居酒屋長曾我部



 入社して五年ほど経ったころ、工事事務所の所長に毛利元就は就任した。
 勿論若くして所長となるのは珍しく、同期の中では自分ひとりだった。中にはよく言わない者も居たが、元就は全く気にせずに仕事に没頭していたくらいだ。それよりも何よりも、仕事の鬼とでも言うべき素振りさえあったくらいだ。
 だが普段の元就は、他の社員達と同じように、薄緑の作業着を着て、頭にはヘルメット――元々、猫毛気味の髪の毛はいつもヘルメットに押し潰されて、ぺたん、となっていた。
 工事事務所というだけあって、事務所自体は掘っ立て小屋――プレハブで出来ているものだから、夏は暑く、冬は寒いといった悪条件だ。
 所長ともなれば、もっと良い待遇があるかのようにも思えるし、ドラマの中の仕事風景は作り物だけあって、どれも綺麗なものばかりだ。それに比べると自分の居る場所の粗雑さに、首を傾げてしまうのも頷ける程だ。
 しかし元就には、これと言って不満は無かった。
 仕事はどんなものでも構わない――仕事が終わった後に、美味しい酒と肴があれば良い。毎日の仕事の帰りのささやかな楽しみだ。
 終業時刻を知らせる音楽――学生時代の時と同じ、チャイムなのが懐かしさを誘うが、それを聞くと一度時計へと視線を移した。確実に時間が終業時刻を指しているのを確認すると、元就はデスクの上の書類を、とんとん、と揃えてから引き出しに入れ、鍵をかける。

 ――そろそろ皆に周知するか。

 今さっきデスクの中にしまった書類の中には、ひとつの封筒が入っていた。
 まだ正式に申し送りされている訳ではないし、内示の段階だ――年度末のこの時期には、本社から役員が来て、説明してくれる。

 ――長いといえば、長かったか。

 ふと時計を見上げてそう感じた。ふ、と呼吸をひとつ吐き出してから、元就はデスクから離れた。
 仕事が定時で終わるのは珍しい。元就ひとりで仕事をしているのなら、毎日でも定時には終えられそうな物だが、そうとも言い切れないのが現状だ。

 ――職種柄、天候にも左右されるしな。

 デスクの上のPCのブックマークには、気象庁のページが入っているくらいだ。
ヘルメットを外して元就は一振り頭を振った。中で篭っていた熱が放出されて、少しばかり寒々しく感じるが、指先を髪の中に入れて手櫛で払うとそれも直ぐに元に戻っていった。
 着替えを済ませて事務所を出ようとすると、調度仕事を終えたばかりの社員達とすれ違う。軽く二言、三言、と言葉を交わしてから、元就は先へと足を進めた。

 ――美味い酒と肴。

 それが日々の楽しみだ。元就は慣れた道筋を少しばかり浮き足立ちながら進んでいく。
 今日は何処の店に入ろうか――そんな風に考えて、試行錯誤していたのは昔のことだ。今ではお目当ての店がある。
 元就は市街の繁華街の一角、大通りから横に逸れた場所にある店の前に立った。
 見上げると大きな木の看板が、これでもかと存在を誇示している。店の大きさよりも看板の大きさの方が大きいような気もするが、全体が蔵のような様相をしている店からしたら、違和感はない。

 ――しかし、この看板、どうにかならんか。

 元就は店の前に立つと、その看板を見上げて毎回そう想う。以前聞いたところによると、その看板は店主の手書きだというではないか。
 お世辞にも上手いとは言い難い、横に凪いだような荒々しい字体が店を飾っている。

 ――カララララ。

 溜息をひとつ吐いてから元就は入り口の戸に手をかけた。

「いらっしゃいませーッ!」

 戸を開けると中から熱気が込み上げてくる。直ぐに店員が気付いて声をかけてくる。声をかけてくる店員は皆笑顔で、手に大皿を持ってばたばたと動いていた。
 外の喧騒も、この店の中の熱気には敵わない。

