no reason



 ――忘れたことなど無かった。



 低頭する先から聞えるのは、変声期を過ぎた青年の声だった。だがその声の響きに何処となく聞き覚えがあるような気がして、佐助はただ嫌な予感に胸をざわつかせていた。
 ひそひそと囁きあう兄弟の声を遮るようにして主君である真田昌幸が宣言する。

「これより、その方が仕えるは真田…」

 しゅ、と衣擦れの音が響く。昌幸の言葉に合わせて前に進み出たのだろう。

「真田源次郎――幸村だ」
「は」

 ぐ、と一際頭を深く垂れた。あと数ミリで床に頭が着く――しっかりと磨かれた床には自分の瞳さえも映っている。佐助はただそれをじっと見つめながら応えるだけだった。
 昌幸の声が幾分か柔らかくなる――それが息子への言葉と気付いて耳を澄ませた。

「幸村よ、こやつが以前より申しておった漢よ」

 相槌を打つ音にあわせて、しゅ、と再び衣擦れの音が響く。

「貴殿が噂に名高い、猿飛佐助か」
「――…」

 名を呼ばれたがまだ顔は上げない。しっかりと床に映った己の瞳を見詰め続けていた。これから仕える相手――真田幸村は変声期を過ぎたであろう声で、だが何処か心躍らせているかのような――浮き足だっているような――響きをその声に滲ませていた。

「面を上げよ」

 す、と目の前に影が出来る。近寄ってくる気配には気付いていたが、まさか上段から此処まで来るとは思って居なかった。
 佐助の直ぐ近くに藍色の袴の色が見える。どうやら彼は片膝を付いているようだった。佐助は促がされるままに、ゆっくりと顔を起こした。

 ――嘘だろ…。

 目の前に居た人物の顔を見て、一瞬にして言葉を失った。
 佐助の目の前に片膝を付いていた青年は、あどけなさを含んだ笑顔で此方を見詰めてきていた。意志の強そうな黒い瞳に、柳眉、そして薄い唇が全体を絶妙に飾っている。
 見詰めているだけで吸い込まれそうな瞳で、彼は佐助に微笑みかけてきた。

「某は真田源次郎幸村。以後、宜しく頼む」

 はっきりとした声が響いた。だが佐助は言葉を返すことが出来ず、再び深く低頭するだけだった。

 ――忘れたことなんてなかった。

 じわりと脂汗が滲んでくる。佐助は一刻も早くこの場から立ち去りたい衝動に駆られ続けていった。










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