狐の恩返し 慌ただしく戦の準備が整えられていく。それを横目に見ながら佐助は忍隊の者たちの部屋に向かった。とことこと狐の姿のままで移動してから、部屋の前でふわりと人型に戻る。それから戸に手を掛けて開けると、才蔵が苦無を磨いている所だった。 「あんたの爪で切り裂くのが早いんじゃない?」 「それはそうだが、命があるまでは人の得物で戦うのが習わしだ」 「そんなものなの?」 忍隊の一員として戦うのはこれが最初になる。いや、戦自体が初めてだ。遠巻きに見ることはあっても、こうして自分が戦うのは初めてだ。 「才蔵、ちょっと聞いていい?」 「なんだ?」 「――人を殺めるのに、躊躇いはあった?」 佐助が膝を詰めて座り、軽く問う。それは至極簡単に出てきた問だったが、才蔵は手を留めて顔を上げた。じっと見つめてくる黒い瞳が、佐助に何かを訴えかけてくるようだった。だが直ぐに才蔵は瞳を伏せてから、尻尾を揺らした。 「お前、初めてか?」 「――人、は…初めてかもしれない。獲物を探す時とは違うだろ?だから…」 「生きるために屠るのではないからな。同じとは言えない」 しゅ、と苦無の刃を磨く手が再開する。 幸村の力になりたくて、幸村の傍に居たくて、その為に何もかも投げ出す覚悟はできている。だけれども、覚悟と、決意とは違うものだ。 守りたいもの――その為に穢れることなんて、厭うつもりもなかった。いつかは相手が気付いてくれると、信じるだけのものが互いの中にはあると思っていた。 だけど、その守りたいものも、同じように何かの為に穢れ、そして同じように周囲には輪を齎していく。 ――もし、俺が旦那のためだと言って人を殺したら、旦那はどう思うんだろう。 同じように屠ってきたから、褒めてくれるだろうか――いや、彼はそんなことはしない。清廉な人だ、もしかしたら己を厭うかもしれない。 「俺さ、よく解らなくなってきた。手柄と、人殺しと、どう違うんだろうって」 「――俺たちが考えることじゃない」 「でも」 「俺たちは何だ?妖だ、そして…真田忍隊だ」 磨き上げられた苦無が全て布の上に下ろされる。鈍く光る刃――これらがどれほど血を吸って来たのかしれない。こくり、と佐助の咽喉が鳴った。 「――――…」 「闇に紛れ、忌み嫌われることもしなくてはならない」 「――…」 「それを忘れるなよ、小僧」 才蔵の手が佐助の頭に触れる。陽光では金色に輝く髪をふわふわと手が動いていく。佐助は静かに頷くと、片膝を立てて抱え込んでいった。 「幸村様、支度は順調に整いましてございます」 「そうか、海野、ご苦労」 音もなく現れた朱雀に幸村が労いの言葉を向ける。戦の支度は簡単には整わないものだ。だが彼らが尽力してくれるお蔭で予想よりもはるかに早く終わった。 手元に動かしていた筆をおいてから、幸村は顔を上げる。すると待ち構えていたかのように、海野が湯気を立てる茶と菓子を目の前に差し出してきた。 それに手を付けて、ぱく、と口に運ぶ。しばらく口の中で転がしてから飲み込んで、もひとつと手を伸ばした。 「なぁ、海野…」 「なんでしょうか」 「佐助をな…連れて行くと決めたのだが、大丈夫だろうか」 「――何をおっしゃいますか」 ――今更、でございますよ。 ころころと笑う海野の眼は笑っていない。口元だけで笑うなんて、なんて器用なんだ、と思うしかない。 幸村は脇息を引き寄せて凭れかかると、何度もため息を吐いた。 「どうしてだろうな…目の届かない所へは置いておきたくなくて、連れて行きたいと思ったのが最初だ。それが戦場であろうと、連れて行きたいなどと…離れては居たくない」 「それは幸村様があ奴を好いておいでだからでしょう」 「だが…不安だ」 「――…」 「傍に置いて、失うことになるんじゃないか…そうでなくても、俺に幻滅するのではないか、と」 齧っていた二個目の饅頭が、半分のままで彼の手に弄ばれている。幸村の中にも葛藤はある。だが現状で彼を忍隊のひとりとして戦に連れて行くと決めた以上、覆すことも出来ない。くるくると半分齧ったままの饅頭を転がして幸村がため息を繰り返す。 ――とん。 「佐助か?」 小さく海野が声を掛ける。廊下からした音に誰何を向けると、静かに佐助が姿を現した。一度山に修行に出て戻ってきてから、身体だけは成長して既に元服を迎えた頃と変わらない。背丈だって幸村と変わりなく――むしろ少し追い越しているくらいだ。 だが彼にとって人の戦場は初めての筈であり、初陣となる。 「どうした、佐助…」 「あの、旦那にちょっと話を」 「では私は席を外しましょう」 す、と海野が立ち上がる。