大河一滴



 昔、まだ神神が国創りをしているほどに、太古の昔、神の座す神界は穏やかだった。
 神界にあって、どこからどこまでを西と言うか定かには測れないが、東の位置より西――その先は獣神の治める地だった。
 蓮の花の咲き乱れる館の一角にあって、彼女はゆるゆると腕に抱いた子狐を撫でていた。
 まだ鳴き方も知らぬ程に幼い狐は、時に戯れに彼女のたわわな胸に鼻先を埋める。そうすると調度頭が彼女の顎先に触れ、きゅうと抱きしめられていく。
 緩やかに音を奏でるかのように、彼女の尻尾が揺れる――そう、彼女もまた獣神であり、半獣の姿をしていた。
 柔らかな耳は丸く、長くしなやかな尻尾は、彼女の腰に巻き付けられている。
 時折、瞳が金色に光り、かつ、光の具合で緑にも光る。
 子狐はこの半獣の神女を慕って止まなかった。

「お前に直に名を与えねばな」

 彼女は鋭い牙を有する口許を、ふわりと微笑ませて告げてきた。手は静かに頭から背に撫でており、その感触がどこまでも気持ちよかった。

「そうさな…なにが良いか…」

 悩む素振りも見せずに、彼女は歌うように告げてくる。撫でられる感触が心地よくて、うっとりと瞼おろした。

「ふふ…眠いか?ん?」

 蓮の花に囲まれた館の部屋の一角で、彼女は日がな一日、子狐を愛でていく。時には遊ぶ姿に声を立てて笑い、時には共に鍛錬へと連れたって行く。何処に行くにも子狐を放さなかった。
 その日もまたいつもの如く、麗らかな日差しの中で、横になった彼女は子狐を愛でていた。触れる手が背に滑り、くうん、と鼻先を寄せると彼女は同じように顔を近づけてから、ふふふ、と笑う。

 ――ばたばたばた。

 聞きなれない足音に子狐がぴくんと反応する。小さいながらも金属の奏でる音に、くるる、と威嚇を見せる。すると彼女は子狐を自分の胸元に寄せて、よしよし、と耳元に囁いた。

「恐れなくて良い、あれはたぶん…」

 ばさ、と部屋を仕切っている垂れ布が払われる。
 子狐が毛を逆立てていると、外の光を背負った甲冑姿の青年が眼に入った。蒼い、鱗のような甲冑に、牙のような装飾――その姿はいまにも戦いに赴くかのようだった。

「よう、昼行灯してるか?幸村」
「これはこれは、お久しゅうござる。政宗殿」

 彼女はそう言うと余計に子狐を自分の方へと引き寄せた。子狐はじたばたと手足を動かして、彼女と入ってきた男とを見比べていく。

「無作法でございますぞ、政宗様ッ」
「うるせぇな、小十郎」

 彼の直ぐ後から駆け込んできた男に、青年がうんざりしつつ応える。そしてそのまま勝手に彼女の横たわる褥の側に辿り着く。

「龍神の政宗殿と、その従者の雷神までもいらっしゃるとは…何事かありましたか?」

 二人の姿を視止めて彼女が振り仰ぐ。しかし体勢は変えず、声音も変わることもなかった。ただひとつ変化があったとしたら、それは子狐を撫でる手が止まったくらいだった。

「暴れたくねぇか、幸村」
「――…」

 青年は腕を組んで横たわる彼女を見下ろす。問いかけた声は部屋中に響くほどに明瞭だった。
 ぴん、と子狐の耳が立った。同時に彼女のしなやかな尻尾が、ゆらゆら、と揺れていく。元々戦い好きの戦神である彼女だ――反応しない訳はなかった。

「天界、神界、獣神界…戦がなくなってどれくらい経つ?」
「かれこれ数百年でござろうか」
「俺はもう飽きた。お前もそうじゃないのか?」
「某は…お館様に、誓いを立てて居ります故、私事で争いは出来申さぬ」

 はあ、と溜息をついて彼女が瞼を下ろす。子狐が鼻先と彼女に近づけると、彼女は自分の鼻先を付けて、柔らかく微笑んだ。
 きゅう、と鼻を鳴らして子狐が彼女の胸元に背をくっ付ける。そうしている間も子狐の警戒心は解かれてはいなかった。

「だからだ」
「――…?」

 カッ、と彼の足が音を立てる。そして身をかがめて彼女に顔を近づけた。すると彼女は今にも牙を剥きそうな程に彼を睨みあげていく。だが彼は彼女の瞳を見返してから、すい、と口の端を吊り上げて嗤った。

「暴れる時が来たのさ」

 ――下ろうじゃねぇか。この獣神界を。

 囁くように告げてきた言葉――その意味を、子狐は理解することは出来なかった。ただ彼女に危機が迫っているのだと、警戒することしか出来なかった。








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