狐の恩返し 肩越しに振り返った幸村の顔は、恍惚としていて、辺りに上がる戦火に余計に恐ろしさと、美しさが兼ね備えられていた。 ――これが、真田幸村。 二槍を振う姿はまるで鬼だ――これが人のなせる技なのかと、佐助は咽喉をごくりと鳴らした。 「佐助ッ、着いてきているかッ?」 「もちろんッ!」 手には大手裏剣がある。真田忍隊の面々に教えられた通りに人の得物で戦う。あれほど戦や、人を斬ることに拘って、ぐだぐだと悩んだというのに、いざ目の前に死地が迫ると考える暇など無くなった。 ごぉぉ、と二槍から溢れだした火炎が辺りに漂う。その傍で才蔵や海野が戦っているのが目に入った。 「うおおおおおお、火焔車ぁぁぁぁぁッ!!!!」 一度に薙ぎ払われる兵の数は数えきれない。その圧倒的な強さに、この人が敵でなくて良かったとさえ思ってしまった。佐助は素早い動きで相手を仕留め、足場を蹴って旋風のように凪ぐ。 ――ザン、ザン、ザン! まるで流れるかのように薙ぎ払う間は、頭の奥がひんやりと冷えて、周りがよく見えて仕方なかった。ともすれば血臭に、ぐるる、と咽喉の奥が鳴りそうになってしまう。 ――す。 目の前が急に黒くなった。それに気づいて、足場をぐっと踏み鳴らすと、佐助は顔を上げた。 「逸るな、バカ」 「才蔵…――」 「お前、今、目が獣に戻ってたぞ」 「え、うそうそッ!っちゃーっ、かっこ悪りぃ」 両手で額を押さえると、ふふ、と才蔵が上から笑ってきた。そうしている間にも彼の手に握られている忍刀が、キィン、と敵の刀を弾き飛ばしている。 「はぁッ!」 ――ドゴォッ! ひと蹴りで才蔵の周りから敵の兵が薙ぎ払われる。その威力を眼にして、こいつも凄い、と何故か胸のあたりがむずむずとしてきていた。獣の本質とでも言うのか、血が沸騰しそうに騒いでいる。身体が急に軽くなったかのように思える。 ――まだ俺様、戦える。 まだまだ戦いたくて身の内が疼く。戦前の、あれほど悩んだのが、遠く遥か昔の事のようにさえ思えた。 この真田の陣には自分たちもいるし、何より幸村の存在で、大きく押し返されることもない。前進を続けて行く陣営に、勝ち戦、という言葉が脳裏を霞めた。 「拙いな…――」 「ああ、拙い」 だが、海野に甚八は渋い顔で背中合わせになると、口をそろえて言った。佐助と才蔵の居る場所と離れているとはいえ、獣の耳だ――しっかりとその言葉が聞こえた。 ――何が拙いんだ? 陣営は前進している。このまま本陣と合流すれば、相手を鶴翼で挟み込めるではないか。それを小助が上空から査察しているのも知っている。 だが佐助の脳裏に描いている陣営の先行きと、彼ら年長者の意見は違うのだろう。目の前に迫る敵を凪ぎながら、口出しせずに才蔵と足並みを揃えた。 すると海野が一度空を仰いで、それから幸村を呼んだ。 「幸村様ッ、お許しをッ!」 「――…ッ!」 海野の声で幸村が振り返る。彼の動きに合わせて、返り血がまるで真っ赤な花のように散っていくのを、佐助は一瞬だけ時間が止まったかのように眺めた。 海野の声に幸村が反応する。 すらり、と二槍が天に掲げられ、白刃が陽光に煌めいた。 「真田忍隊ッ!」 ぐ、と胃の腑にまで響く、重量のある声に、びりびりと肌が威圧されていく。だがどうしてか、身体の奥底から湧き起る震えが愛しくさえ思えてならなかった。 隣で才蔵が小さく、下知だ、と告げてくる。佐助には初めての事だが、彼らには待ちに待った瞬間だ。 「いざ、揮え――ッ!!」 「ウオオオオオォォォォォォッッッ!!」 幸村の声に重なるようにして咆哮が響く。それと同時に才蔵の手足が本性のそれにとってかわり、爪が大きくせり上がった。そして上空には翼を広げた朱雀が二人、火焔を地上に落とすべく構えている。それだけではない――鬼としか思えない二人の入道が幸村の背後を守るように立ち上がっていく。 「これ…って、もしかして」 「佐助、お前も本性見せろ」 「あ、ああ…――っ」 才蔵に促されて佐助も己の本性を出す。手裏剣などもはや必要ないとばかりに腰に納め、風を纏いながら身体を躍らせた。 そして直後、阿鼻叫喚の絵図が仕上がっていくのを、どこか遠い世界の事のように感じながら、佐助はその爪と牙を揮っていった。 戦は勝ち戦となった。あの一瞬、真実は相手に誘いこまれている戦況だった。それを圧倒的な力でねじ伏せたと言っても良い。お蔭で武田の主家からの信頼も篤く、帰陣する足取りはどれもが軽かった。 しかし後悔とは後からやってくるのが定石で、あの時の自分の獣然とした態度や、周りの目まぐるしい戦況にただ圧倒された。 ――これが普通になるのか。 こんな風に戦に赴くのが当たり前の世の中で、こうして何かを屠って、生きていく。その事を考え出したら止まらなくなりそうだった。 ――ぽん。 不意に頭に大きな手が降りてきた。見上げると其処には根津甚八が居る。なんだろうかと振り仰ぐと、わしわしと撫でられた。 「なんだよ、もうッ!」 「いや、よく働いたと思ってな」 「だからって子ども扱いしないでくれる?」 ふい、と顔を背けると、背後から今度は小助が顔を出した。まだ彼の背には翼がばさばさと動いている。 「でも凄かったですよ。