「……すけ、佐助!」

 己の名をよばう声に、佐助は頬杖をといた。
 広い忍び小屋の壁ぎわのいつもの場所。任務以外はそこにいることが多い。
 呼んだのはそれを知るものだろう、と、佐助はしぶしぶ目を向ける。そこには、同胞である才蔵がいた。

「……なんだ」

 口のなかだけで呟くように問い返す。

「なんだもかんだもねえよ。昨日帰ってきてから、飯食ってねえだろ」

 なにかが佐助の頭を打つ。膝まで落ちてきたそれを開くと、握り飯が並んでいた。

「そうか」

 佐助は素直にうなずき、食べはじめた。
 思えば、いつからまともな飯を食べていないのだろう。任務中は丸薬だけで餓えをしのいでいた し、昨日帰ってきてからも、報告やら戦の準備やらに忙殺されていた。
 少しずつ飯を口に入れ、噛み締める。忍ぶことに慣れた身体は、すぐに満腹感を訴えた。
 手に持ったそれを置くと、隣に座って同じく握り飯を食べていた才蔵にじろりと睨まれた。

「もっと食えよ」
「いや」
「食えって。もたねぇぞ」
「これがある」

 佐助は丸薬を取り出してみせた。一粒で一日活動できる優れ物だ。

「そういう問題じゃねぇんだよ」

 これ見よがしに才蔵は握り飯を口に運ぶ。佐助はそっとため息をついた。

「それはそうと、主家の弁丸さまが元服だそうだ」
「弁丸さま……次男坊か」
「そうだ。佐助でもさすがに主家のことは気になるか?」

 佐助は首を振った。

「俺には関係ないだろ」

 今度こそ、握り飯の包みを才蔵に押し付け、立ち上がる。

「佐助」

 才蔵も声音から感情を消した。

「後悔するぞ」
「後悔?」

 佐助は唇を歪めた。

「しねぇよ」

 そのすぐあと、佐助は才蔵の言葉の真の意味を知ることになる。








 その日の夕刻、佐助は主である真田昌幸に呼び出された。
 優秀な忍びである佐助が、主じきじきにお召しを受けることは珍しいことではない。しかし、主の隣に少年が控えていることは、初めてのことだった。

「佐助」

 その声は穏やかで、猛将の印象とは程遠い。

「ここなる童は、私の息子でな、まもなく元服させようと思っている」
「はぁ」
「そこでだ」

 昌幸は膝をうった。

「これより佐助にはこやつについてもらおうと思う」
「……はぁ」

 佐助の返答が一拍遅れた。

「私が言うのもなんだが、この子は筋が良い。きっといい武将になるだろう」

 童の頭を撫でながら、昌幸は笑う。
 その童は物怖じせず、じっと佐助を見つめていた。視線はきらきらと輝き、佐助への興味と元服への期待に彩られている。佐助は静かに彼を見返した。

「弁丸である。よろしく」

 子供特有の高い声が、名乗りをあげる。
 佐助も深々と頭を下げた。

「猿飛、佐助にございます」

 才蔵はこの情報を既に手にしていたのだ。佐助は思い返す。情報が遅いことは、忍びにとって致命的である。
 しかし、佐助はこと自分のことに限って、噂話に疎かった。興味がないと言い換えても良い。任務であれば、情報戦に負けるなどという愚はおかさないが、それを決めるのは主である。主命下るまで、待機するのが忍びである、と佐助は考えていた。
 昌幸から命が下ったということは、今後はこの小さな主に判断を仰げば良いということだろう。真田家の当主の子とはいえ、次男坊付きになるのである。出世とは縁遠くなるが、十分な給金さえもらえるならば、佐助は気にしなかった。

「弁よ、なんぞ佐助に初仕事を与えてやれ」

 そんな佐助の性分を知る昌幸は、息子にそううながした。

「なれば」

 童はひとつうなずくと、言葉を紡ぐ。

「生き延びることでござる。戦場でも生きて、最後まで生き残って」
「ちょ、待ってくださいよ」

 佐助は思わず口走った。昌幸が興味深そうに笑んでいるのを見て、わずかばかり頬が熱くなる。
 それでも、子供の突拍子もない命令に、反論をせずにはいられなかった。

「忍びは道具です。使い捨てるものです。必要なときに、必要な分だけ使うものなんです」

 幼子に言い聞かせるように、一言一言、口にのせていく。命に逆らうのは佐助の本意ではないが、その命に従うことも出来はしない。

「この弁丸、そうは思わぬ」

 小さな主は、肩をいからせた。

「佐助は優秀な忍びと聞き及んでいる。そういう者には生きていてもらわねばならぬ」
「そうだな」

 昌幸は童の頭を撫でる。

「しかし、佐助は納得してないようだぞ。弁よ、家臣を納得させるのも、良き武将の務めぞ」

 佐助はあわてて顔を引き締めた。態度に表していたつもりはないのだが、昌幸はその一枚上手をいく。

「うーむ」

 童は考え込んだ。

「そうだ」

 満足する答えが見つかったのか、彼はうなずいた。

「命あるかぎり、お館様とこの弁丸に尽くせ」

「はっ」

 この代替案に反論するところはない。満足げに笑う少年に、佐助は頭を下げ続けた。







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