狐の恩返し



 ほぼ一日かけて峠の茶屋に向かい、ゆっくりと甘味を味わった後、幸村は「今度、忍隊の者たちと顔合わせさせよう」と言って来た。

 ――色んな人たちいるもんだなぁ。

 とてとてと廊下を歩きながら、佐助は鼻先を震わせた。たまには狐の姿になっていないと、どうにも身体がむずむずしてしまう。
 特に成長期の今は、変化した時にも微妙に身体が伸びている時もあり、安定しない。自然と原型になってる方が楽な時もあるというものだ。

 ――それに今は新月。

 満月の時期はコントロールも出来るが、新月は闇が深くていけない。危うく引き摺られかけることもある。そうなると人型になっているのは辛いものだ。原型の方がまだ安定を取れる。
 佐助は自室の障子戸を、前足で勢い良く開け放った。そのまま尻尾をふわふわ動かしながら、中に入っていく。
 毛は銀色の混じった毛並みで、そこらの狐が入り込んでも直に見分けがつくだろう。佐助は誰かに見つかっても構わないとばかりに、原型のままで敷いてあった布団の元に向った。布団を被るのは人型の時だけでいい。佐助は布団の上で足を踏みしめて、くるくるとその場を均した。そして程よいところで、すとん、と腰を下ろして丸くなる。

 ――今日は色々ありすぎて疲れたなぁ。旦那、もう寝てるよね。

 常でも既に寝ている時間だ。呼ばれることも無いだろうと、佐助は自分の尻尾を、はむはむと噛みながら毛繕いする。

 ――意味を教えてやろうか。

 ふと、幸村が言ってきた言葉を思い出して、口に尻尾を咥えたままで動きを止めた。
 幸村の顔が近づき、口唇に触れる――それは修行に出る前の別れの時に、彼にされたことだった。その意味を教えてくれるという。

 ――旦那の顔が近づくと、何だか『美味しそう』って思うんだよな。

 どうしてだろうか、と小首を傾げながら、佐助は再び尻尾を噛み始めた。根元まで噛んで行くと、後は大きな欠伸をする。

 ――戻ってきてからは、不思議なことが一杯だ。

 降りてくる瞼に従って、佐助は鼻先をひくひくと動かした。長い髭が一緒に動いているのが解る。今日あったことを反芻しながら、穏やかな呼吸を繰り返していると、遠くから土を踏みしめる音が聞えた。

 ――ぴく。

 耳を動かして音を辿る。
 どうやらそれは人の足音のようだった。踏みしめてくる足音に迷いはない。という事はこの屋敷の中の者だろう。
 佐助は、何かあれば誰かが飛び出していく筈だと踏んで、そのまま穏やかな呼吸を繰り返していた。

 ――ぴた。

「――……?」

 しかしその足音が佐助の部屋の前で止まった。何だろうかと耳だけを動かして聞いているが、辺りをうかがうような気配しかしない。

 ――から…。

「佐助…?」
「――…ッ!」

 そっと開けられた戸から、聞き馴染みのある声が聞こえる。驚いて顔を起こすと、さささ、と滑り込ませるようにして部屋の中に入り込んできた人影があった。

「だ…旦那?」
「おお、佐助…っ、まだ寝て…――ッ」

 くるりと振り返ってきた幸村が途中まで口を開いたが、直に佐助の方を見詰めて動きを止めた。

「どうしたの?」
「お、お、お前…なんと」

 はくはくと口を動かす幸村にハッと気付く。自分が今は狐の姿になっていることに気付く。クロスさせて寛いでいた前足を振り解き、すっくと立ち上がった。

「あ、ごめん。すぐに人型に変化するから」
「いいッ!」
「へ?」
「そのままでいいッ」
「あ…そう?」

 立ちあがったら今度は慌てて幸村が押し留めてくる。拍子抜けして佐助はすとんと座り込んだ。ふんわりとした尻尾が動きに合わせて、くるん、と身体に巻きついてくる。
 幸村は口をむずむずとさせながらも、膝をにじり寄らせてくる。側に来たいのは解るが、幸村からの許しが無い限り動くのは悪いだろうと踏んで、佐助は座ったままで、尻尾をふわふわと動かしていた。
 幸村が何かを思い立って口を開きかける――だが直にそれを止めて黙ってしまう。そんな時間が続くと、流石に飽きてきて、佐助は後ろ足で耳の裏を、かしかし、と掻いた。

