狐の恩返し



 幸村に正体がばれてしまった。佐助は耳も尻尾も出したままで庭先から一気に裏の山に向って走った。一緒に居られた時間の短さや、彼の笑顔を脳裏に浮べながら、もう一緒に居られないのだと思うと、次々と涙が出てきて止まらなかった。
 泣きながら走るものだから、呼吸が乱れて、ぶええええ、と変な声を上げ始める。それでも衝動に任せて走っていると、草を踏みしめる足音が増えたような気がした。

「――?」

 何だろうかと振り返ると、はるか後方から紅葉色の着物が見える――しかも全速力で駆け込んでくる姿があった。

「佐助ぇぇぇぇぇぇぇっ!待たぬかぁぁぁぁぁぁぁ」
「う…うわああああああああああッ」

 鬼のような形相で追いかけてくるのは、見紛うはずなき幸村である。佐助は思わず尻尾を、ぶわわわ、と膨らませると、再び加速して逃げてしまった。

「逃げるで、ないわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
「うわああああああああああん、追って来ないでよおおおおおおおッッ」

 全速力で走りこんでくるのは、虎若子とも呼ばれている勇猛な武将だ。そのことを失念していたわけではないが、徐々に幸村は佐助との距離を縮めてくる。
 必死で佐助も走っている訳だが、どんどん背後に幸村の存在が大きくなってきて、焦りながら走りこんだ。ずさささ、と足元を滑らせて野山を駆ける。慣れたとはいえ、二足歩行よりは獣の姿の方が早いと自分でも気付いていた。

「これ、佐助ッ!」
「やだやだ、旦那追ってこないでーッ」
「そうは言ってもっ、これ、待たぬか!」
「ごめんなさぁぁぁぁい」

 首筋にすかすかと何度か風が過ぎる。どうやら幸村は本当に間近に迫ってきていたようで、肩越しに振り返ると必死に手を伸ばしている姿が見えた。

 ――つかまっちゃ駄目だ。

 何故かそんな風に思って、足元を大きく蹴った。しかし一瞬でも余所見をしたのがまずかった。

「あ」

 振り返った肩越しの幸村が素っ頓狂な声を上げる。それと同時に佐助もまた足元が宙に浮くのを感じた――そして視界が廻る。

 ――ぽんっ。

 軽快な音と共に変化がとける。そして加速していた衝撃のまま、小さな狐の姿の佐助は、ころころと転がった。

「佐助ええええええっっ!」

 転がりながら焦った幸村の声が森一面に響いていった。









 足元を滑らせて転がった佐助は、小さな狐の姿に戻っていた。
 ころころとどんぐりのように転がり、ぺしょ、と腹ばいになって止まる。

「――…」

 のそ、と身体を起こしてから、項垂れるように座り込むと、背後から幸村の木の葉を踏みしめる音が聞こえた。

 ――俺、かっこ悪い。

 逃げ出してそれで雲隠れともいかず、こんな風に本性を晒す羽目になったのが恥ずかしくてならなかった。項垂れながら、小さな耳を伏せていると、静かな声で幸村が声をかけてきた。

「お前、あの時の仔狐だな?」
「――…ッ」

 この姿に幸村は気付いたのだろう――彼に助けられ、そして春に山に戻された狐であることに、気付いたのだろう。
 佐助はきゅっと小さな身体を余計に小さくして、か細い声で言った。

「ごめんなさい、言いつけ破って」

 ごめんなさい、と続けて繰り返していると、徐々に目頭が熱くなってくる。先程も大粒の涙を零したというのに、まだこの瞳は水気を帯びてしまうのか。
 じわじわと熱くなってくる目頭を、小さな前足で、ごしごしとこすってから、佐助は続けた。

「ごめんなさい…嘘ついてて」

 震える声で謝っていく。すると、ぼろん、と大粒の涙が瞳から零れた。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

 一度は「戻ってきてはいけない」と言われた身だ――それなのに、幸村恋しさに、変化して――妖の術まで手を染めて、そして彼の元に潜り込んだ。助けられた生のまま、狐として生きていくには、どうしても幸村が恋しくてならなかった。

「でも、俺、どうしても旦那の側に居たくて…」

 何度も繰り返し誤り続けていると、惨めな気持ちになってしまう。耳をしょんぼりと項垂れさせながら、ぷるぷる震えて涙を堪える。それでも涙は零れてきて、佐助の長い髭に、ぴん、と雫が跳ねた。

「馬鹿者」

 ――ふわ。

 真後ろから幸村の声が聞こえた。何時の間にそんなに近づいていたのかと云うくらいに近づいて、そのまま地面から身体が浮く。
 幸村は佐助を後ろから抱き上げ、自分の胸元にぎゅうと抱き締めてきた。

「よう、此処まで大きゅうなった」
「だんな?」
「俺が喜ばないはずはなかろうが」

 顔を近づけて佐助を抱き締めてくる。幸村の顔を見上げてみると、幸村は嬉しそうに、愛しそうに微笑んでいた。そして小さな身体を抱き締めてくれる。

「佐助、佐助…よう、よう戻ったな」
「旦那ぁ…」

 幸村は鼻先に唇を寄せて、擦り寄ってくる。鼻先がくすぐったくて瞳を細めると、耳を撫でてくれた。彼の大きな手と、そして嬉しそうな顔に、じんわりと胸元が熱くなっていく。佐助は幸村の頬に擦り寄りながら、屋敷に戻ろうという、幸村の言葉に素直に頷いて、そして一緒に屋敷へと戻っていった。





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