 ――今日も繁盛しているようだの。

 元就は周りをくるりと見回してから、店員が来るのを待った。その間に来ていた上着を脱ぎ、腕にかける。春先とは言え、まだ外はひんやりとした空気があったが、中は暖かい。
 店員を待っていると程なくして腰を低くした男が、小走りに入り口に来た。客を待たせないのが気持ち良い。

「いらっしゃいませ〜ッ!お、毛利の旦那じゃありゃあせんか」
「いつもの席は空いているか」
「勿論ですよ」

 店員は元就に気付くと、にっかりと歯を見せて笑った。そして、くるりと首を廻らせるとカウンターの中に向って声を張り上げた。

「アニキーッ、毛利の旦那がいらっしゃいましたぜッ」

 店員の肩越しに、元就が少しだけ背伸びをして中を窺うと、カウンターの中に立っていた男が、入り口に向って腕をひらりと振り上げた。

「ご案内〜ッ」

 カウンターの中の男の、腕一振りを確認してから店員が声を張り上げる。すると他の店員達も一緒になって「ご案内」と合唱した。

「いつもながら、仰々しいの」
「まあ、そう言うなや」

 カウンターの隅の定位置に座ると、直ぐに先程手を上げた男が前に立った。そして、ことりと小さな小鉢を前に差し出す。
 中を覗きこむと里芋の煮物が三つ、其処にちょこんと入っていた。

「お疲れ様。今日は結構早いんだな」
「うむ…頂くとしよう」

 お絞りで手を拭いてから、箸を取り出す。そして手を合わせてから、里芋を口に入れた。すると微かに味噌の味が口の中に広がった。里芋のほくほくとした絶妙な甘さと、味噌の塩辛さ、それが咥内に広がると、余計に食欲が刺激されていく。

「なぁ、それどう?いつもとは違う味付けにしてみたんだぜ?」
「うむ、うむ!なんとも美味…これは美味しいのう。余計に腹が鳴りそうだ」
「そうか、そうか。良かった、あんたの口に合って」

 かかか、と白い歯を見せて笑いながら、彼はカウンターに乗り出してきた。
 間近になる男の顔立ちは、どこか精悍なのに、人好きのする雰囲気を醸し出していた。彼の微笑みに合わせて、きらりと紫紺の瞳が細くなった。
 銀色の髪には白い帽子が乗っていることもあるが、今日は手ぬぐいが巻きつけられ、額が微かに出ていた。
 白い服に、紫色のラインが裾に入っている。上から下までを見てみれば、彼の足元は下駄だ。彼が方向転換するときには、かこん、と下駄の音がする。
 さもすると彼の動きに視線を奪われかけてしまうが、元就はハッと気付いて小鉢の中身をつつくのを再開した。一口大の里芋が三つに、彩を添える青菜が手前に入っていた。それらを味わいながら咀嚼してから、空になった小鉢をカウンターの上に差し出すと、彼は元就が食べ終わるまで頬杖をついてみていたようだった。

「何だ?我の顔に何かついているか?」
「いいや…あんたさ、ホントに…正直だよな」
「――――?」
「美味いもの喰ってる時は、眉間の皺が消えるぜ?」

 ふふふ、と楽しそうに彼は話す。店員と客としてのこの関係で、これだけ砕けた物言いをするのが、無礼と云うよりも好意的に感じてしまうのは、たぶん彼の人徳だろう。
 彼はこの店の店主で、長曾我部元親という。
 気軽にこうしてカウンターの中に居り、話しかけてくる。風体をみればまだ年若く、店主であると言われなくては解らないほどだ。
 元就は身を乗り出して、少し高い位置にいる彼を見上げた。

