狐の恩返し



 才蔵の膝の上で丸くなって、ぷうぷうと眠っていた佐助は、ふと目を覚ました。するとまだ才蔵の膝の上にいる状態だったが、目の前にあった筈の膳は全て無くなっている。

 ――え、ちょ…いま何刻?

 いつの間にか眠ってしまったようで、辺りをきょろきょろと見まわした。

「お、やっと起きたか」
「ご、ごめん。才蔵…直ぐ退くから」

 頭上からした声に仰のくと、半分目を閉じた才蔵が見下ろしてきていた。だが流石に悪い気がして、のそりと身体を動かすと「うおっ」と彼が呻いた。

「なに、どうしたの?」
「ああ、いい。気にするな。お蔭で今日の仕事をしなくていいと言われたし」
「へ?」

 踏み出した足を浮かしていると、才蔵はぶるぶると震えながら固まった。傷か何かに触れたのだろうかと、少しばかり注意して観ていると「足が痺れた」とだけ言われて、拍子抜けしてしまった。佐助は暖かかった才蔵の膝から降りると――本当はその暖かさが惜しかった。なぜなら才蔵が気を利かせて自分の尻尾で佐助の毛布代わりに温めてくれていたからだが――冷たい床の上にちょこんと座った。
 才蔵は佐助が膝から退くと、ゆったりとした動きに横になった。そうされると視線が下を見るようになり、才蔵を見下ろす形になる。

「お前、幸村様に本当に目をかけられているのだな」
「どういう事?」
「幸村様が、お前を覗き込んで、起こすのが可哀想だとおっしゃってな」
「ぶえええええええええ?」

 ぶわわわ、と尻尾が膨らむ。そんな訳あるか、と反論したい気もするが、にやにやしながら見上げてくる才蔵が、あまりに珍しい表情をしている。それに嘘をつくような男には見えない。

「それって、マジ?大マジ?」
「俺が嘘ついてどうする」
「だよねぇ?」

 だとしたら嬉しい。素直にうれしいと言える。佐助は下を向きながらも、ふっさふっさと尻尾が左右に揺れるのを抑えられなかった。
 佐助は左右に尻尾を動かしながら、ちらちらと才蔵に視線を送った。才蔵は横になりながら、くあ、と欠伸をしている。どうやらここでひと寝するつもりなのだろう。

「才蔵、旦那どこにいるかな」
「そりゃ、幸村様のお部屋に決まってるんじゃないか?特に外に行くとは言っていなかったし」
「俺様、行ってきても良いかな?」

 そわそわと身が動き出す。確か今日は佐助に仕事はほとんどなかった筈だ。粗方の家事などの分担も、昨日のうちに自分の番は終わっている。久々の休息ともいえるが、それよりも佐助は幸村の元に行ってしまいたい気持ちだった。

「ああ、行って来い。行って来い。止めるのは甚八つぁんくらいだから、今の内だ」

 追い払うようにして才蔵が手を動かすので、佐助はすっくと立ち上がった。そして、小さな足でとたとたと歩き出す。

 ――とととと。

 軽やかな足取りが徐々に早くなっていく。とんとん、と足元で鳴っていた爪の音が消え、空を切るようになると、旋風のような疾風となった。
 佐助の去った後に、才蔵が欠伸をしたのも気付かぬほど、擦違う家人たちが、何が通ったのかと振り返っても、佐助の姿を見つけることはできなかった。
 然程息も乱れずに屋敷の端にある幸村の部屋の前にたどり着く。
 どうやら来客か何かがあるようで、人の話す気配がしている。佐助はそっと気配を消した。そろりと部屋の中を覗くと、見たことのある男が幸村と向かい合って話している。しかし忍隊の面々ではない。

 ――旦那、お仕事中か。

 本当は今すぐにでも幸村の元に飛び込んで、彼の膝の上に乗りたい。だが今は仕事中のようだ。邪魔をしてはいけないだろうし、だからと言ってここで盗み聞きするのもよくないように思える。

 ――どうしようか。

 ふわふわ、と尻尾が勝手に揺れる。佐助は、とん、と縁側から外に出て、庭に降りた。庭を歩けば躑躅の低木がある。その場所まで行くと、地面はふわふわとした苔で覆われていた。
 くるくるとその苔の場所を周り、足で踏みしめる。そして上手く均した後にすとんと其処に腰を落として伏せた。くるん、と尻尾を自分の背に乗せるようにして動かすと、前足の上に顎を乗せる。
 ここなら幸村が出てくれば解る場所だし、耳を傍立てても会話をはっきりと聞き取れるわけでもない。

「――――…」

 陽光の当たるその場所でじっとしていると、から、と戸が開いた。先に出てきたのが来客だと気付くと、佐助は反射的に苔の上から飛びのいて躑躅の下に潜り込んで隠れてしまった。

