灼かれる幻視の中で、彼の言葉がこの身に刻印を刻んでいくように思えた。一言、一言を告げる幸村は、どんな穢れも灼き清めてしまう。

 (元より敵う筈もない)

 彼に掛かればこの自分の穢れた身など、瞬間にして炭と化してしまうに違いない。だから怖かった――だが怖さの反面、嫉妬していた。

 (どうして、穢れない?)

 何度問責しただろうか。穢れを知らぬ彼を貶めて、彼が泣く姿を見たかった。だがそれは裏を返せば嫉妬だ。そして穢れを知らないものへの憧憬だ。

 (俺はもう穢れている。なのにおなじものを感じて、あんたが穢れないなんて)

 目の前で怒りを含ませて此方を見つめてくる幸村に、ぎり、と歯噛みする。

 (そんなの不公平だ)

 隣を、背後を護る役目を得て、彼の視線は痛いほど佐助に突き刺さってくる。それが辛かった。こんな卑しい身分の己に笑いかけるのは光だった。

 (俺は闇にしか生きられないのに、どうして…)

 強く握りこんだ手が、内観のうちに力をなくしてしまった。手に篭っていた力が抜けると、佐助は駆け巡る思考を瞬時に纏めることで精一杯になっていた。

 (どうして、あんたを知ってしまったのだろう)

 目の前の赤い装束の幸村。

 ――佐助、お前がどれほど俺のことを嫌いでも気にはしない。

 あの日、己に抱かれて愉悦に浸っても、穢れる事無く、その目の前に現れる人。

 ――生きて、俺の為に仕えてくれ。

 酷いことをしたのに、それでもまだ己を必要としてくれる。
 足軽として参戦した時の苛立ちを思い起こすと、全て合点がいくというものだ。

 (あの人のことは、俺が知っていればそれで十分なんだよ)

 他者に評価されることが赦せなかった。

(どうしたら、俺の、俺だけの思うとおりになるんだ――――?)

 いつでも側で見守ってきた。己だけが知りうることなど無数にあるというのに、それだけでは足りない。彼の頭の先から足の先まで支配しているのは自分だと想いたかった。

「旦那…それは、命令?」
「お前が命令と受け止めたいのなら、命令としておこう」

 ぐぐうと咽喉をひき絞ってから、幸村は少々身を乗り出した。

「ごめん、従えない」
「佐助…ッ!」

 幸村は腰を浮かせかけて佐助を問いただそうとする。佐助は強い彼の視線から逃れるように顔を背けると、畳みかけるように声を荒げた。しかしそれは第一声だけで、徐々にその強さは弱くなる。

「俺を生かすのは旦那だ。だから、俺ひとり生き残るよりも…自分を盾にしても俺は旦那を守る」
「――…」

 何度も彼には己が忍であることを告げている。忍がどんなものであるのかも、説明したことは一度や二度ではない。

「その過程で命を賭すこともある。だから…だから、従えない」
「――…」

 言いながら声が震えてくる。こんな風に弱気になったことなど今まで無かったのに、どうして今更忍の特性を彼に説明しながら声が震えるのか。

 (俺は狡いんだ。狡い、ただの忍だ。だから俺みたいな下賎なものなんて見ちゃいけない)

 忍として生きることを厭うことはなくても、幸村から向けられる玻璃のような透明な視線も感情も全てが眩しくて仕方ない。
 佐助は床におろした手で拳を握りこむと、ぎりりと音がするくらいに握り締めた。

「俺は忍だから。嘘でもなんでもつくし…酷いことだってする」

 言いながら自分の本性を暴きだしていく。それは目の前で一皮二皮と灼かれ、内面を暴かれていくようなものだった。
 震え出していた身体に喝をいれて、ごくりと咽喉をならして湿らせてから、佐助は顔を上げた。

「でも此処から、ひとつだけ真実を言うから」
「――…」

 顔をあげた瞬間、幸村の瞳が一回り大きく見開かれた。薄い唇が、ふ、と開かれ佐助に向けられていた。

「聴いてくれる?」

 此処で幸村に厭だといわれたら終わりだ。それまでの関係で納得するしかない。気付いてしまった己の闇を、ただ胸裡に鎮めていくだけだ。
 佐助は覚悟をして彼の返答を待った。