「佐助ぇッ!」
「はいッ?」

 腑抜けた格好をしたせいで、怒られるのかと――不敬だといわれるのかと、びくりと背を震わせる。ふわふわの尻尾も、ぴん、と天を向いた。

 ――うう、どうしよう。怒られるのかな?怒られるのかな?

 落ちてくるであろう雷を予想して身を硬くする。ぎゅっと力を篭めて瞼を閉じた。しかし予想していたような雷は落ちてこず、そろりと窺うような幸村の声が耳に届いてきた。

「その…抱いてみても良いか?」
「うえっ?」

 ぱち、と碧色の瞳を開けると、ばっちりと視線がぶつかった。幸村は視線が合うと、ふい、と目を反らしていく。しかし、ちらちら、と佐助を盗み見ているのは明らかだった。

「あ、嫌なら、別に…」
「いやぁ、旦那の好きにすれば?」
「うむ」

 佐助が前足で耳の裏を、照れたように――というよりも、安心して、かしかし、と掻いた。すると幸村は嬉しそうに両手を伸ばしてきて、佐助を抱き込んだ。

「おお、ふわふわだ。温いなぁ」
「そりゃ、毛皮着てるわけだし?」
「心地よい」

 ぎゅう、と抱き締められると、昔、彼に救われたときの事を思い出してしまう。彼の懐に抱かれて、極寒の地から引き戻された。
 いつまでも耳心地の良い鼓動の音と、それから優しい彼の声。それが佐助の耳には強く記憶に残っている。

 ――旦那の匂い、好きなんだよね。

 佐助は抱き締められるままに、きゅう、と鼻を鳴らした。すると幸村は佐助を抱き締めたまま、ごそごそと佐助の布団の中に潜り込んでいく。

「旦那?寝るなら自分のお部屋に行かないと」
「此処でいい」
「だって俺様の布団、ぺちゃんこだよ?」
「構わぬわ。お前が居てくれるのだろう?」

 すりすりと頭を撫でられる。その心地よさは何と言ったらよいのだろうか。佐助は身体をくるんと伸ばして幸村の胸元に前足をついた。

 ――ぺた。

 肉球が彼の素肌に触れる。横になって肌蹴た幸村の胸元に、直接肉球が触れていく。ぺたぺたと彼の胸元に前足を触れさせて体勢を直していると、幸村が小さく吐息を吐いた。

「旦那?」
「ん…あ、あまり…そのように触れるな」
「え…?」

 ふ、と小さく吐息が吐かれるのが不思議だった。幸村は眉根を寄せてこちらを見下ろしてきていた。丁度、幸村の顎下辺りに佐助の頭がある。抱き締められたままでは仰向けになってしまうので、横になった彼の側に寄り添おうと体勢を変えていただけだった。

