大河一滴



 ――あれは別れの言葉だったのかな。

 さわさわと柔らかい風が頬に触れる。花の香りをその身体一杯に満たしながら、幸村は溜息をついた。湯船の上に広がる花びらを追いかけて、佐助はぱしゃぱしゃと泳ぐ。
 湯船の中で幸村は身体を伸ばしたり、潜ったりを繰り返し、時々佐助に湯をぶつけたりしてみる。そうして一緒に湯浴みする時には、中で十分に遊んでしまうので時間が掛かるものだった。

「お前とこうして寛ぐのも此れが終いか…」

 ぱちゃん、と花を咥えて湯から顔を出した佐助に、幸村は物憂い言い方をした。
 泳ぐのも十分に上達したと幸村は佐助を褒めた。口元に花を咥えたままで幸村に向けると、彼女はたわわな胸元を揺らして屈みこんだ。

「ほれ、お前が挿してくれ」
「く?」

 いつもなら指で掬い取る彼女だが、佐助が背伸びをして――彼女の肌の上に、小さな前足を乗せて、必死で髪に花を飾るのを待った。

「きゅっ…」

 彼女の髪に花を挿したと思った瞬間、ぐらり、と身体が傾いだ。佐助はそのまま背後の湯の中に、ばっしゃん、と落ちてしまう。

 ――ざぶ。

 慌てて湯の中から顔を出すと、きょとん、とした彼女が眼に入った。大きな金色の瞳が、すう、と細くなり、そして次の瞬間彼女は声を上げて笑い出した。

「まこと…まこと佐助は愛らしい」
「くぅ…」

 豪快に笑う彼女の元に、すいすい、と身を寄せると彼女は佐助が沈まないように引き寄せてきた。
 湯の動きに合わせて花が流れる――それを見送りながら、この花は何処まで流れていくのだろうかと小首を傾げた。

「のう、佐助」

 彼女は片腕で湯を掻きながら、花びらを同じ流れに乗せる。

「明日、某はお館様に従い、この獣神界を下る。お館様の元にて某はこの腕で二槍を振るい、この爪と牙を持ってお館様のお役に立とうと…」
「――…」
「其処に迷いはない。迷いは…だが、未練がある」
「――…?」

 彼女が何を言おうとしているのか、この時の佐助にはまだ理解しきれなかった。幸村は軽く頭を左右に振り、それから濡れたままの佐助の身体を引き寄せると、湯から引き上げていった。
 彼女の肩越しに見る湯殿に、花びらがゆらゆらと浮いていた。色取り取りの花びらが、水の流れに――波紋にそって漂う様を、ただ子狐は見つめるだけだった。








 朝が来て、必ず隣には美しい神女が居る――その彼女を起こすのは自分の役目だと思っていた。だがその日、佐助が目覚めると既に彼女の姿はなかった。
 いつも髪に挿していた花が、そのまま彼女の寝台の側に置かれたままで、佐助は広い寝台の上で小首を傾げた。

 ――おかしい。

 佐助の小さな心臓が、厭な予感に飛び跳ねた。
 目が覚めて彼女が側で寝ていなかったことは、時々あった。だが直ぐに彼女の気配を感じるはずなのに、其れが全く感じられない。

 ――とん。

 寝台から軽やかに降りると、佐助は屋敷の中をくまなく探し始めた。屋敷の中はいつもと変わらない――いや、数日前まであった慌ただしさや、血気盛んな声が聞こえない。どこか不気味に穏やかで、佐助は誰の制止も振り切って屋敷から飛び出していった。
 脳裏にはいつもの優しい彼女の姿しかない。
 微かに鼻先に触れる花の香りを辿って、佐助は必死で駆けていた。何処をどう駆けたかは覚えていない。気付けば、軍勢の横を並行して走っていることに気付いた。
 小さな佐助の姿は彼らの眼には届かなかった。

 ――ざざざざざ

 神馬に乗る彼らに追いついて、小さな体に宿る力を思い切り絞り出した。目指す先には必ず彼女が居ると信じて疑わなかった。

 ――あ。

 不意に視界に紅い色が見えた。
 ぱちり、と瞬きをしてそれを認識すると、佐助の胸が大きく跳ねた――彼女だ。
 後ろ姿に、長い髪がはためいて、赤い衣に身を包んだ彼女の額には鉢巻があった。そして彼女の背には二槍が背負われ、きらきらと光る瞳が金色に輝いていた。

「――…っな、――ッ」

 並行に走りながら、出せるだけの声を出した。
 何度か呼び続けて、そして弾かれるように彼女が振り返った瞬間、佐助は大きな声で叫んでいた。

「旦那――――――ッッッ」

 思い切り叫んだ勢いで、列から外れる。それに気付いた幸村が慌てて隊列から身を躍らせ、神馬から跳ねた。

「危ない…ッ!」

 云われて気付いた先、それは佐助に迫った危機を知らせるものだった。
 減速してしまった佐助の背後に迫る神馬の蹄――それから護ろうと、彼女の腕が伸び、そして突き飛ばした。

 ――どん。

 全てが緩やかに見えた気がした。

「あ」

 小さな声を上げて佐助が転がる。それと同時に、迷う事無く下界に落下していく彼女が見えた。

「――…ッ」
「幸村様ッ!」

 これには流石に他の者達も気付いた。先導していたお館でさえも減速するほどだが、神速で動いていた彼らに、どれ程の減速が出来ただろうか。

 ――旦那…ッ!

 佐助は迷う事無く、落下していく幸村に追いつこうと飛び込んだ。眼には、ただ紅く映える彼女の衣が、ひらひらと動いて見えていた。只管足を動かして佐助は彼女を追って加速しながら落下して行った。




 彼ら獣神が下った先、それは人間界に他ならない。
 軍列から外れた幸村はそのまま行方知れずとなり、それを追って行った子狐もまた人知れず行方を眩ましていった。








 序章完結:→炎天・奏天

100603~100911up