あんなに早いとは思わなかった」 「え…」 「将に、蒼天疾駆って感じで」 足元を指さされて、かあ、と腹の底から熱くなる。褒められることには慣れていない。だが今の自分の取り柄と言ったら、この爪と牙と、そして風を纏う程の速さだ。それを示されて、どうも、と小さく頷いた。 そうして列に並んで歩いていくと、夕日が傾いてきていた。先頭には幸村の姿が見える。馬上にある彼の背には二槍が背負われ、はたはたと鉢巻がはためいていた。 「――…」 赤い六文銭の背中に、何か言いたかった――いや、声を掛けて欲しかった。 佐助がじっと見つめながら歩いていると、ふと、肩越しに幸村が振り返った。どき、と鼓動が跳ねるが、直ぐに彼は口元を小さく動かした。 ――さすけ。 「――ッ!」 ――呼ばれた、呼んでくれた。 ひゅん、と佐助は地面を蹴って、あっという間に先頭に躍り出た。今まで歩いていた場所では、甚八と小助が「おや?」と佐助の姿を探したが、既に佐助は幸村の馬の傍に居た。 「ご苦労だったな、佐助」 「うん…勝ち戦、おめでとうございます」 「そう固くなるな」 馬上から伸ばされた手が、佐助の頭に触れる。見上げると、馬の動きに合わせて揺れる彼の姿があった。幸村の身体からはしっかりと戦場の匂いがあるというに、どうしてか触れられた手は暖かかった。 ――この手が、あの火焔地獄を作った。 目の前で繰り広げられた炎の円舞。 その先で赤色に彩られた彼の瞳に、畏怖の念すら抱いた。それほどに強く、また威圧するだけの強さを彼は保持している。そして幸村だからこそ、この妖に塗れた忍隊を指揮できるのだと知った。 「佐助、色々思うことはあろう」 「そうだね…でも、俺様、旦那が居てくれて良かった」 「そうか。あのな……戻ったらお前にも恩賞を与えるが…」 馬上の幸村の言葉がどんどん遠くなる。 どうしてかは解らない。だがこうして笑い合って話す相手に、違和感を感じた。いや、違和感というよりも、自分が何処か解離してしまったような感覚だった。 ――なんだ、此れ? 佐助は片耳を押さえて、小首を傾げた。それと同時に肩を後ろに掴まれたような気がして振り返る。しかし背後には隊列があるだけだ。 「――…?」 目の前の幸村はまだ話している。明るく、いつもの陽光を浴びる彼そのものだ。 だが、あの戦場ではまさしく紅蓮の鬼だった。 自分は何が出来ただろうか。幸村の役に立ちたくて仕方なかったのに、本当に役に立ったと言えるのだろうか。己の力不足を思い知っただけではなかっただろうか。 ――もっと強く。 そう思うと同時に、目の前の人の戦場の姿が脳裏をよぎって、ぶるり、と身震いしてしまう。その震えは至極簡単な反応だった。あの戦場で幸村に抱いたのは畏怖――とてつもない、恐怖だった。 ――怖い。 「え…――」 「どうした、佐助?」 「いや、何でもないよ。旦那」 胸の内で呟いた自分の声が、再びこだまする。こんなことは初めてだった。佐助が後ろを気にしながら歩いていると、再び肩を掴まれた。だが其処に実体はない。 「どんな褒美が良いか?考えておいてくれ」 「うん、あのね、旦那」 「うん?」 ふわり、と振り返った幸村の背後に、幻影の焔が見えた。 ――あ。 彼の背後には夕陽が大きく迫っている。そして逆光になりながら、彼を黒く焦がしていく。それはまさしく幻視でしかないのに、身の内が震えてきて佐助は手を――拳を強く握りしめた。そして、彼に手を伸ばしかけた瞬間、背後から自分の声が響いた。 ――お前、恐れを抱いたね。 「――…っ、あ」 ずる、と肩を後ろにひかれる。それが何なのか、うっすらと山の大将に聞いたことがあった。それに捉まってはいけない。力を求めても底まで落ちていってはいけない。だから【それ】に捉まるな、と大将は言っていた。 まさかこんなところで現れてくるとは思ってもいなかった。 ずずず、と背後に大きな暗闇が迫る。捉まりたくない、だけど、其処からは甘美なまでの誘惑があった。お前は力が欲しいんだろう、と闇が告げてくる。 「旦那、だん…――ッ」 腕を伸ばした。 ――お前に、力を上げようか? 闇が甘く囁きかける。頷いてはいけないのに、どうしても振り返りたくなった。 「だ、ん、な」 呼びかけた声に気付いて幸村が振り返った。そして、佐助と目があったと思った瞬間、佐助の背後から現れた大きな闇が、ぱっくりと口を開けていた。 「――――ッ!」 旦那、と最後に叫んだのは覚えている。だがそれきり、佐助の意識は消えて行った。そして振り返った幸村が目にしたのは、手、だった。 自分に伸ばされ居たはずの手が、闇に吸い込まれていく。 「な…、佐助っ!」 ――ぶるるるるっ。 手綱を強く引いて馬を止める。伸ばした腕には何も触れずに、闇の名残のような、煤けた滓が散った。 「佐助?え…今ここに居たのに?」 「まさか…」 後方から忍隊の面々が駆け寄る。だがそこで佐助の気配が消えた。幸村は馬から降り、辺りを見回した。そして先ほどまで手に触れていた彼の髪の感触に、ぐ、と強く拳を握った。 「佐助…――?」 勝ち戦の日、佐助は闇に姿を消した。 辺りを捜索しても、彼の姿は何処にも見当たらなかった。 →next 120226up /2部完結。 |