大河一滴



 彼は「また来る」と言っただけあって、足しげく彼女を訪れるようになった。その度に佐助は気が抜けない。だが竜神は怖い――それでも彼女を護るつもりで背筋を張っていた。

「政宗殿は下るに足る何かを、お知りになったので?」
「俺だってただの戯れ言なら聞きゃしねぇよ」

 政宗は寝台の前にある卓にあった茶を飲み込む。それを見計らって、彼女は寝台から、ぎしり、と音を立てて身体を起こすと、流れるような動きで彼の側の椅子に座った。佐助もまた彼女の動きについていく。

「ではなにがしかの確証があると?」
「まぁ、端的に言えばそうだ」

 政宗は背後に控えていた小十郎に視線を向ける。すると小十郎は静かに低頭してから、この部屋の入り口へと身を退けた。
 幸村が座ると、佐助は足に力を入れて、ひょい、と彼女の腿に乗り上げる。彼女の手は直ぐに背に添えられて、ゆるゆると撫でてきた。

「話に聞いたんだけどよ、イザナギとイザナミが国作りしてんだってよ」
「ほう…」
「下ってみねぇか?」
「ご冗談を」

 ――それだけで下れる筈がございますまい。

 くすくすと笑う幸村は一向に相手にしない。だが政宗もそこで諦めるわけではなかった。ぎ、と音を立てて椅子に背を預けて、にやりと口元を吊り上げる。

「そうくると思ってたぜ」
「お館様がお許しになりますまい」

 幸村は静かに卓上の茶に手を伸ばし、菓子を口に運ぶ。かり、と半分に噛み切った菓子を――半分を膝に乗っていた佐助に向けてきた。
 佐助は鼻を、すんすん、と鳴らしてそれを確かめ、ぱくん、と口に入れた。

「西の元就と元親も下るらしいぜ?」
「ほう…水神と海神までもが?」
「面白くなりそうなんだがな」

 ――臥竜でさえも動くつもりなのに、この虎は何時になったら動く?

 政宗は幸村をじとりと睨みながら――だが口元に笑みを残したままで問う。すると政宗の瞳の瞳孔が、すう、と縦に細くなったように見えた。

 ――ざわ。

 一瞬にして佐助の背の毛が逆立つ。漏れてきた殺気に、びりびりと身体を裂かれるようだった。しかしそれに直ぐに彼女は応えた。

「某、眠り猫でございますゆえ…」

 くすくすと咽喉の奥から零す笑みが、彼の殺気を消していく。だが見上げた先の彼女の瞳は、夜の闇の中で光るかのように、きらりと金色を弾いていた。佐助はそれを見上げながら、きゅう、と鼻を鳴らすだけだった。








 佐助と名づけられた子狐は、すくすくと成長していく。やっと赤子の蒼い目が膜を外し、きらきらと陽の下で光るようになった。だが佐助は他の天狐のどれとも違って、碧に光る瞳を持っていた。彼女はそんな佐助の瞳を覗き込んでは、綺麗だ、と褒めてくれた。

「お前の瞳は光にすけて緑に見える。まるで宝石のようだの」
「くぅ?」

 うつ伏せになった彼女が指先を伸ばして、つん、と佐助の鼻先に触れてくる。敏感な鼻先に触れられてぎゅっと目を瞑ると、彼女はくすくすと笑いながら尻尾をくゆらせる。

「佐助、しばし遊ぶか?うん?」
「――?」

 ひょい、と小さな身体を抱き上げられ、床に下ろされる。見上げると彼女は細くしなやかな足をひらりと組んで、その先から長い尻尾を揺らめかせた。

 ――ぱたぱた。

 目に飛び込んできた彼女の尻尾の揺らめきに、両足を使って飛びつくと、ひょい、とかわされる――そして反対側に再び、ぱたぱた、と動かされるものだから飛びついて、またかわされる。そんなじゃれあいを繰り返している間に、いつもの足音が聞こえて来た。

「幸村、邪魔するぜ」
「貴方様も飽きもせず、ようお越しになりまするな…」

 ばさりと開け放たれた天幕に、彼女の髪に挿してあった花びらが、ひらり、と一枚落ちた。佐助はそれを取ろうと、ぴょん、と飛び上がり、受け損なって床にころころと転がっていった。そして見上げると政宗がこちらを見下ろしている。