それと入れ違いに佐助は幸村の前に座ると、幸村をじっと見つめてから、ぼりぼりと頭を掻いた。 「あのさ、旦那…――」 「なんだ?」 「少し、怖気づいている、って言っても良い?」 幸村の予想は的中していた。佐助にとっての初陣――それを彼がどのように受け止めるのか、気になっていた。 「怖気づく、ってのはちょっと語弊があるか…あのさ、俺様は旦那の為になりたくて、旦那を守りたくて、それで修行してきたけど」 「うむ…」 「でも戦に出るという事は、色々辛いことを経験するということになると思う。だからね、口約束だけでもいいんだ、どうか…俺を嫌いにならないで」 佐助と幸村との距離はそんなに空いていない。手を伸ばせば、届く程の距離だ。だが此処で手を伸ばして抱きしめることはできなかった。 佐助は徐々に背を丸めて俯いていく。彼の蜂蜜を垂らしたような、金色にも輝く髪が、ふわりふわりと俯いて動いていく。 「俺様を、キライにならないで。俺は、たぶん旦那の思っているかわいい狐なんかじゃなくて、ずっと醜く、地を這ってでも生き残ろうとすると思う。獣ってのはそんなものが根本にある。だから…」 ――つ。 手を伸ばせば届く場所にあって、佐助の言葉を遮ったのは、扇の先だった。促されるままに顔を起こすと、幸村が自分の扇を閉じたままで佐助の口元に向けていた。 「それ以上言うでない」 「――…」 「修羅に巻き込むは俺のせいでいい。だから、俺とお前は共犯だ。どんな姿でも、どんなことをしようとも、俺は佐助を厭いはせぬ」 「旦那…」 「だからな、どうか…お前も」 つ、と扇が下ろされた。そして、幸村は手元に扇を引き寄せると、両手でぐっと握りこむ。まるで何かをこらえているかのような素振りに、佐助は自分の膝に手をついたままで身を浮かせた。少しだけ腰が浮いて乗り出してしまう。 ――どき。 ゆっくりと上げられた幸村の瞳は、どこか憂いがあった。見つめられただけで胸元が高鳴り、わずかに身体が震えてくる。どきどきと鼓動が強くなって身体が知らずに震えてくる。指の先から冷たくなるのを感じながら、佐助がじっとしていると、幸村が今度は手を伸ばしてきた。でも顔は背けて、こちらから外してしまう。 「――…」 開かれた掌が其処に有って、何度か幸村の手のひらと彼の――こちらには向けられていない顔を交互に見て、それから佐助はゆっくりと掌に手を重ねた。 同じように冷えてしまっている手が、握り合うたびに少しずつ熱を生んでいくのが解った。 「この手を、放したりはせぬ」 「うん」 「一度でも俺は、自分の懐に招いたものは裏切らぬ。もし裏切ったら…」 「大丈夫、そんなことしない。俺は旦那だけ、目指して何処までも行くからね」 手を、指を絡ませて、ただそんな風にして話した。口約束かもしれない。でもこの不安な状況では少しの言葉も気休めになるものだった。 出陣に当たり、先陣を切る幸村の傍らには家臣と、それを空から別働隊で従う真田忍隊が行軍する。ほどなく向かった戦場で、佐助は血が沸き立つような感覚を味わうことになった。 「ほら、地上に下ろすからな」 「俺様の足で来た方が早かったと思うけど」 抱えられていた佐助は少しだけ膨れ面だ。自分の足には自身がある。だがそれを許されずに抱えられた時には、少しだけ不満があった。 だが地上に下ろされて直ぐ、佐助は戦場を眼にすることになった。 ――これは何だ…。 びりびりと肌が張り詰める感覚が上る。それに合わせて、地面から鳴動が聞こえる。その音の――震源が何かを瞳を向けて確認することは、想像を逸する場を目撃することに他ならなかった。 「これ…は…――」 とん、と隣に真田忍隊の面々が降り立つ。彼らの気配を感じても動けない。 「ああ、今日も猛っておられる」 「我らが主、此処にあり」 静かに忍隊の面々が陶酔を含んだ声音で告げる。佐助の五感にはこれが危険なものあると警告してくるものがあった。知らず竦んでしまいそうな足を、ぱん、と片手で叩いた。 「ウオォォォォォォォォォォォォッッッ!」 獣然として咆哮を上げるのは赤い背中。 手には二槍を持ち、その背には赤い鉢巻が風に翻り、そしてこの緊張を生み出している本人からは、人とは思えぬほどの気が発せられていた。 ぞくぞくと腹の奥底から込み上げてくる感覚を、何と表現したらよいのだろうか。 「皆の者、某に続け――ッ!」 ――オオオオオオオオオオオオオオォォ!! 大地を鳴動させて軍勢が動く。 振り返った彼の背に、佐助もまた地面を蹴って行くだけだった。 →next 120219up |