大河一滴 間近に顔を近づけた政宗を、じっと伺うようにして凝視していた彼女が、ふ、と緊張を振り解いた。そして胸元に抱いた子狐を再びゆるゆると撫でながら、優雅に――ゆったりと言葉をその唇に載せていく。 「なんとまぁ…政宗殿ともあろうお方が、下る、と?」 ――何の冗談でしょうか。 くく、と幸村は喉をならしながら笑いだした。それはまさしく嘲笑に近い笑みだった。 政宗はそれでも冷静に先を続ける。彼はどうにかして彼女を道連れに下界に下りたいのだろう。 ゆるゆると背を撫でられながら、子狐は彼女の金色に光る瞳を見上げ、そして振り返りながら背後の竜神に視線を動かす。 ――この男は危険だ。 子狐は自然と感じ取った感覚からそう思っていた。ぶるぶると背を震わせ、毛を逆立てて威嚇していると、彼女が「そう猛るでない」と諌めてくる。 だがどんなに彼女に諌められても子狐の警戒は解かれはしなかった。 「どうしたのだ、これ」 じたばたと手足を動かして、彼女の胸元から飛び出すと、子狐は小さな――本当に小さな身体を前に推し、彼女と政宗の間に仁王立ちになった。 毛は逆立ち、尻尾もふわりといつもよりも太くなる。 ――くるるるるるるるるるる。 精一杯の威嚇で彼に向って睨みつける。まだ瞳も青く、幼さを残している子狐は、足元をぶるぶると震わせながら政宗を威嚇した。 「へぇ、幸村よ。こいつ、一丁前に俺のこと威嚇してんぜ?」 「――政宗殿が意地悪なことを仰るからでしょう?」 じり、と試しに政宗が一歩前に出ると、子狐はびくんと肩を震わせる。 ――怖い。 本当は目の前の竜神が恐ろしくてならなかった。自分はただの子狐だ――目の前の竜神の指先で捻り潰されてしまうだけの存在だ。 実力差など雲泥の差で、適う道理も無い。それでも彼女の危険を察知して、子狐は精一杯の威嚇をするだけだった。 「Ha!嫌われちまったか」 子狐の尻尾がふるふると下に下降しかかると、政宗は鼻先で笑いながら、くるりと踵を返した。 「政宗殿…」 「また来るぜ」 ひらり、と背を向けた彼は、何の未練もないかのように立ち去る。その足音が遠ざかり、垂れ幕がばさりと落ちると、急に子狐はへなへなとその場に腰砕けに座り込んだ。 「よう、この幸村を護ってくれたの」 腰砕けに座り込んだ子狐に、ぎし、と座っていた台から降りた彼女が両手を伸ばす。 ただ威嚇するしか出来なかった自分を、ひょいと抱き上げて、ゆらゆらと尻尾をくゆらせていく。 彼女からは花の甘い香りが漂っていた。両手を伸ばした彼女は自分のたわわな胸元に子狐を抱き上げると、頬を摺り寄せてきた。 「偉かったのぅ…さぞや怖かっただろうに」 くぅ、と鼻先が鳴る。すると彼女は背をなでながら、ゆったりと歩き出し、庭に出て行った。 ぱあ、と広がる庭先には、蓮の花が咲き乱れている。空は曇ることもない。明るい陽の元で見上げた彼女の瞳に、きらりと金色が光って見えた。 「お前はどう思う?」 「――――…?」 「某は…――」 彼女の胸に抱き上げられながら、ゆらゆらと尻尾を揺らしていると、彼女は途端に口をつぐんだ。訝しく見上げた子狐に気付いて、ふ、と視線を落とした彼女は、少しだけその流麗な眉をゆがめただけだった。 この時もう既に彼女は決めていたのかもしれない。今ならそう思えるのに。 「お前に名前をつけてやろう」 寝台の薄い天幕を指先でひらひらと弄びながら、彼女はこ狐に告げてきた。随分と長くかかってしまったな、赦せ、と告げながら、彼女に引き寄せられるままに子狐は枕元から、小さな手を動かして移動した。 まだ歩くのもそんなに上手くはない。前足を少しだけ前に出すような歩き方で、ぺたぺたと進む。そして彼女の胸に両手足を、ぺた、と添えると、たわわな胸がふるりと揺れた。だがそれに構わずに、上半身を乗り上げ、後ろ足をじたじたと蹴り上げる。 「ふふふ…可愛らしいのぅ」 必死で彼女の上に乗り上げて、匍匐前進しながら鼻先を寄せる。 きゅう、と甘えるように啼いてみせると、彼女は両手で細く小さな身体を抱き寄せて、鼻先に唇を寄せてきた。 彼女からは甘い花の香りがしていた。 「さすけ」 「きゅ?」 「佐助など、どうであろうか」 彼女のくれるものは何でも受け取るつもりだった。厭は無い。子狐は、くうくう、と鼻先を彼女に摺り寄せると、ぎゅ、と抱き締められた。 「そうか、では佐助にしよう」 くう、と鼻を再び鳴らす。そしてふかふかの尻尾をくるんと立てて見せると、彼女は身体を横に向けて子狐――佐助を自分の首元に引き寄せた。一度ころんと褥に落ちた佐助は、よたよたと彼女の方に向う。そして甘えるようにたわんだ胸の合間に鼻先を埋めた。 「ほんにお主は甘えっこよの。母御が…乳が恋しいか?」 「く?」 「母御…か」 苦笑しながら彼女は、はあ、と溜息を付いた。そして再び眠りに落ちていく。静かな寝息を聴きながら、佐助もまた彼女に顔を――身体を摺り寄せて、甘い花の香りに瞼を下ろしていった。 →next 100603~100911up |