狐の恩返し



 遠駆けに出るというので、佐助は言われるままに支度をしに行ってしまう。先に握り飯だけを頼んでいたが、水だって必要だ――その他諸々準備は全くしてないものだから、佐助が走ることになる。
 佐助を待っている間、海野は馬の横で腕を組んで幸村に呆れた顔を見せた。

「全く、貴方様ときたら…」
「そう怒るな、海野」

 庭に出てきた幸村は、袖口に腕を入れながら、くすくすと口の中でくぐもった笑いを繰り出した。しかし海野は指先を幸村に向けて、とん、と額を小突く。
 幸村が幼い時から、全く姿の変わらないこの朱雀は、いつもお説教の前に幸村の額を小突くものだった。幸村は額を指先で擦りながら、苦笑した。

「いいですか、佐助はまだ発情期も来てないもやしっ子なんですよ?」
「え…」

 ぴた、と幸村の動きが止まる。
 そして額に向けていた手が、ゆるゆると口元に降りていき、幸村は黙り込んだ。沈黙に何かを察した海野が余計に身を乗り出す。

「…って、何ですかその顔ッ!何、想像してんですかッ」
「あ、いや…そうか。それもそうだな…うん」
「幸村様?」

 慌てる海野とは裏腹に、幸村は肩をふるふると震わせて笑い出す。何か気に触れたのかと、海野が今度は身を反らせるような素振りを見せた。だが幸村は口元に宛がっていた手を下ろし、ふふ、と笑った。

「なんか嬉しいなぁ」
「は?」
「佐助に発情期が来ていないということは、俺が初めてになれる訳だろう?」

 可愛いだろうなぁ、としみじみと云う幸村に、海野は口をぽかんと開けてしまった。だが直に正気に返り、深く溜息をつく。頭痛でも起こり始めたのかというように、額に手をついて眉根を寄せる海野は、怒っているような、呆れているような、はたまた困っているようにも取れた。
 よくよく海野自身の中で吟味してから、彼は大きく一呼吸置いてから、幸村に問いかけてきた。

「幸村さま…――あんな狐っ子、抱きたいんですか?」
「――…ッ」
「どうなんです?」

 ぴく、と海野のダイレクトな言葉に反応はする。それと同時に、ふわりと幸村の眦から紅く染まっていった頬は、みるみる内に首もとまで真っ赤になっていった。

「無粋なことを聞くな」
「でも気になるところで」
「正直…その、な。意識し始めたのは最近で、その…むしろ、どうにかされたいというか」
「えっ」

 幸村は指先を組んだり離したりしながら、ぼそぼそと応えた。だが幸村の言に海野が頓狂な声を上げると、両手をぐっと握りこんで身を乗り出して、大きな声で宣言する。

「だって気持ち良いのだッ!」
「幸村さま?」
「あの大きな腕に抱き締められたり、ふわふわの毛に包まれると、安らぐというか…」

 身振り手振りを加えながら幸村は言い募る。佐助が狐の時の鼻先が擽ったくて好きだとか、肉球がふにふにしているとか、人型になっている時の彼の瞳が好きだとか、包んでくれる腕が好きだとか、挙げたら切りがないようだった。しかし幸村は一通り言うと、ふう、と嘆息し、俯き加減に海野に窺いを立てる。

「駄目だろうか…」
「駄目じゃないと思いますけどねぇ」

 海野は呆れながらも、仕方ない、と云う様に嘆息した。そして大きな手で幸村の頭に手を乗せると、ゆっくりと撫でた。大の大人同士が撫でられ、撫でる様子は些か不思議なものもある。だが海野はからかうように口の端を持ち上げると、幸村に忠告した。

