狐の恩返し



 既に初夏が過ぎて梅雨の時期に入っている。しかしここ信州ではあまり湿度もなく、過ごしやすいといえば過ごしやすい。
 それでも上がる気温に、暑さを感じはじめる頃合だ。

 ――涼しいうちに起きて、支度しないと。

 佐助はそんな風に思いながらも、瞼の裏で薄明るくなっていく外の気配を感じていた。夜から朝になる気配――それは獣ならば、大体が身体で気付くものだ。
 内臓が一気に重くなる夜と、それらがふわりと軽くなる朝。
 自分の身体の変化に気付きながら、佐助は首を動かした。

 ――ふわ。

「――…?」

 首を動かした途端、頬にふわふわしたものが触れた。これは何だろうかと疑問に思いながらも、まだ瞼を押し上げることが出来ずにいる。
 手を動かして触れてみると、ふわふわとするそれは心地の良い毛並みだ。こんな毛並みを持っている物が側にあっただろうかと思いながらも、同属のような毛並みに思わず鼻先を向けてしまう。

 ――良いにおい…。

 くん、と鼻を埋めてみると嗅ぎなれた香の香りがした。幼い時から嗅いできていて、今ではもう馴染んだ香りだ。その香りに包まれて、あの凍える雪山から救われた。そんな事が一気に頭を駆け巡る。

 ――さら…。

 もっとその香りに包まれてしまいたくなって、身体を寄せて腕を自分の方へと引き寄せる。そうするとふわふわした毛並みも、馴染んだ香りも一緒に佐助の胸元に引き寄せられていく。

「ん…――、ぅ」
「――…?」

 小さな吐息と共に擦れた声が聞こえた。何だろうかとゆるゆると瞼を押し上げてから、佐助は全身の毛がぶわりと逆立つような感覚に襲われた。

 ――なななななななんでっ!旦那が、ここに?

 自分が先程から引き寄せていたのは、幸村だった。しかも気付いてからよくよく見てみると、自分は半身を脱いで素肌がむき出しになっているし、幸村は幸村で無防備に佐助の胸元に擦り寄ってきている。

 ――落ち着け、落ち着くんだ、俺様っ!昨夜あったことを思い出せっ。

 腕に幸村を抱えたままで、ぐるぐると考え出す。
 昨夜、本性の狐に戻っていた時に幸村が来た。そして人型に戻ってから彼が「美味しそう」に見えて、それから感じたこともないような感覚に身が震えた。

 ――しばし匿え。

 そう言った幸村が、そのまま佐助と話している最中に寝てしまったのを覚えている。しかしどうして脱いでいるのか解らない。いや、単に寝相が悪くて肌蹴たに違いない。

「旦那…だーんな、起きて」
「んん…暫し、待て…」

 腕の中に閉じ込めた幸村はまだ瞼を落としたままで、佐助が揺さ振っても起きようとしない。それどころか、腕を佐助の胸元から背中に回してしがみ付いて来る。

「旦那ってば!誰か来たら…」
「来ても構わぬ…」

 あわあわとしていると胸元にのっしりと幸村が乗り上げてくる。素肌と素肌が触れる感触に、肌が総毛立った。

 ――うわ、何だこれ…ぞくぞくする。

 肌と肌が触れ合うと心地よく感じるのに、それとは別に背筋がぞくぞくとしてくる。自然と身震いと繰り返しながら、佐助は胸元に幸村を乗せたままで固まった。
 すると、ちら、と幸村が瞳を押し上げて、間近で覗き込んできた。