「長曾我部…今日のおすすめは何だ?」
「今日はな、鰹がいいのが入ってるぜ。それからやっぱり春って言ってもまだ肌寒いからなぁ。温まるように、具沢山のけんちん汁風煮物とか揚げ出しとか、お勧めだぜ」

 他のテーブルを見やれば、メニュー表が置かれている。だが元就の席にはメニューは置かれていない。

 ――メニュー表を見たのは、最初に訪れた時くらいか。

 おたまを手にしつつ、元親は勧めてくる。元就は勧められるままに頷いた。

「ではそれを貰おう」
「酒は?」
「いつものを熱燗で」
「おう、了解」

 にか、と元親が嬉しそうに笑うと、同じカウンターの中の板前が軽く口笛を吹いた。それに合わせて店内を巡っていた店員たちが「アニキーッ」と歓声を上げる。
 単純にここの店員は店主の事を慕っているのが伺える。だがそんな応援に元親は、くわ、と大口を開けると叫んだ。

「野郎共、こんな処で油売ってねぇで、お客様のご案内行きやがれッ」
「アニキー!頑張ってくださいッ」
「何がだ、何がッ!」

 さもすれば黄色い声援ならぬ、ドスの利いた声援が飛び交いそうになる。元親はほんのりと目尻を染めながら叫ぶが、手元は器用に動かしており、すとん、と元就の前に煮物が置かれた。
 元就は早速とばかりに箸を動かしていく。

 ――これもまた美味。

 ぱくぱく、と口に蓮根や牛蒡を運び、舌鼓をうつ。そうしている間にも香ばしい香りがし、目の前に生姜醤油・塩・ポン酢の入った器が置かれ、メインとばかりに鰹の叩きが現れる。

「はいよ、好きにタレつけて食ってくれや」
「勿論だ」

 元就はポン酢につけてから、ぱくり、と口に鰹を運んだ。今将に作り終えたといったように、元親は手を洗っていた。

「お待たせしました〜」
「うむ」

 背後から熱燗が運ばれてくる。元就はそれを手に取り、くい、と喉に流し込んだ。

 ――やはり、酒に合う。疲れが癒えるというものだ。

 ふ、と小さな吐息を吐きながら元就は鰹と酒を交互に煽っていった。




 この店との出会いは、今と同じような寒い時だった。
 それは、この地に赴任する少し前、出張でこの地に訪れた時だった。それもまだ肌寒い時期で、暖まりたいと思ったのがきっかけだ。暖かいものを食べて、酒でも流し込めば、勝手に体が発熱する。そう思って元就は店を探していた。
 そして、ふらり、と目に入った看板と暖簾――気づけば、ひょい、とその暖簾を潜っていた。中に入って、とりあえずとばかりにビールを頼んだところ、カウンターの中から声をかけられた。

「お客さん、今日は寒いから熱燗にしとかない?」

 ――日本酒、駄目なら仕方ないけど。

「頂こう」

 断る理由は無い。元就は即答した。すると元親は少しだけ瞳を大きく見開いてから、にこり、と頬を隆起させた。酒で駄目なものはないので、ふたつ返事で元就は答えた。あの時のお通しは、蛸と胡瓜の酢の物だったのを覚えている。
 さくさく、と胡瓜の食感を楽しんでいると、目の前で酒を暖める元親が声をかけてきた。

「俺さ、お勤めしたことないから解んねぇんだけど…此処では眉間の皺ぁ解いてよ…寛いでいってくれや」
「……ッ」
「な?」

 自分に話しかけているのだということは明白だった。元親は元就の前に、とん、と其の日のお勧めだった揚げ出し豆腐と、捌いたばかりの御造りを差し出してきた。
 ほわ、と湯気を立てる揚げ出し豆腐に、活きの良さそうな魚――ごく、と咽喉が鳴った。元就の顎先よりも少し上に位置するカウンター部分に手を伸ばし、皿を受け取ろうとすると、元親は手伝うように自分の手を添えた。