「…言うてみよ」

 幸村は薄く開いていた唇を一度閉じてから、まるで眩しいものを眺めるかのように、瞳を眇めて告げてきた。
 此処まで暴いて暴かれて告げる言葉に、偽りは似合わない。
 佐助はいつしか変容していた感情を彼に吐露した。

「俺は、ずっと旦那を俺だけのものにしたかった」
「――…ッ」
「好きとか愛してるとかそんな優しい気持ちじゃなくて」

 びくりと肩を揺らした幸村は、信じられないものを見るように佐助を見つめている。がしゃ、と赤い具足が音を立てていた。

「あんたを、俺だけのものにして、独占してしまいたかった。俺だけを見て、俺だけを求めて…でもあんたは、俺がどんなに浅ましい思いを描いていても、手には入らない」
「何故だ…俺はッ」

 がたん、と音を激しくたてて幸村が立ち上がった。彼の足元に縋るかのような姿に、常ならば惨めさを感じても仕方ない。だが崇めるように見上げる彼の背後に、己を灼く美しい焔がある。

「旦那は、俺の光だ」
「――…佐助」
「光は、ひとつあれば皆を照らす。でも、唯一無二のものに対するものじゃない。闇から光は見えても、光の中からは闇は見えないだろう?」

 佐助はそのまま頭を下げた。

「旦那、ごめんなさい」

 いいながら身体を折り曲げて、ぐっと額を床にこすり付けるかのように頭を下げていく。

「――…」

 小さくなっていく佐助を見下ろして、幸村は応えない。

「浅ましい想いを、ずっと貴方に抱いていました」

 それが真実だと、佐助は息を殺して彼の反応をまった。
 そしてぎりりと拳が握りこまれる音が聞こえた。

「言いたいことはそれだけか」

 掠れ、怒りを含んだ声が頭上から響く。

「歯を食いしばれ」

 幸村がそういったと思った瞬間、強い力で顔を起された。そして目の前に振り下ろされる拳が見えた。

 ――バキッ

 強い拳が佐助の頬に命中する。そのまま床に仰向けに倒れ付した佐助は、ごほ、と咳払いをした。彼の拳で一瞬だけ呼吸が出来なくなったのだ。

「勝手ばかりほざくなッ!」
「旦那…」

 今将に殴り飛ばしたばかりの姿の幸村が叫ぶ。だが彼はその場に、へなへなと力なく座り込み、凛々しいばかりの眉を寄せていく。

「俺は…お前が、お前だけが…欲しくて…ッ、好き、なんだ…――っ」
「俺、酷いことした…」
「それとて、元は…俺のせいだッ」
「――…」

 殴られた頬が熱い。
 幸村は膝に手を添えて肩を怒らせながらも、薄い口唇を噛み締めていく。

「佐助、もし俺を好いてくれているのなら…ッ」
「――…」
「俺を、置いて逝くようなことはするな」

 幸村の言葉に胸が熱くなった。今までどんなものでも佐助の心を動かすことはなかった。それなのに、今この胸にある充足感はなんだろうか。
 佐助はゆるゆると腕を伸ばすと、幸村の肩に手を添えた。そして何も言わずに胸元に引き寄せると、彼は同じように背に腕を回してくれた











 互いの感情を吐露しあい、今までと然程変わりない日常を繰り返していく。だが順番を間違ったのを正すようにして、佐助は幸村に対して壊れ物でも扱うかのように接していく。

 (俺、何処かおかしくなっちまったかも)

 ただ昏いだけの情欲が全て理解できると、目の前の主が大切でならない。庭先で鍛錬に勤しむ彼を眺めながらも、あの肌に触れたのが夢としか思えなくなっていく。佐助はさもすると湧いてきそうになる欲を抑えるように、手元を握ったり開いたりとしていた。

「佐助」
「あ…な、なに?」

 不意に頭上から声を掛けられて顔を起すと、其処には汗を滲ませた幸村がいた。幸村ははふはふと呼吸を荒くしている。零れ落ちてくる汗に、佐助は内心の動揺を押さえ込んで手拭いを渡した。