「因みに狐の発情期は夏から冬ですよ。重婚はしないのが一般的な狐ですけども、あれは妖になってますからね」

 ――例外もあろうかと。

 どんな反応が返ってくるのかと、海野がにやにやしながら待ち構えていると、幸村は一瞬真顔になり、ぶるぶると肩を震わせたかと思うと絞り出すように声を出す。

「なれば全力で佐助の伴侶になってやろうではないか!」
「あの…」

 海野が声をかけた瞬間、幸村は天に向って大声で吼えた。

「うおおおおお、みぃなぁぎるぅぅぅぅぅぅぁあああああッ!」

 大音声で絶唱する主を前にして、海野が「あいつが気付けばいいけど」と呟いたが、幸村はそれには気付かずに叫び続けていった。










 幸村と共に遠駆けに出かけた佐助は、海野がついて来なかったことに、僅かな疑問を持ちつつも、幸村の側についていた。

 ――馬に蹴られたくないんだよ。

 やってられない、とばかりに言ってきた海野に、幸村と話し合っていた中で何かあったのかと思った。というよりも、朱雀なんだから馬に蹴られることは万が一にもないだろうと、隠喩には気付かずに小首を傾げただけだった。

 ――別に、旦那と二人でも構わないんだけどさ。

 佐助は桜の終った新緑を見上げた。山の中にはまだ紫色の影があり、藤が咲き誇っているのが解る。陽の光にきらきらと光るそれらを、瞳を眇めてみていると、頭上から幸村が声を掛けてきた。

「佐助、お前も乗らぬか?」
「へ?」
「だから、馬に」

 幸村は自分の前をぺんぺんと叩いてみせる。彼を見上げるとすぐに新緑が目に鮮やかに過ぎり、何度か瞬きを繰り返した。そして佐助は笑いながら幸村に告げた。

「冗談でしょ?」
「冗談なことあるか」
「だって俺様、もう旦那の身体に隠れるほど、小さくないんだよ?」
「ぬ…ッ」

 くすくすと笑いながら幸村に言うと、幸村は口をへの字に曲げて「図体ばかり大きくなりおって」と毒づいた。しかし佐助はそれには構わずに、ひらり、と身体を躍らせて、幸村の真後ろに降りた。

「佐助…」
「ほらね、俺様の方が身体大きいよ。旦那、手綱貸して」

 馬は身じろぎすらせずに、ぽくぽくと歩んでいく。背に二人乗っても何ら気にする素振りもない。幸村はおずおずと手を差し出して、背後の佐助に手綱を渡した。
 腰を前にずらして幸村が前屈みになる。彼の肩を引き寄せて佐助は自分の胸元によりかかるように促がした。

「何で逃げるわけ?」
「逃げてなど…」
「一緒の馬に乗ってるんだから、寄りかかって良いよ」
「うむ…だが、その…」
「何か都合悪いことある?」
「――ないな」

 とす、と幸村が仰のく。すると新緑が幸村の瞳に映る。彼の瞳が新緑に染まるのを見下ろしながら、佐助は鼻先を彼の肩口に向けた。

 ――びくんっ。

「旦那?」
「あ…いや、な、なんでもない」

 急に肩を震わせた幸村に、不思議に思って顔を上げる。すると幸村は徐々に頬を染め始めていた。はらはらと前髪が彼の額を隠していくが、その下の肌は赤い。

「ごめん、もしかして擽ったかった?」
「いや、そういう訳では」
「そう?嫌なら言って」

 佐助が彼の身体を背後から引き寄せて言うと、幸村は余計に身体を硬くした。何かがおかしいと思いながら、肩口から幸村を覗き込むと、佐助は驚いた。
 幸村はまるで少女が恥らうかのように、瞼を伏せて、睫毛を震わせている。息すらも詰めているし、頬が、肌がほんのりと色付いていく。

 ――うわぁ…なんていうの、なんか…。

「美味しそう…」
「――…ッ!」

 思わず呟いてしまうと、驚愕に幸村が瞳を見開いて振り向く。言ってから何かを間違ったのかと佐助は咄嗟に「しまった」というように口元を引き結んだ。

「おおおおお前っ、主を食おうというのか?」
「あ、違うって。違う、違う。なんかそう思っただけだよ」

 幸村の驚きように手をぱたぱたと動かして反論する。それまで背を預けてくれていた幸村が、すっと前の方へと身体を離してしまうのが、少しだけ寂しいように感じた。
 幸村は馬のたてがみにしがみ付いて、こちらを怪訝そうに窺っている。