 ――あと数センチ。

 それは本当に数センチだった。指先が皿を介して触れそうになる。すると元親は驚いたように手を引っ込めた。

「おっと…触るとこだった。すまねぇな」
「いや…気にしてはいない」

 手に透明な皿を持ち、元就は彼を見上げた。そうしていると焦ったように、さかさかと元親は口早になりながら、刺身用の醤油を差し出した。まるで照れ隠しのようだった。
 元親は自分の袖口に鼻先を近づけて、すん、と鼻を動かしてみせる。

「いや、今魚捌いたばかりだからよ。俺、臭ぇし」
「そ…そんな事はないぞッ!」
「……ッ」

 ――がたッ。

 勢い余って椅子から立ち上がると、意外と大きな音が店内に響いてしまった。しかも其の日は、週末のような賑わいは無く、店内の注目を集めるには、調度良いほどだった。
 今度は元就の方が居心地悪く、辺りを見回す。すると店員や客の視線にぶつかる。元就はがたがたと椅子を動かして、口篭りながら座る羽目になった。

「あ…いや、その…、深い意味は無いが…――」
「ありがとよ、お客さん」

 つい、と嬉しそうに元親が頬杖をついて身を乗り出してくる。彼の柔らかい紫紺の瞳に見つめられながら、元就は手元に拳をきゅっと握った。

「毛利元就…元就だ」
「うん?」
「我の、名、だ…」

 元就は徐々に俯いていってしまう。落とした視線の先には、まだ手をつけていない揚げ出し豆腐が、食べてくれと言わんばかりに湯気をほわりほわりと上らせていた。湯気を見つめながら、元就は高鳴りだす鼓動に気付いた。

 ――名を教えるだけで、こんなに恥ずかしいとは。

 今までこのように緊張する自己紹介があっただろうか。
 初めて入った店でこのような予想もしない出来事に見舞われた。それが印象的だったというのは事実でもある。どきどきとしながら反応を待っていると、ほ、と詰めた息を開放する声が聞こえた。

「そっかーッ」

 ――俺は長曾我部元親。以後、ご贔屓に。

 瞳を細くするほどに笑んだ元親が、そう言って身を乗り出してきた。それだけで場の雰囲気はすっかりと柔らかいものに変わって行っていた。
 元就の緊張に高鳴る胸が、ほわり、と解かれていく。しかも出された料理のどれもが口に合う――というよりも、どこか家庭的なのに、斬新で、飽きることがない。

 ――何度も来たくなるのも頷ける。

 勧められるままに様々に箸をつけ、酒を呷り、気付けばこれほどに心地よい食事はいつ振りだろうかと思うほどだった。
 そしてそれから仕事帰りの食事の際には、ふらり、と足がこの店に向くようになっていた。
 目の前に出された熱燗を手に取り、ゆっくりと咥内に酒を流し込むと、ふう、と元就は吐息を吐き出しながら、最初の注文分を全て食べ終わり、ご飯ものが食べたい、と目の前にいる元親に言い募り始めていた。

「そういえばな、春だってのに、外は雪が降ってたぞ」

 店に入る前に、ちらちら、と空を彩っていた白い雪を思い出して言うと、元親は眉根を少し寄せて、腰に手を宛がった。片手には包丁を持っており、彼の目の前のまな板には魚が乗っている。

「へぇ〜ッ!そりゃ、難儀なこったな。かく言う元就も仕事、それで押したりしてるんじゃねぇの?」

 しゃ、しゃ、と手元を動かして鱗を取ったりしながら、元親が気遣って話す。こうして世間話のように話をするほどの仲になっているのが不思議なくらいだ。微かに彼の予想が的中しており、元就は頬杖をついて見上げた。