「では幸村殿、支度を頼みましたぞ」
「お役に立てるよう、尽力いたす所存。お館様にそうお伝えくだされ」

 客人の背を見送りながら幸村が廊下に立ち尽くしている。どうしてか声を掛けられなくてじっと躑躅の下で息をひそめていると、深いため息をついて幸村が部屋の中に入っていった。

 ――なんだか嫌な予感がする。

 ざわざわと胸騒ぎがするようで息を潜めた。だが幸村の姿が部屋の中に消えると、佐助は躑躅の下から這い出て、ぷるぷると身を振うと部屋の方へと走って行った。










 縁側に上がる前に、とんとん、と足の裏を振って払う。それから軽く廊下に飛び乗って、障子戸の隅に顔を向けた。陽のあたる外からは、閉じられた中は見えない。
 ひょこ、と顔を一段と突き出してみると、中からくすりと笑う声が聞こえた。

「佐助か?」
「――…」
「影が映っておる。佐助なら、入って来て良いぞ」

 中から聞こえたのは幸村の声だ。言われるままに障子戸に前足を掛けて、ひょこ、と顔をのぞかせた。

 ――ぬ。
「――ッ!」

 びく、と身の毛が沸き立ったのは、直ぐ目の前に幸村が寝転がっていたからだった。腰を落としそうになっていると、彼の手が伸びてきて脇の下に手が差し込まれた。そのまま借りて来た猫のように抱き上げられて、仰向けになっている幸村の胸の上に抱え上げられた。

「――…」
「どうした、だんまりか?」
「そうじゃないけど、旦那…疲れた顔している」

 前足を動かして幸村の胸の上に伏せる。ふわ、と動く尻尾を彼の上に置くと、佐助の毛で覆われた腹と、着物の胸が触れ合う。鼻先を彼の顎に向けると幸村は掌で佐助の背を撫でてきた。

「疲れた顔か……そうかもな」
「旦那、何かあったの?」
「朝のあの浮足立つ時間に戻りたいものだ」

 ふふ、と口元で笑う幸村が別人のようだった。佐助は前足を踏ん張って彼の胸の上に乗せ、ぐと身体を固くした。すると幸村は頭をひと撫でしながら、佐助から視線を逸らし、天井を見上げた。

「お前、人を殺せるか」
「え……」

 急に幸村の口から怖いことが告げられたような気がした。しかし天井を見上げる幸村は冗談を言っているようには思えなかった。

「俺は、この手で数多の人を殺してきた」
「――…」
「武田のため、お館様のため、民のため…そう言いながら屠ってきた。お前はこんな俺をどう思う?」
「どう、って言われても」
「俺は汚いか?」
「そんなこと…ッ!」

 ぎゅ、と前足に力を入れて身体を起こす。そしてにじり寄って、幸村の顎先に鼻を付けた。すると幸村の手は昔と変わらずに柔らかく撫でてくれた。

「俺は…俺様は、旦那の手が好きだ」
「――…」
「あんたの手は優しい、良い手だ。俺を生かしてくれた手だ。だから…っ」
「その手で屠ってきたのも事実だ」

 よいしょ、と言いながら幸村が起きあがった。それと同時に佐助もまた彼の胸から飛び降りて、真正面に向き合って座った。尻尾をぴんと動かして幸村を見上げる。彼は胡坐をかいて、佐助の今の視線に合うように背を丸めてくれていた。

「それでもだ。俺様はあんたの役に立ちに来たんだよ?」
「――佐助…」
「だから、旦那が望むなら俺に何を命令してもいいんだ」

 佐助が躊躇わずに告げると、幸村は唇を噛みしめた。そして片手を眼元に当てて――まるで泣いているかのようだった。

「俺は、好きな人を守るどころか修羅に落とそうとしているというのに…お前ときたら」
「え?」

 早口で、小声で、あまりよく聞き取れなかった言葉に小首を傾げる。すると幸村は手を伸ばして佐助の頭と、耳元を撫でた。くすぐったくて彼の手にすり寄ると、ふふ、と軽く笑われる。それからゆっくりと指先が離れて、幸村の腿に落ち着いた。

「佐助」
「はい」

 呼ばれた時、背筋がピンと伸びた気がした。あたりの音が全く聞こえなくなるほどの、緊張感があった。

「着いて来れるか」
「旦那が望むのなら」
「ならば命じる」

 水を打ったような、静寂の後――幸村の声が佐助に武者震いを起こさせた。彼の声だけが耳に鮮やかに突き刺さる。

「真田忍隊の一員として、その牙を剥け」
「おおせのままに」

 す、と頭を垂れるとその上に幸村の手が降りてくる。跳ねる鼓動とは別に、その手が軽く震えているのにわずかに佐助は気付いていたが、それを指摘することも、彼に確かめることも出来なかった。





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