大河一滴 あの日、政宗が訪れてから程なくして幸村の住まう邸が慌ただしくなっていった。ばたばたと女官や武官達が行き交い、幸村に目通りを願う日々だ。 だが佐助はそんな変化が何を意味しているのかもまだよく解らないほどに幼かった。 とてとて、と小さな足で廊下に出て、蓮の花の咲き乱れる池を通る。すんすん、と鼻を動かしては蓮の香りを嗅ぎ取り、庭に飛び交う鳥を見上げて、陽の鮮やかさに目を細めた。 ――きゅうん。 自然と鳴る鼻に、佐助は目当ての場所に向って、とてとて、と歩いていく。 庭の一角のポーチに彼女が居る――佐助の目指す場所は其処だ。とてとて、とてとて、と歩いていくと、彼女の声が耳を擽った。 「では七日後、出立と…」 「そう通達が来てございます」 「お館様は何れの場所に降り立つおつもりでござろうか…」 「さて…まだその真意は」 対峙している男もまた虎の化身――長い尾がゆらりと動いていた。幸村は常になく身支度を整え、戦装束のままに彼と対峙していた。髪にいつも挿している花はなく、代わりに紅い鉢巻が額を彩る。 ――お話、まだ、終らない。 佐助はそう思うと、すとん、とその場に座り込んだ。小さな身体は容易に蓮の中に紛れてしまう。真剣な顔をしている彼女を遠巻きに見つめ、小首を傾げた。 ――ぴちちち 小鳥が軽やかな泣き声を奏でる。佐助の座っている場所と幸村の座っている場所はそんなに離れては居ない。だが周囲に充満する空気の濃度が違うように感じられた。 「――…ッ」 佐助は彼女と空とを何度か見比べてから、はたりと気付いて立ち上がった。そして蓮沼に足を向けて首を伸ばす。 ――ぽき 一輪だけ蓮の――白い蓮を?ぎ取ると、再び佐助は彼女の方へと向った。沼に突っ込んだままに鼻先は泥に汚れていたが、そのまま、とてとて、と歩いた。 すると今さっきまで幸村と対峙していた男たちが道を通り過ぎていく。それを横によけて見送り、佐助は足早になって幸村の元に向った。 彼女はまだポーチにおり、盤上の地図を眺めていた。 ――と、と、と。 佐助が軽やかな足取りで彼女のそばに近づくと、彼女も気付いて微笑む。 「どうした、佐助。昼寝には飽きたか?」 しなやかな腕を差し伸べられて持ち上げられる。佐助は泥に汚れたままの鼻先を振って見せた。一生懸命に首を伸ばして、彼女の耳元に蓮の花を挿す――すると幸村は驚きに、長い睫毛をぱちりと動かした。 「某の為に?」 こくり、と頷くと幸村は瞳を弧に歪めて頬笑んだ。そしてふわりと柔らかい体に引き寄せられる。 ――きゅうぅぅん 「お前は良い子だ。佐助…まこと、良い、子よ」 ぐりぐりと鼻先を首元に埋められてくすぐったくてならない。佐助が身もだえしていると、幸村は佐助を抱えて掲げた。そして佐助の顔を見てから、ぷ、と笑い出した。 「?」 「お前、鼻先が泥だらけだ。ふふ…ふふふ」 佐助は指摘されて前足を使って顔を拭い出す。だが其れよりも早く、彼女の手が佐助の顔をふき取った。 「佐助…お前は此処で」 「――…?」 「此処で某を待っていてくれ」 唐突に彼女が言い出す。顔を拭かれて見上げると、髪に蓮の花を挿した幸村が見下ろしてきていた。そしてそのまま胸元に引き寄せられる。 「この獣神界で、健やかに…お前には汚れたものなどみせとうない」 「――…?」 彼女の言う言葉は難しくて、佐助には理解しきれなかった。それもその筈で、まだ覚醒したばかりの赤子同然なのだ。