「…やはり解るか」
「まぁね」
「建築工業系となれば致し方あるまいて」

 くい、と再び酒を咽喉に流す。外は冷えていた――こんな日にはやはり彼の薦めるように、熱燗の方が身体の芯から温まるような気がする。
 ゆったりと寛いでいると、ボウルに味噌を取り、擦った胡麻を取り、かんかん、と渇いた音を立てながら元親は手際よく調味料を作っていく。
 そして、ふいに後ろを振り返りながら、同じ板前に声をかけ、指示を出していく。時には、訪れる客に合わせて「ご案内」と一緒に叫んでみたりもする。そうこうしているというのに、間を感じさせずに元親は直ぐに顔を元就の方へと向けて、ふい、と熱燗のお代わりを差し出した。

 ――どうして気付いたのだろうか。

 調度、もう一杯と思っていたところだった――頃合を観て注文しようとしていた処だったが、先に彼に気付かれていたようだ。一応、目の前にお代わりを置いてから、元親は「違った?」と確認を込めて聞いてきたが、元就は首を振ったことは今のところ無い。
 彼のこの気配りの良さには脱帽するくらいだ。元親は両腕をカウンターに組んで乗せると、かこ、と足元の下駄を弾かせて音を立てた。そして揶揄うように、だが楽しそうに片方の眉を吊り上げながら、元親は咽喉の奥で笑った。

「あんたが来てから、仕事増えたんじゃねぇ?」
「どういう意味だ?」
「あんたが有能ってこと」
「――――…ッ」

 つい、と人差し指を向けられて、どき、と軽く胸が跳ねた。元就が手酌で酒を注ごうとすると、それを上から取り上げて、ととと、と元親は空になっていた元就の盃に酒を継ぎ足した。そして、くい、と徳利を上に上げて雫を切りながら、上目遣いになりつつ微笑みかけてきた。

「褒めてるんだぜ?」
「ありがたく、受け取っておこう」

 こく、と頷きながら元就は咽喉に酒を流す。褒められるというのは気分が悪いはずも無い。口の中で笑いと共に酒を堪能していると、不意に元親が板前に呼ばれて身を起していった。直ぐに戻ってきた元親の手には、丼としゃもじがあった。

「元就、どれくらい喰う?」
「その丼にたっぷり頂こうか」
「はいよ。やっぱ、食べっぷり良いよな。作るほうも嬉しい限りだぜ」

 にこにこしながら、元親は丼に白飯を入れていく。ほわわわ、と米の炊けている良い香りが鼻先に触れてくる。どうしてこうも食べ物の香りと云うのは気持ちを高揚させるのだろうか――元就は心なし背を伸ばして、次に出てくるものが何であるのかを伺う。
 観ているとどうしても魔法のようにさえ見えてしまうが、どんぶりに、ぱら、と元親はあられを振り撒いた。そして更に海苔を載せ、今さっき捌いていた鯛の切り身を乗せ、再び海苔、そしてその上に、表面を炙った鯛を飾りつけるように載せると、先程調合していた味噌を載せる。
 そのまま匙を取り出して、元親は元就の目の前に丼を置いた。横には出汁の入った器が追加で置かれる。
 鯛茶漬けだ――元就は、このまま食べて良いのか、と問うと、元親は食べ方を最初に教えてくれる。
「最初は出汁をかけずに、ちょっと喰ってみて。炙った鯛を堪能してから、出汁かけてよ、さささ、と掻き込んでくれ」

「あい解った。では、頂くとしよう」
「その間に俺はデザートでも準備しておくぜ」

 朱塗りの匙をくるりと手にとって、元就は手元の鯛茶漬けへの攻略にかかった。言われるままに、最初は出汁をかけずに食べてみる。

 ――味噌と胡麻というのは、合うものだな。

 鯛の香ばしさもさることながら、合わせ調味料が、甘辛くアクセントになっている。ほわほわと頬の辺りが膨らむような気がしてしまうくらいに、美味しい――これがいわゆる『ほっぺたが落ちる』というものか、としみじみと感じ入りながら、残っていた熱燗をさらりと咽喉に流した。
 そして、次に出汁をかけてみる。勿論そこまでくると、あとはさらさらと掻き込むだけだ。