「しかし今…」
「うん…俺様、雑食だけど人間は食べたいと思わないよ?」
「真であろうな?」
「本当だって」

 何度も頷きながら告げると、ほっとしたように幸村がたてがみから離れる。再び佐助の胸元に背を預けて、斜め上を見るようにして覗き込んできた。

「どしたの、旦那…」
「お前、髭は生えぬのか?」
「え…!生えてるよ、あるよッ。立派な、長いのがッ」
「それは狐の時であろう」
「うん、当たり前じゃん」

 けろっとして言うと幸村は、相槌を打ちながら手を伸ばしてきた。その手が顎下に触れ、手の甲で擦られる。首の下は触れられると、むずむずとしてくすぐったい。佐助が自然と肩を竦ませると――しかし、身を反らしたりはせずに、幸村の手を受けていた――幸村は身体をくるりと反転させた。
 馬に横座りになり、左腕を佐助の脇腹から背に滑らせてしがみ付く。顔がよく見えるようになったと思うと、幸村は佐助の頬に掌を当てて引き寄せるようにした。

「のう、佐助」
「なぁに?」

 声を潜める幸村にあわせて身を屈ませる。その間も馬は暢気に歩みを進めていた。手綱は緩く持っているから、速度も変わらない。

「先日来、邪魔が入ってしまっておったが…」
「――…」
「知りたくはないか?」

 何を、と聞くのは無粋なような気がした。
 はらはら、と辺りに藤の花びらが振ってくる。答えを出せずにいると、幸村が背を伸ばして身を近づけてくる。鼻先と鼻先が触れそうになり、息を詰めてしまう。狐の時にはよく鼻先で彼の頬を突いたりもしたし、頬擦りもしたことがある。しかし人型でこうして近づくのは滅多にない。
 気付けば、どきどき、と鼓動が早くなってきていた。

「旦那……?」
「某が、教えてやろうか?」

 囁くような声が近づく。背に廻された幸村の手が動き、肩甲骨の辺りに触れてくる。頬に触れていた右手が、首に絡まり、もっと深く身体を沈ませるように促がされた。

 ――なんだろう、旦那がすごく美味しそう。

 ぐるる、と腹が鳴ってしまいそうな予感がする。腹と云うよりも咽喉だろうか。急に身体の中の何かが枯渇しているような、飢えた気分が迫ってくる。
 自分の変化に佐助自身が不思議に思っているとは、幸村は全く気付いていないようだった。

「佐助…」
「――…ッ」

 名前を呼ばれるだけで、頭がぼうとしてくるような、甘い予感が迫ってくる。佐助が片手を手綱から離し、そっと幸村の背に向けて抱き締めると、幸村は嬉しそうに口元を笑ませた。

 ――ドササササササッ!

「――――ッ」

 馬が急に唸りを上げて身体を揺らした。勢いで振り落とされないように、佐助は咄嗟に手綱を握った。

「な…っ、どうどう…ッ」

 ぶるる、と馬がいなされ、頭を振る。咄嗟に幸村は佐助にしがみ付いていたが、馬が騒いだ原因が目の前に転がっていた。

「あたたた…」
「――…っう…」

 目の前に転がっているのは、よく見知った顔だった。その顔を見て幸村はあからさまに眉間に皺を寄せて、はあ、と深く嘆息する。しかも身体の向きを直に正面に直した。

「旦那…知っている人たち?」
「ああ、勿論だ。まったく…誰の差し金かなど検討がついている」
「えっと…?」

 何処かしら幸村が怒っているように見えた。背に、ゆらり、と陽炎が起きるくらいには、確かに幸村は怒っている。佐助が言及せずに口を閉ざす中、目の前の二人の人物――いやよく見ると二人とも妖のようだった。

 ――羽根、と…耳?

