいった。

「お呼びだ」

 佐助は顔をあげた。間抜けな顔をしているであろう自覚があった。
 誰が、とは問わなかった。佐助の主はあの時からただ一人だ。

(なぜだ。なぜだなぜだなぜだ)

 佐助は動揺していた。なぜこの時に、幸村からの呼び出しを受けなければならないのか。

「とにかく行け」

 才蔵に、頭を小突かれる。佐助は自分が呆けていたことに気が付いた。

「あ、ああ」

 動揺を隠せぬまま、佐助は忍び小屋を後にした。










「猿飛佐助、ここに」
「うん」

 幸村は紅い具足姿であった。戦からはだいぶ日が経っている。信玄との稽古でもしていたのだろうか。

「……」
「……」

 静寂が二人を包んだ。

「……佐助」

 口火を切ったのは、やはり幸村であった。

「はっ」
「この戦の間、なにをしていた?」
「……」

 佐助は答えなかった。おそらく、幸村も答えを求めていたわけではないだろう。単に会話のきっかけとなる話が欲しかっただけ。

「……この話をするならば、この格好が一番良いと思ったのだ」

 幸村が己を指さす。紅い具足姿のことを指しているのであろうことは、すぐにわかった。あの日と同じ、紅い装束。

「佐助」

 確かめるように、幸村が名前を口に乗せる。

「また、幾人も死んだ。俺の力量不足だ」
「……そう」
「そうだ。しかし、俺は死んだ一人一人に感謝はすれど、謝ることは出来ない」

 それが武将だ。それでいい。佐助は思った。

「……だがな、佐助」

 紅蓮の炎が逆巻いた。いや、幻視だ。佐助は驚いた。幸村は怒っている。怒っているのだ。

「そなたには同じことをいいたくはない」

 炎が佐助の視線を捉えた。目を、外すことが出来ない。

「やはり佐助には生きていて欲しい」

 反論が、できなかった。炎は佐助を支配し、灼き尽くそうとしている。

(――そうか)

 佐助はやっと気付いた。

(俺は、灼かれていたのか)

 どうしてこれほど、幸村を汚すことにこだわった? どうしてこれほど、幸村の言動を気にかけねばならなかった?

(もとより、灼かれていたのだ)

「佐助。そなたがどれほど俺のことを嫌いでも気にはしない。生きて、俺のために仕えてくれ」





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