「旦那、それだけ動いたんならお腹空いたんじゃない?」
「む、そうだな。小腹が減っておるな」
「それじゃ、俺様ひとっ走りして団子でも買ってくるよ」

 佐助は素直な答えを返してきた主に、微笑みながら告げる。作らずとも自然と微笑が湧いてくるから不思議なものだ。

 (旦那の喜ぶ顔、見たい)

 今まであんなにも苛立ちを覚えてきた筈なのに、今はそんな風に感じる。そのことに葛藤を抱かないわけはなかったが、佐助は踵を返した。

「佐助…ッ」

 佐助が踵を返すと同時に、強い、縋るような力で肩を掴まれた。そうかと思うと、返したばかりの踵がくるりと回され、口元に強く硬いものが勢い良くぶつかってきた。
 硬い感触に顎先まで痺れるかと思った。だが正面の幸村もまた片手を自分の口元に添えて、真っ赤になりながら俯いていく。

「え…――?」
「お前はいつになったら、俺に…触れてくれるのだ?」

 打ち付けた場所は唇だ。幸村が佐助に初めて触れてきたのも、こんな稚拙な口付けだった。目標を失って、痛いばかりの稚拙な口付けで、初めてそれをされた時には嘲笑う己がいた。だが今にしてみれば、この純朴で朴訥な主がと思うと、どれ程の勇気を絞り出してきたのだろうかと感心してしまう。
 佐助が打ち付けた場所を手で擦りはじめていると、幸村は顔を起した。

「俺は此処からやり直したいんだが…」

 幸村の薄い唇は、押し付けたくらいでは直ぐに歯がぶつかってしまう。それをしらない筈はない。だとすると今のは業とではなかろうか。

「それって、暗に誘ってるわけ?」
 (旦那が、)

 幸村からこの己に向って向けられる感情。それは「生きて欲しい」というものだ。それが佐助にとって困らせられるものでも、彼の曲がり無き願いだ。そしてその願いの源には、彼にとって己を特別視している、即ち好意があるという事実に他ならない。

 (俺を求めてるって…)

 告げられた言葉を反芻すると、ただの好意ではないことは明白だ。佐助は傷む唇を舌先で舐めとってから、身体の横で拳を握っている幸村の手首を掴んだ。

「いいの…?」
「今更、だ…」

 両方の手首を掴みこみ、顔を寄せる。

「だって怖くないの?酷くしたのに…」

 酷いことをした自覚はある。確かめるように佐助が問うと、幸村はひゅうと息を吸い込んでから、瞼を落とした。

「では、それを払拭するくらい…」

 幸村の長い睫毛が震えて揺れていた。

「俺に優しくしろ」

 触れるか触れないかの位置まで顔を寄せて、額と額を押し付けると、幸村はびくりと瞼を押し上げた。間近になった瞳をみつめて覗き込んでいると、幸村は唇を戦慄かせ始める。

「俺は、こ、こんな…口吸いの仕方しか、知らぬ…」
「幸村様」

 沈黙に耐えかねて幸村が声を震わせる。そんな彼を宥めるように手首の手を解いて、頬に添えた。片腕をゆっくりと彼の肩に乗せて引き寄せる。交差する耳元に囁く。

「出来るだけ、やさしく…するから」

 抱き締めて、幸村の温もりを知って、告げていく毎に涙が滲んでくる。此処何年も涙とは無縁だったはずだ。忍になった時に、涙は捨てたつもりだった。

「厭なら直ぐに止めるから…」
「前置きはいらぬ。いいからさっさと…」

 震え始めた佐助の声音に気付いたのか、幸村が顔を起して、先程の佐助の真似をしてくる。頬を彼の熱い掌に包まれて、力強い光を受ける。

「俺を、お前のものにしてしまえ」

 目の前で宣言する人の清清しさに、佐助は抱き締めることで応えるしかなかった。彼に触れて知ったのは、己の胸の裡の支配欲と嫉妬、そして浅ましいと思っていた恋心だった。

「俺、旦那を好きになって良かった」

 幸せでも涙は出るんだね、と彼に告白すると、だったらもっと泣け、と無体を言ってくる。そんな柔らかな光のような相手を手に入れて、佐助は満たされていく心を味わっていった。






 愚かだったのは、昨日までの、闇に身を浸していた己。光に気付いたら、闇は闇に還してしまいましょう。闇を知れば、必ず光が手に入るから。










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