佐助は抱きかかえられるままに、彼女の温もりに鼻先を埋め、ふわふわした尻尾をくるりと巻き込んでいくだけだった。 獣神界にあって、子どもの頃は人型になるのも難しいものだ。佐助は小さな――ひと際小さな天狐だった。発育は他の狐達に比べれば少しばかり遅かったように思える。 だがそんな佐助にも徐々に変化は起きる。 ――こん、こん。 朝から小さく咳き込んでいた佐助に、目を覚ました幸村は心配そうに背を撫でてくれた。食事の際にも――執務が忙しくなっているのに、彼女は佐助の小さな背を撫でてくれていた。咳き込みの理由は解らない。けれど病気と云うわけではないと佐助はなんとなくわかってきていた。 「大丈夫か?佐助…ほれ、この薬湯を呑むがよい」 「――ッ、けふん」 「おお、咽たか。焦るでない」 とん、とん、と背中を撫でられて佐助は咳き込み続けた。咽喉が熱くて焼ける様な感じを受けながらも、こんこん、と咳き込んだ。 「――…にゃ、…ッん」 「――…?」 「だん…――ッ、けふん」 「佐助ッ?お前、今、なんと…?」 幸村は背を撫でる手を止めて大きな瞳をきらりと光らせた。金色に光る瞳が綺麗だと思いながら、佐助は覚えたてのように咽喉をならした。 「だん、にゃ…だ…ッ、こほ」 「おおおおお、佐助!もう一息だッ」 「――だん、な…だ、――…ッにゃ」 幸村は何時しか拳を握りこんで咳き込んで言葉を覚えた――発語を始めた子狐に詰め寄っていく。舌足らずに発音されるそれは、幸村のことを呼んでいた。 幸村、若虎、虎若子、真田の旦那――様々に聞いていた彼女の呼び名の中で、それが一番発音しやすかったせいもある。 小さな身体から、まだ幼い子どもの声が響く。一生懸命に口にするのは幸村のことだ――それを幸村は嬉しそうに眺め、佐助の前にすとんと腰を落とした。 ――ふわ。 柔らかい手が佐助の頭に乗せられる。大きな耳との間に手が滑り込み、耳も揉みくちゃにされていく。 「凄いぞ、佐助。お前、もう既に人語を発音できるようになったのだな」 「く?」 「うむ。大したものだ」 幸村はしきりに褒めてくれる。だが語彙的にはまだ佐助は幼すぎた――此処に同じ狐属が居れば、晩成だと言ったに違いないが幸村には解らないことだ。 幸村は佐助を褒めると、きらきらと金色の瞳を輝かせ続けた。 「お前の成長が愛しくてならぬ。この次はどんな成長を見せてくれるのだ?」 「くぅぅ」 ぐりぐりと撫でられながら佐助が小さな足で彼女に乗り上げる。すると幸村はいつものように胸にしっかりと抱きかかえてくれた。鼻先に甘い花の香りが過ぎる。 「お前の成長を見ていたい。大きぅなったら、佐助は…」 「――…?」 「某が、戻ってくる頃には、もう大きくなっているだろうな」 ふと彼女が鼻先を佐助の首元に摺り寄せた。彼女のそんな仕種は珍しい。驚いて佐助は小さな足で彼女の胸をたしたしと動かしながら、そっと細い鼻先を頬につけた。 ――ぴた。 「ふふ…慰めてくれるのか」 幸村は声音も落として佐助の背を撫で続ける。 「お前の成長を見守りたいが…それは叶わぬことになろう」 彼女のこの言葉の意味が解っていたなら、どんなことをしても引き留めた。だがこの時の佐助にはそんな知識も何もなかった。 邸の外ではいつでも出立できるように整えられており、支度も進んでいた。幸村が下界に下る時が、刻一刻と迫ってきていた――出陣が近づいてきていた。 →next 100603~100911up |