 ――縁起担ぎとは言え、今が朝でなくて良かった。

 建築業をしているせいと云うこともあり、朝には茶漬けなどは食べないようにしている。朝にそれをしてしまうと「一日の全てが崩れてしまう」という縁起担ぎだ。
 米を崩して食べる、という行為が、崩れてしまう、というところに通じるという。そんなの迷信だ、と云われてしまえば其処までだが、こうした縁起担ぎくらいは、思わずしてしまうものだ。
 じんわりと染み入る胡麻と味噌の味、それに鯛の歯ごたえを堪能していると、かこ、かこ、と下駄の音が響いてきた。
 その音で元親が目の前に来たという事がわかる。既に出された丼の中は、ほぼ空になりつつあった。

「ほらよ、今日のデザートだ」
「これは、シャーベットか?」
「そ。柚子シャーベットに、ブラマンジェ。こってりした食事の後には、やっぱりさっぱりしたもんがいいだろ?」

 薄緑の和風な皿に載せられたデザートには、赤い木苺のソースが彩るように飾られている。元就はそのデザートを見ると、最後の一口を勢い良く掻き込んだ。
 あと少しと想いつつも、口の中は一杯になってしまう。
 頬袋があればよかったのにと思ってしまうほどで、元就は指先で口元をそっと押さえ、膨らむ頬を、むぐむぐ、と動かした。

「ふ…ふふふ」
「――……?」

 目の前に立つ元親が急に笑い声を立てる。どうしたのかと顔を上げて小首を傾げると、元親の後ろにいた板前も微笑ましい笑みを此方に向けていた。

 ――どうしたというのだ?

 何が彼を笑わせたのか解らず、元就が思考をめぐらせながらも、もぐもぐ、と口を動かししていると、元親がカウンターに片肘を乗せた。
 横からの視線でじっと元就を見つめ、ほわ、と口元に暖かい笑みを携える。瞳を彩る銀色の睫毛が、笑いと共に浮き出た涙で、くっきりと濃くなっていた。

「元就、あんたって本当に美味そうに飯を食うよな」
「む…そ、そうか?」

 もふもふ、と少し嵩の減った口元を動かしながら応えると、元親は嬉しそうに頷く。

「それだけ美味そうに喰われると、板前としては作り甲斐があるってものよ」
「ふむ…――というよりも、実際に、そなたの…」

 こくん、と口に全て入っていた物を嚥下し終わると、最初に出されていたお冷を咽喉に流す。そして空になった丼を両手で抱えながら、元就は先を続けた。

「そなたの作る料理が、いたく美味なのだ」
「――…ッ」
「我は嘘をつかぬぞ?殊、食べ物に関してはな」

 ――此れを楽しみに日々を過ごしているようなものだからな。

 真面目に元就は伝えていく。出て来た言葉は真実ばかりで、隠していることなどは一切なかった。
 すると元親は足元に視線を動かして、タオルを巻きつけた頭を手で軽く、かしかし、と掻いて見せた。
 かこかこ、と足元の下駄が音を立てている――元就の視界には、銀色の髪の下から見える肌が、ほんの少しだけ朱を帯びているように見えた。

「アニキ、アニキ、頑張ってくだせぇ」
「そうですよ、アニキぃ」

 こそこそと元就の耳にも聞こえるように、周りの店員が口元に手を添えて彼を励ます。同じカウンターの中の板前も、肘で彼を突いたりを繰り返している。

「あ、空いた皿…貰うな」
「うむ、鯛茶漬け、美味しかったぞ」
「うん…ありがとよ」

 頬を指先で掻きながら元親がはにかむ。空になった丼と入れ替えに、デザートの皿を受け取り、今度は小さな朱塗りの匙を手にした。
 先にシャーベットの方から口に運ぶと、冷たさと甘酸っぱさで、きゅう、と咽喉が鳴った。

