命あるかぎり、お館様とこの弁丸に尽くせ。


 真田昌幸の第二子、弁丸に仕えるようになって数年が経っていた。弁丸はなかなか元服を赦されず、よって佐助の主立った任務は昌幸や信玄公からもたらされるものとなっていた。
 だが遂に彼にも初陣の徴が現れた。

 ――真田源二郎幸村。

 その名を戴いてから間もなく、彼は戦場へと赴く事となった。

 (やっと)

 佐助は自分の得物の手入れをしながら、ゆらゆらと揺れる篝火の下でそう思った。ここに至るまでが長かった。

 (俺が役に立てる場が揃う)

 彼に仕えることに不服はなかった。だがあまりに昼行灯に近い現状に腹立たしさを感じることはあった。
 そしてあまりにも正論を向けてくる幼い主に、憤ってきていた。

 (なにも知らないから)

 綺麗事ばかりを並び立て、あまつさえ忍の自分に対して「生き延びろ」と言ってきた。だがそれも戦場に出てしまえば、そんな生易しい言葉を吐けなくなるに違いない。
 ゆらら、と篝火が揺れた。そこにきて佐助はふと手入れをする手を止めた。

 (汚れてしまえばいいのに)

 脳裏に描いたのは主の姿にほかならない。あの笑顔は好ましい気もするが、時々無性に腹立たしく感じる事がある。

 (汚してしまいたい)

 ざわ、と身の内から暗い感情がわき起こりそうになる。そして同時に己の闇が手を広げ始める。

 ――ぱちん。

「……――」

 火のはぜる音に顔を上げると、瞬時にその空気も気配もなりを潜めていく。ずずず、と闇が闇に戻っていくのを感じながら、佐助は嘆息した。

「いるか、佐助」
「いなかったら返事しねぇよ。なんだ、才蔵」

 静かに影の中に潜むようにして現れた才蔵は、くい、と顎先を外に向けた。そして「お呼びだ」とだけ告げてくる。それだけで、誰が佐助を読んでいるかなと解るというものだ。
 佐助は今一度嘆息してから立ち上がり、そっと才蔵の側を通り抜けようとした。
 だが直ぐに足を止める。

「何のつもり?」
「それはこっちが聞きたい」
「だから、何…?」

 佐助の首元に才蔵の苦無が切っ先を向けていた。佐助がこの戸を抜ける為に歩を進めようとすれば、佐助の咽喉元を容赦なく切り裂く算段だろう。

「気付いていないのか。佐助、貴様、闇の気配を携えて幸村様の元に行く気か」
「あぁ…漏れてた?」
「顔に出ている」

 才蔵が眼光鋭く睨みつけてくる。佐助は今一度、呼吸をしてから、彼の苦無の切っ先を下ろさせた。

「ご忠告、どうも」

 ひらりと耳元にそう告げてから、たしん、と音を立てて戸を開け放つ。そして佐助は彼を呼んでいるという主の下へと向っていった。






「お呼びですか」

 彼の部屋の前で膝を折って頭を垂れながら問うと、入れ、と中から示唆される。佐助は静かに戸を開けると、僅かな隙間から身体を滑らせて中に入った。

「佐助、遂に俺は明日初陣を飾る」
「はぁ…」
「何だ、嬉しくないのか」
「嬉しいとか、嬉しくないとかじゃなくて…喜ばしいことなんですかね」
「当たり前だ」

 ――俺は武士だ。

 幸村は血気盛んに声を張り上げる。彼の声は時として場の空気さえも振動させてしまうほどだ。佐助は耳に突き刺さる彼の声を流すように、横に顔を背けた。

「だったら【おめでとうございます】と告げたら良いんですかね」
「うむ」
「で?何の用事なんですか。明日が大事となれば、早々に休めば良い…」

 佐助が其処まで言うと、幸村は手を腿に打ちつけた。その音に口を噤むと、佐助は顔を起した。

「だから心積もりを今一度」

 幸村は静かに腰を浮かせて、下座に座る佐助の元に膝を詰めてきた。そして正面にくると、佐助の胸元を掴みこんで顔を近づけた。彼の表情には真剣と云う表現しか思いつかないほどに、真剣な色が浮かんでいる。