「よう、チビ。息災そうだな」
「――――っ!」

 竜神の金色の瞳に見下ろされて、ぞわ、と総毛立つ。佐助はばたばたと起き上がると慌てて幸村の方へと駆け込み、彼女の膝に飛び乗った。膝に乗りながら、ぷるぷると震える足で政宗を威嚇する。

 ――くるるるるるる

「また一人前に威嚇しやがって…偶には歓迎しやがれ」
「これ佐助、そういきりたつでない」
「くるるるる…っ」
「大丈夫、某なら大丈夫ぞ?」

 柔らかい彼女の手に胸元に引き寄せられる。たわわな胸元に背をとられて、ぎゅっと抱き締められると、佐助の震えもおさまった。鼻先に花の香りが迫る。

「で、今日は何用でございますか」
「遂にだ」
「――…?」
「武田のおっさんが下るってよ」
「何と?」

 ――がたッ。

 幸村の瞳が、すう、と細くなる。金色に光る瞳の中で、瞳孔がすっと細くなった。それにあわせて彼女から、ぶわりと闘気が沸き立った。

「落ち着け、幸村」
「落ち着いてなどおられますまい。お館様…お館様が滾られ、下界に下るのなら、某もお供せねばなりますまいッ」

 ぐっと拳を握り締める彼女の胸に引き寄せられたまま、佐助は瞳をぱちぱちと瞬きさせた。慌ただしく首を廻らせて、政宗と幸村のやりとりを見守った。
 今までは関心を示さなかった幸村が、尻尾をぱたぱたと動かしている。そして伺うような気配が消え、今にもこの場が戦いの場になるのではないかという別の高揚した空気が湧き上がる。

「幸村、俺達の瞬きの間に国は出来ていく。出来た国がなっちゃいねぇって、武田のおっさんと軍神が奮起しやがった」

 徐々に幸村の表情がきらめていく。彼女が闘神であることを物語るように、気配が変化する。幸村は佐助を褥に下ろすと、にぃ、と口の端を吊り上げた。

「では某も従わねばなりますまい」
「そこでだ。ゲームをしねぇか?」
「ゲーム?」

 政宗が腰に手をついて提案してくる。

「神でも、獣でもなく、人として下るんだ」
「そのような天下り、聞いた事もございませぬ」

 ふ、と幸村が怪訝な表情をしてみせる。眉根を寄せて――しかし政宗の方を見つめたまま、視線を反らさない。
 カツカツ、と足音を立てながら政宗は近づいてきて、ぐ、と幸村の方へと隻眼を向けた。声を潜めながら、彼女に迫る。

「だからゲームだ。人に紛れてみねぇか」
「しかし…」
「なぁに、瞬きの間のことさ。遊べると思うぜ?」
「――…」

 言うや否や、ふい、と政宗は彼女から身体を離した。そして近くにあった椅子にどかりを座ると、片肘をついて褥の上にちょこんと座っている佐助に視線を流した。

 ――ビクッ。

 竜神の視線に晒されて全身が総毛立つ。佐助がかたかたと震えながらも、逃げずにその場に座っていると、幸村はくるりと踵を返して褥の上に座っていた佐助をかかえあげる。そして鼻先に頬を摺り寄せた。

「時にその子狐、どうしたよ?」
「これですか?」
「ああ…随分とちいせぇな」

 ――威嚇しなけりゃ可愛いじゃねぇか。

 物珍しそうに政宗は頬杖を付きながら聞いてくる。幸村はすりすりと佐助の細い鼻先に唇を滑らせながら、背中を手で撫でていく。
 佐助の緊張を解こうとしているのだと直ぐに気付いた。彼女と云う大きな存在に護られながら、佐助はきゅっと身を縮めるだけだった。幸村は佐助を抱き締めたまま、政宗に告げる。

「これはダキニ様よりお預かりしました、天狐です」
「天狐?」
「そう…親とはぐれたらしく。某がせめてもの慰めにと預かり申した」
「へぇ…美味そうだな」
「食させはしませぬ」
「可愛がってんのか?」
「ええ…随分と愛らしゅうござる」

 そうか、と政宗はただ呟くだけだった。そして何かを言いかけた瞬間、外から小十郎に政宗が呼ばれる。

「さて帰るとするか。おい、幸村」
「はい?」
「今度逢う時は下界だな?」

 立ち上がった政宗は直ぐに背を向けた。そして顎先だけを此方に向けていた。

「…そうでござるな」
「手加減はしねぇ」
「某とて」

 背を向けあう二人の声はどこか楽しそうだった。そしてこれが、ことの発端――穏やかな時間の終わりを告げていた。









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