狐の恩返し



 はらり、はらり、と落ちる桜花の元に両腕を広げる銀色の狐がいる。幸村は草履を履くのも忘れてそのまま飛び出した。すると空かさず両のかいなで抱きとめてくれる。

 ――ふわり。

 鼻先に水のような香りがした。その段になって彼が通り雨と共に戻ってきたことを思い出す。足元に触れる土の感触も湿っているが、気にならない。幸村はただ戻ってきた狐の彼に擦り寄るだけだ。そうしていると、急にふわふわとした毛の感触が頬に触れてきた。先程まではなかったものだ――幸村が抱きついてから、耳を出したのだろう。視線を動かせば尻尾も目に入った。

 ――本当に佐助なのだな。

 幼かった時には狐色に先が少しだけ黒っぽかった尾は、今はほんのりと銀色になっている。変わらない先の黒に、きらきらと日の光をうけて輝く金銀の混じった毛並み――珍しいものだと思いながら、幸村は佐助の背に腕を回した。

「だぁんな」
「――…ッ」

 柔らかい毛の感触が心地よくて頬を寄せてしまうと、間近に佐助の顔がある。何時の間にやら少年から青年になった姿に、驚かないといえば嘘だ。
 だが間違いようもなく、腕に抱きとめ――抱き締めてくれているのは、佐助に他ならない。鼻先を摺り寄せるようにして頬に向けてくる彼に、ふ、と後ろに引いてしまう。しかし佐助はそれに構わずに笑顔を向けてきた。
 ちらりと視線を動かすと、耳はぺたんと寝ているし、尻尾がふりふりと振り子のように動いている。

 ――可愛いのぅ。

 思わずそんな小さな変化に頬が緩んでしまう。すると佐助は緑色に光る瞳を眇めて、こつん、と額を押し付けてきた。

「ただいま、旦那。元気にしてた?」
「おう!」
「旦那…」

 つい、と笑顔のまま近づけられてくる佐助の顔に、どき、と鼓動が跳ねた。動揺を悟られたくなくて両手で佐助の頬を勢い良く挟みこんだ。

「よう、よう戻ったな…しかと顔を見せいッ」

 ――ばちんっ。

 思い切り挟み込んだせいで佐助が、びゃっ、と瞼を閉じた。それと同時に尻尾がぶわりと大きくなる。

「うお…っ、す、すまんッ!」
「相変らず馬鹿力なんだからぁ」

 いたた、と佐助は涙目になりながら瞳を開けてきた。間近に迫る緑色の光に、急に動けなくなる。そうしている内に、額に柔らかい感触が触れてきた。

 ――ちゅ。

「――…ッ」

 ぶわ、と首筋から熱が沸き起こる。徐々に顔にも上ってくる熱と、とくとくと鳴り響く鼓動に幸村は気付いていた。

 ――まさか。

 きょとんとした視線を向けてくる佐助に、どう応えたら良いのだろうか。流石に佐助もおかしいと思ったのか、ことん、と小首を傾げてくる。少しだけ幸村よりも高くなった背だとか、体格をしているくせに、仕種は子どもの時のままだ。
 それに垂れている耳だとか、揺れる尻尾だとかが、触りたい欲求に駆らせてくれる。

「旦那、どうしたの?」
「あ…いや、その…」
「うん?」

 ひょい、と再び顔を覗き込まれる。響きを少年のそれと異にした声が、しっとりと耳に届く。すると居た堪れずに幸村は手の甲を唇に添えて、ふい、と顔を反らした。

「破廉恥だぞ」
「だって旦那、小さい時はよく俺様にしてくれたじゃない」
「それは…」
「ね、これにはどんな意味があるの?」
「う…そ、その…」

 反らした先に直ぐに顔を寄せてくる。甘えるようにして鼻先を寄せてくる姿に、ますます胸が鳴ってしまう。目の前に居るのはあの幼い仔狐だったはずだ。それなのに、今は見目麗しく成長した銀狐がそこにいる。
 とくとくと鳴り響く胸元を掴みこんでいると、すい、と視界に影が下りた。

「教えて?ね、旦那」
「あ……っ」

 甘く囁かれる。びくりと背中が震えるのに、佐助は抱き締めるように腕を回してくる。腰に添えられた手に、ぞくぞくと戦慄が走ってしまう。

 ――なんたることだ…落ち着け、真田幸村!