「これ、腕を回さぬか」
「え…」
「こういう時は、抱き締めろ」
「えええええ?でも…」

 胸元に乗り上げてきていた幸村が、身体をずらして腹の上に乗り上げてくる。そして少しだけずり上がるようにして動いた。

「――…ッ!あっ」
「お、佐助…お前」

 びく、と腰が揺れる。何だか解らないが、一気に下半身に熱が篭り出す。佐助が瞳を白黒させていると、幸村がとろりと瞳をとろけさせた。

 ――ぺろ。

 幸村が佐助の変化に唇を舐める。その姿を見た瞬間、ぶわりと腰に熱が集まり、気付いたら幸村の腰を掴んでいた。

「あ…っ、佐助…っ」
「旦那、なんか変なんだけど…その、触っていい?」
「ああ、勿論だ」

 腰だけでなく、全身が心臓になってしまったような感覚が訪れる。どきどきと脈打つ音が五月蝿い。手で彼の腰元を探り、肌に触れる。そうして好きに弄っていると、幸村は小さく触れるたびに吐息を漏らしていく。

 ――とん。

 腰元に乗り上げている幸村に触れているだけで息が乱れる。それなのに、今度は先程と同じように胸元に彼は頬を押し付けながら、佐助の肌に熱い吐息を吐いた。

「旦那?」
「もどかしい…」
「え…」
「触って、くれ」

 どこを、と聞くことも出来ないうちに、手首をつかまれた。そして幸村が誘導した先は、幸村の身体の中心だ。其処に両手で誘導されて握らされる。

「あ…あつ…っ」
「さ…すけ」

 ぎゅ、と力をこめると、切なそうに眉根を寄せられた。そんな幸村の姿など見たこともなかった。それよりも今のこの状況が飲み込めない。

 ――だけど、気持ちいい。

 身体が熱の固まりになって、ただ彼を抱き締めたくて堪らない。できればもっと幸村を乱れさせてしまいたいような、そんな気持ちが奥底から沸き起こってくる。

「旦那ぁ…、だん、な…」
「ぁ、あっ…」

 首筋に鼻先が触れてきて、ぞくぞくと戦慄が走る。佐助が幸村の肩口に噛み付くと、びくん、と下肢が揺れた。このままどうなるかなんて解らないけれども、本能に任せてしまおうかと思っていた。

 ――ガラっ。

「幸村様、朝です。佐助、起きろ」
「――…っ!」

 途端に開いた戸に二人でびっくんと身体を震わせた。戸の先には海野が翼を出した姿で居る。そして腕組をしてこちらを見下ろしつつ、はあ、と深い溜息をついた。

「まったくお部屋にいらっしゃらないから、まさかと思ったら…」
「海野…っ、またも邪魔してくれおったな」
「朝から盛ってどうすんですか。ほら、佐助も困ってるし!もっと意志の疎通をしてからっ」
「斯様に言っていたら、俺は干からびてしまうわっ」
「段階を踏みなさいっての」

 海野が説教しつつも佐助の上から幸村を引き剥がす。しかし幸村は不満顔だ。

 ――助かった、のかな?

 何となく人型でいるのが恥ずかしいような気がして、佐助は「ぼん」という音と共に本性に戻った。しかし動揺もあって、仰向けのままで狐にもどってしまう。
 白い腹を見せていることにハッとして、飛び起きると、尻尾も耳も垂れさせて、しゅんと項垂れる。

「あの…俺、ちょっと厠に…」

 狐の姿ならば二人の間をすり抜けるのも容易い。おずおずと言いつつも、そろりと廊下に足を向けると海野が空かさず声をかけてくる。

「そこら辺ですませるなよ」
「当たり前でしょっ!」

 ぶわ、と尻尾を逆立てて反論する。振り返ったところで、部屋から幸村が顔を出した。

 ――どきん。

 幸村の顔を見た途端に、再び腰が熱くなりそうだった。佐助が尻尾を左右に揺らしていくと、幸村が海野に阻まれつつ声をかけてきた。

「佐助っ!」
「あんたはまず風呂にでも行ってくださいよ、ね?幸村様」
「佐助…今宵…今宵俺の部屋に来いっ!人払いする故……」
「ああもう熱いのは解るけど!」

 押し留める海野まで顔を真っ赤にしていく。そんな二人を眺めつつ、佐助は「うん」と小さく応えると、一目散に廊下を駆けていった。





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