Oasis



 どれくらい駆けていたのか、長いような、短いような――それもまた元親の胸に抱えられて数えることが出来なくなっていた。

 ――ぐ。

 不意に抱き寄せる力が強くなり、息苦しいとさえ感じ始めた。元就が顔を起そうとした瞬間、視界に焼きついたのは蒼白な元親の顔だった。

「長曾我部、貴様…」
「やっべぇな…俺としたことが、ドジ踏んじまった」
「――――…ッ」

 ぽた、と落ちてきたのは元親の汗だ。じっとりと肌に脂汗を浮かせながら、元親は蒼白になっていた。様子が尋常ではないと元就が手綱に手を伸ばした瞬間、ひゅ、と空をきる音が響いた。だがそれと同時に守るように元親が元就の身体を自分の身体で隠した。

 ――ザッ。

「長曾我部ッ」

 庇われる言われは無いと怒声を響かせようとする。だが、今度は汗ではなく、鮮血が降り注いでくる。

「血が足りてねぇってのに…酷ぇことしやがるぜ」

 振り仰げば、馬上の元親の顔の右半分までもが赤く染まっている。白い肌に、まるで彩を模したかのように、赤赤と彼の鮮血で染め上げられていく。

「貴様はもう下がっておれ。後は我に任せよ」
「そうは行くかよ…」
「何だと…?」

 手綱を元親から取り上げようとすると、元就の手を阻んで後ろから元親が覆いかぶさってくる。ふ、と耳元に荒くなっていく元親の呼吸が――その奥で、ひゅう、と掠れた音が響いているようで、厭な予感がしてならなかった。

「同盟国の国主くらい守れなくて、何が…西海の鬼だ。俺は一度言ったことは曲げねぇ…ッ!防壁に…――盾になるとお前に約束したじゃねぇか」
「それは策略の上でのこと。既にここでは無効化しておるわ」
「しゃらくせぇ…ッ!俺は、俺の意地でこうしてるんだ」

 ――黙って護られてろ。

 掠れた声で叫ぶ元親が、ぎりぎりと歯軋りをしていく。彼にしてみても敵に突破されたのが癪に障っているのだろう。鉄壁だと――自負していた布陣を破られたのだ。彼は精魂こめた武器さえも打ち壊されたのだ。腸が煮えくり返っているのが窺える。
 だが、赤く肌を染めている相手が、足手まとい以外の何物にもならないことを元就は知っていた。手負いがどれだけの事ができるというのか。

「侮辱するでないわッ」

 ばっ、と振り解く勢いで元就は元親から手綱を奪い取る。そして背後に向って叫んだ。

「我を誰だと…我は毛利元就ッ!日輪の申し子なり…ッ」
「ハッ…!」

 ははは、と繰り返し咽喉を震わせる元親が、じゃきん、と碇槍を手にしたのが解った。前方には乱戦を強いられている戦場がある。

「その威勢、後はあいつらにかましてやろうぜッ」
「言われるまでもない…」

 中央突破だと、一気に馬を駆け込ませながら、再び戦場へと舞い戻る。其処に勝算があったのかと聞かれれば、珍しく「考えていなかった」と答えるしか出来なかった。
 己らの誇りと意地――それだけが、突き動かすものだったように思えた。








 長引いた戦況の中、足を引き摺る元親を再び肩に抱えながら、元就は山を登っていた。此処までくれば、戦火は遠く――だが残党がいないとは限らなかった。

「長曾我部、我にはお主を抱えていくことなど、もう出来ない」
「なら、置いていけ。俺を軽くしてもいいぜ?」
「馬鹿を言うな」

 再び戦場に戻った自分たちに――転機が訪れたのは、敵が撤退を見せた際だった。
 これは延長戦になると踏んでの撤退だ。だが、そのどさくさに紛れて大きく振り下ろされた刃に、元就が押し潰されそうになった。
 視界が暗くなって、まさか、とさえ思った瞬間、ふわりと暖かいものに包まれた。
 それが、長曾我部元親の腕だと――彼に庇われたのだと気付いた瞬間、声にならない絶叫を上げそうになった。
 何処をどう歩いてきたのか解らない。こんなのは敗走と変わらない。それなのに、気付けば元親を抱えて元就は必死で逃げてきていた。

「俺、重いだろ…?」
「貴様、もう喋るな。此処で果てる気か」
「だから棄ててけって…」
「出来ぬ」

 叱咤を繰り返しながら元就は前だけを見つめ続けた。思った以上に元親の顔は白い。それもその筈で、元就が気付かなかっただけで、彼の背には矢が突き刺さっていた。

 ――馬上での奇襲。

 それに気付かなかった己に、苦虫を潰すくらいしか出来ない。知っていれば、あの時に既に彼をこの戦場から遠ざけた。

 ――我の失態よ。

 認めたくはない。だが認めざるを得ない。だからこうして自分を庇った彼を捨て置けなかった。棄てたはずの心が、こんな時に情に訴えて、どうしようもなかった。
 ぎしぎしと元就の肩に、身体に重圧をかけてくる元親の身体に、ぜえぜえ、と咽喉が喘鳴を響かせてくる。

 ――重い…

 くん、と唾液を飲み込むと、すまなそうに元親が告げてきた。傾しがっていく身体が、ずるずると地面に近くなる。

「毛利よ…棄てられないなら、軽くすれば良い」

 ――手でも、足でも、捨ててさ。

「黙れ、少し…」

 何を言い出すのかと、厳しく叱咤する。するとそのまま元親は、ずるりと身体から力を抜き払い、地面にその身体を落としていった。

「長、曾我部…あと少しだ。だか…ら」

 ――いま少し、耐えよ。

 気を失ったのだと、理解しているのに、そう告げる。そして元就は眼前に見えてきた小さな東屋に、ほ、と胸を撫で下ろしながら、彼の身体を抱えて其処まで這うようにして向っていった。





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