「さすけ」

 柔らかく幸村が名前を呼んでくる。

 ――はむ。

 不意に耳を幸村に甘噛みされた。そのまま、幸村は唇を使って、はむはむと耳を甘噛みしてくる。戯れの動きにくすぐったさを感じて、佐助が耳をぷるぷると動かした。

「ふふ…旦那、擽ったい」
「ん…もっと擽ったがれ」

 幸村は片方の手で空いた耳までも撫でて、揉みこんでくる。両耳を刺激されて、腰の辺りがむずむずとしてきた。

「あのさ、何だか変な感じしてくるんだけど」
「ん?」

 狐のままではどうにも分が悪いような気がする。小さな身体で幸村に翻弄されているような気分が拭えない。佐助は幸村の頬に鼻先を付けて、あのね、と彼に問いかけた。

「その…人型になってもいい?」
「勿論だ」

 ぱっと幸村の瞳が開かれる。嬉しそうに微笑まれて、少しだけ髭を前足で突いてみた。そして以前のような手間を取らず、ぼふん、と煙があがる。

「――…ぁ」

 擦れた幸村の声が響く。だがそれを押さえつけるように自分の胸に引き寄せると、佐助は今度は幸村の耳に、かぷ、と噛み付いた。

「んぁ…ッ」
「旦那もくすぐったくしてあげようか?」
「あ…ちょ、ちょっと待て」
「だってさぁ、旦那から甘噛みしてきたでしょ。毛繕いのつもりだったのかな?」

 ――今度は俺様がしてあげる。

 果たして人間に毛繕いが必要かは解らない。
 だが幸村がしてきたのだから、するものなのだろう、と佐助は単純に考えて、はむはむと幸村の耳を甘噛みした。
 しかしすればするほど、幸村の様子が変わってくる。

 ――旦那が美味しそうに見えてきた。

 昼間の感覚が再び襲ってくる。幸村はふるふると震えながらも、佐助にしがみ付いて来る。そして擦れた小さな声を抑えながら、時たま佐助の名前を呼んでくる。

 ――ぐる。

「うわ…ッ」

 気付いたら佐助は幸村を布団の上に押さえつけていた。そして乗りかかると、幸村の腕が背に回ってくる。

「旦那ぁ…何だか、俺様変だ」
「どんな風に?」

 はふ、と呼吸を整えながら、幸村が聞き返してくる。確かに可笑しい――幸村の毛繕いと思っていたのに、彼の擦れた声を聞いているうちに、どんどんと身体が熱くなってくる。もっと触れたくて仕方なくなってくる。
 知らず手は幸村の素肌の上に滑り出し、息が乱れていく。

「どうって、言い様がないんだけど。旦那が美味しそうに見える」
「食って良いぞ」
「いや、そういう美味しそうとは違って…なんだろ、むずむずするような、熱い様な」
「それはな…」

 そろり、と幸村の手が佐助の胸元に触れてくる。もう片方の腕が、佐助の腰に回り、しゅる、と帯が取れる音がした。それと同時に佐助の下で、幸村が足を動かしていく。

「教えて、やろうか…?」
「旦那…」
「のう、佐助…俺はな…」

 ぐい、と幸村の顔の方へと引き寄せられる。そのまま沈み込んでしまえば、彼の身体の上に乗りかかるのは解った。だが、どきどきと鼓動が早くなり、既に拒むことも出来ない。

 ――不思議だ。

 まるでまじないでも掛けられたかのような気がしてしまう。佐助は瞼を徐々に伏せながら、導かれるようにして身体を沈みこませようとした。

「幸村さまー?」
「――…ッ!」

 びく、と佐助が外からの声に反応する。すると佐助の下で、ち、と幸村が舌打をした。そして深く溜息を付きながら、佐助を押し退けて上体を起す。
 その間にもずっと幸村を呼ぶ声が響いていた。

「くそ、夜這いもさせて貰えぬか」
「え?」

 佐助が早鐘を打つ鼓動を抑えようと、胸元を握りこむと、幸村が思い切り佐助の袂を引き寄せた。そして佐助の鎖骨の辺りに、がぶり、と噛み付いた。

「あ…いてッ!ちょ、旦那?」
「ふん…ッ」

 ぷい、と幸村は膨れる。そして佐助の胸元に顔を埋めると、強い力で再び布団に押し倒してくる。だがもう片方の腕で、がばりと布団を被り、自分はもぞもぞと頭まで布団に潜ってしまった。

「佐助、暫し匿ってくれ」
「ええええええ?」

 遠くからだんだんと声は近づいてくる。あの声はどうやら小助のようだった。佐助は深く溜息をつくと「仰せのままに」と布団越しに幸村に告げて、自分もまた布団に潜り込んでから、幸村を腕の中に抱き締めていった。




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