「死に急ぐな、佐助」
「な…――っ」

 告げられたないように耳を疑った。佐助が反論しようとした瞬間、ぐっと強く引き寄せられた。そして更に幸村は佐助から視線を外さずに詰め寄ってくる。

「死に急ぐな、生き急ぐな、俺の側を離れることはまかりならぬ」
「――今更ッ」

 キッと眦を吊り上げて佐助が噛み付こうとした瞬間、畳み掛けるように幸村は繰り返す。

「聞けッ」
「今更、あんたにまた忍の性質を教えなきゃならないのかよ…ッ」

 (勘弁してくれ)

 頭を押さえたくなるのを隠せない。佐助が軽く受け流そうとしても、この主はそれをよしとしない。軽く、ただ軽く頷けばいいだけなのに、彼はそれが本意であるかを見抜いてしまうだろう。それを知らしめるかのように、幸村は詰め寄る。

「聞き遂げろ、佐助」
「無茶言うなよ…旦那ッ」

 ぱん、と彼の手を払う。そして再び異を唱えようと口を開きかけた瞬間、幸村が体当たりをしてきた。

(え)

 身体全体を預けるように、当たってくる身体を受け止める。強かに背を打ちつけながらも、がつ、とぶつかったのは互いの口元だった。

「旦那…――怪我、しなかった」
「――――…」

 佐助が胸に乗り上げた幸村を起そうと、肩を押すと、幸村は真っ赤になりながら口元を押さえていた。そのことに、ふと気付く。今のは彼からの口付けだったのだ。

 (下手クソだねぇ)

 胸の内で毒づいてから苦笑してみせる。そして佐助は幸村の頬を手の甲でなでてみせた。すると頼りなさそうに眉を下げた幸村が視線を合わせてくる。

「で?何が言いたいの、旦那は」
「俺は…――お前に、生きてほしいのだ」
「だからさ…」
「お前が居なくなってしまうことなど、考えたくない」

 幸村は赤く染めた顔を佐助の胸元に押し付けてきた。今までこういう事には疎いと想ってきたが、なるほど、と納得してしまった。

 (俺に懸想してくれてたって訳か)

 だから幸村は今、この時にこんな風に告げてくるのか。佐助は胸の上に乗り上げる熱い身体を腕を回して抱き締めた。すると幸村の方から逃げを打つように、動き出す。

「旦那、俺とどうなりたい?」
「え」

 幸村に問いかけると、彼は考えていなかったとばかりに瞳を見開いた。勘の鈍さに佐助が膝を動かして彼の腰に当てると、びくん、と幸村は四肢を震わせて、じわりと涙さえ浮べて見せた。
 そんな幸村の首に片腕を掛け、引き寄せながら耳朶に囁く。

「この先を知りたいなら、あんたこそ生きて」
「佐助…」

 幸村の、自分の名を呼ぶ声が湿り気を帯びてくる。佐助は満足気に、ふ、と彼の耳朶に息を吹きかけた。そして低く、掠れた声で追い討ちをかける。

「そうしたら、俺が汚してあげるから」

 言葉の意味は直ぐに解った筈だ。幸村は力をなくして、佐助の胸元に額を押し付けて、ううう、と唸っている。彼のそんな姿に少なからず胸内がざわめき出す。

 (汚してしまいたい)

 綺麗なものだから、だから穢してしまいたい。戦場を知った彼が、正常で居られるかは解らない。戦場の空気に堕ちてくれるのを待つつもりもない。

「だから、俺に穢されるために、生きて」

 幸村の背を抱き締めながら、佐助はそっとほくそ笑むだけだった。





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