「あ、あの…よ」
「何だ?」
「今日は勘定、良いよ」

 シャーベットを全て食べ終わった後に、元親は視線を横に流しながら告げてくる。元就はこくりと咽喉を鳴らして飲み込むと、形の良い片眉を寄せた。

「そんな事は出来ぬ。馳走になっているのだからな」
「それがよ…本当は仕事とプライベート、分けなきゃって思っているんだけどよ」

 ああもう、と頭をがしがしと掻きながら歯切れ悪く元親が告げてくる。元就は聞きながらも、ぱくん、とブラマンジェに匙を入れていた。

「一緒に、休みの日にさ…」
「――…」
「買い物で良いっていうか、観光…いや、ドライブで良いからさ…」

 もじょもじょ、と歯切れ悪く言う彼は初めてだった。こうしてカウンター越しに話をするようになり、ほぼ友人と言っても過言ではないほどに砕けた物言いをするようになったというのに、今更ながらに元親が元就を前に緊張しているのだ。
 仕種に微笑ましさを感じて、ふふ、と笑いを零すと、今度は唇を尖らせて元親が身を乗り出してきた。

「笑うなよ。俺今、一応あんたをデートに誘ってるんだぜ?」
「それは済まぬな。真剣な姿が、つい…な」

 いつもはもっと歯切れ良く、何処其処に行かないか、という誘いだ。休みの日には日頃できない家事や、休むほうに専念しているので、殆どを断ってきていた。
 其のことを不服に思っているのか、元親は唇を尖らせたまま、つんとしながら続ける。

「だって何度誘ってもあんた素っ気無いのにさ。それでもうちに来てくれてるって事は…期待してもいいのかな?って」
「経緯はどうあれ、飯が旨いのは変え様が無いからな」
「ありがとうよッ」

 べ、と軽く元親の口元から舌先が見える。そして彼は「また駄目かぁ」と一人ごちながら、かくん、と頭を下げて項垂れた。

「誘われてやろうか」
「え…――?」
「その、デート、とやら…誘われてやろうかの」
「ま、マジですかッ!」

 がたん、と伸び上がって元親が声を張り上げる。瞳を大きく見開いて、きらきらと輝かせている。ほわほわと頬が染まってくるのが、大きな身体には不釣合いで、思わず笑いが零れた。だがそれよりも彼の背後から、店員達の歓声が響いた。

「やったぜ、アニキーッ!」
「遂にですねッ!アニキーッ」
「おう、ありがとよッ!ってか…こら、見せもんじゃねぇぞッ」

 元就の背後の店員に腕を振り上げて応える元親に、他の客までもが――訳もわからずに、ぱちぱち、と拍手を送ってくれる。ぺこぺこ、とおどけるように元親は頭を下げてから、へへ、と鼻先を指で擦った。

「…顔が笑っているぞ、長曾我部」
「だって嬉しいんだもんよ。しかたねぇだろ?」

 元親は手を伸ばして苺を掴むと、食べかけの元就のブラマンジェの上に、ちょこん、と載せた。そして詳細を決めて、即座に携帯でアドレスを交換すると、元親はしきりに「楽しみ、楽しみ」と浮き足立ちながら繰り返していった。
 そんな彼の様子を見つめていると、胸がきゅうと締め付けられる。
 仕事帰りに、美味しい酒と肴があればいい――そう思っていた。
 だが其処には、いまや彼の姿を見られる、という特典もついていたようだ。それもかなりの比重を持って、元就の心に存在が強く刻まれていたようだ。きゅん、と締め付けられる胸元に、そっと手を触れさせてから、元就は追加で貰った苺を、ぱくん、と口に運んだ。甘酸っぱさが咥内に広がり、今の気持ちと同じようだと思った。




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2010.03 HARU.C.C/110306 up