 自分を叱責して瞼を閉じると、不意に「あ」という呟きが聞えた――かと思うと今度は急に足元が地面から離れる。

「――…?」
「旦那、裸足じゃない。汚れちゃったね」
「あ…?おお、真に。すっかり忘れておった」

 ひょいと抱きかかえられていることにハッとする。佐助が抱え上げてくれたのだ。そうすると佐助を見下ろすようになり、懐かしい感覚が蘇ってきた。

「ふふ…旦那を抱っこできるなんて」
「大きゅうなったのう…本当に」
「でしょ?俺様、修行頑張ったのよ」
「だがこうして見下ろすと、あの日に帰ったようだな」

 くす、と見下ろす先の佐助に笑いながら言うと、彼は幸村を抱えたまま縁側に行った。そして縁側に幸村を下ろすと、直ぐに戻ってくる、と言って中に入っていく。
 程なくして戻ってきた彼は桶と手拭いを手にしていた。

「旦那、足出して」
「よい、自分で洗える」
「いいえ〜、俺の旦那様だし。俺様に洗わせて」

 ――俺の旦那様。

 そういわれて、きゅん、と胸元が締め付けられるような感覚が襲ってきた。幸村はそろろりと足を彼に預ける。佐助は満足気に鼻歌を歌いながら幸村の足を洗って行った。










「のう…海野」
「何でございましょう?」

 脇息に凭れながら、側に控えていた海野に話しかける。佐助は厨に篭ったきり出てこない。彼が戻ってきて既に三日は過ぎていた。
 はらはらと落ちる花びらと同じくらい、幸村の鼓動も高鳴る日々だ。

「俺は…どこか病に掛かってしまったのだろうか」
「は?」

 幸村はぼんやりとしながら、落ちる花びらを見上げている。その傍らで海野がひくりと口の端を吊り上げた。

「こう、急に心の臓のあたりが、きゅうと締め付けられたりするのだが」
「はぁ?」
「それに佐助をみると脈が速くなる。これは病だろうか」
「病ですね」

 淡々と海野は述べた。そして幸村に向ってそっと扇を広げると、はたり、と風を起す。すると部屋の中に入り込んできていた花びらが一気に外に飛び出ていった。
 突風でもないが、見事に花びらだけが外に出て行く様に、海野が妖術を使ったと知れる。しかし全く慣れてしまって、そうした事には驚きもしないのに、幸村は「病」と云われて身を乗り出した。

「真か?」
「恋煩い、ってやつですよ」
「――…っ」

 ぼん、と火を吹きそうな勢いで幸村が真っ赤になる。そして口をはくはくと動かした。海野は構う事無く、ぱたん、と扇を仕舞いこみながら告げた。

「十中八九、そうでしょうよ。あの若僧に懸想されたので?」
「けけけけ懸想など…とっ!」
「しかしそうでしょう?」

 言葉に詰まりながら幸村が脇息に置いた腕に顔を押し込めた。すると海野が楽しそうにくすくすと笑い出す。

「どうしたら良いのだろうか…」
「まだあいつはガキですしねぇ」
「――…やはり、俺は佐助が」

 真っ赤になりながら呟く幸村に、海野が優しい瞳を向ける。そして先を繋げようとした瞬間に、ばたん、と戸があけられた。

「――何事…ッ」
「旦那ぁ、大福作ってきたよ!食べて、食べて」
「慌ただしいぞ、佐助。俺の分もあるんだろうな?」

 ばたばたと高杯に盛った大福餅を差し出す佐助に悪気はない。山になっている大福に海野も腰を浮かせる。

「どうしたの、旦那?」
「お前が…作ったのか?」
「そう、口にあうと良いんだけどねぇ」
「うむ、では頂こう」
「旦那、熱出てない?顔真っ赤だよ〜」
「な、なんでもないッ!茶も飲みたいぞ、佐助」
「はいはい、持ってきますよ」

 穏やかに話す佐助は、直ぐにまた飛び出していくと、今度は茶を入れて戻ってきた。その合間にも幸村の心臓は高鳴り続けていく。そんな二人の様子を見つめて、海野が楽しそうに大福を摘んでいくだけだった。







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二部開始。