 一人は紅い羽根をばさりと動かして、むくりと起き上がった。その顔がどこかしら幸村と似ている。そして仰向けに倒れていた方の青年は、落下の衝撃で咄嗟に変化が解けたのか、黒いふわふわの大きな耳が、ぴくぴくと動いていた。

「あた〜…ちょっと、才蔵さん、大丈夫ですか?」
「大丈夫なものか…振り落としやがって」
「狼なんだから着地くらいしっかりするかと」
「くっそ…」

 毒づいて、才蔵と呼ばれたほうの青年が頭を振る。そしてハッと気付いて居住まいを正してから頭を伏せた。

「才蔵、小助、何用だ」
「は…幸村様、お見苦しい処をお見せいたしました」

 黒い耳をぴたりと伏せさせて才蔵が応える。その横で頭を下げながらも、小助が彼を突く。気付いて才蔵はすぐに耳を仕舞った。

「して、何用か、と…」

 再度、幸村が訊ねる。すると二人は顔を見合わせてから、再び頭を下げた。

「申し訳ございませぬ。命によりお二人を尾行けて参りました」
「誰の差し金ぞ…海野か」
「いえ、それは…――」

 才蔵が口篭る。だがそれを跳ね除けて小助が羽根をばたばたと動かしながら、慌てて弁明した。

「海野さんは別に、放っておけと。でも甚八さんが…」
「馬鹿ッ」
「あッ!」
「甚八か…――」

 ふん、と幸村が鼻を鳴らす。才蔵が小助の頭を小突き、ごつん、と鈍い音が響いた。幸村は不服そうに唸った後、二人に立つように告げた。

「まぁ良いわ。二人ともついて参れ。そうだ、佐助」
「うん?」
「紹介が未だだったな」

 幸村が見せびらかすようにして佐助の方へと振り返り、これ見よがしに腕を延ばして首を引き寄せる。両腕を引き寄せながら、ちらりと彼らに視線を投げる。

「真田忍隊の、霧隠才蔵と穴山小助だ。二人とも妖よ」
「人狼の霧隠才蔵だ」
「朱雀の小助でーす。海野さんとは同族です」

 小助がばさばさと羽根を動かしてみせる。それをのんびりと眺めてから、佐助もまた自己紹介した。
 丁度、佐助がもぐりこんでいた時期には、彼らは里帰りをしていた。その為、これが初顔合わせだった。

「あの…幸村様」
「何だ?」

 視線を反らしながら才蔵が、言い難そうに進言する。

「目のやり場に困ります…」
「邪魔をしたのだ。これくらい赦せ」
「しかし…」

 才蔵はぎゅっと瞼を閉じて顔を背けてしまった。そんな彼に幸村は、べえ、と舌先を見せる。小助はと言うと、馬の鼻を撫でてから「だから来たくなかったのに」とぶつぶつ言っていた。

「旦那、あのね。俺様もちょっと苦しい」
「おお、これは済まぬ」

 ぱっと腕を離して幸村が正面を向く。そして二人にも声を掛けて手綱を握った。その横から、才蔵がするりと手綱を受け取って先導する。

「遠駆けと仰ってましたが、いずれまで?」
「何、峠の茶屋まで…あそこの草餅が美味くてな」

 のんびりと幸村が言う中で、ばさばさと音がすると思ったら、小助が飛んでいた。それを見上げて佐助は、とんだ妖一行じゃないか、と少々呆れてしまっていた。
 新緑が光を弾く。そんな中で楽しそうに、人である幸村が彼らに笑顔を見せていた。

 ――旦那って、本当に不思議な御仁だよね。

 佐助はそんな風に思いながら、そっと背後から彼の腰に腕を回す。すると幸村は一度、驚いたように振り返ったが、すぐに嬉しそうに身体を預けてきた。





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