狐の恩返し 拾われた先での生活は仔狐にとって暖かいものだった。忘れかけていた温もりを教えてくれる人は人間だ――しかし仔狐にとってそれは然程の問題ではなかった。 ただ別れがきた――それは防ぎようのない事実で、春まだ浅い山で狩に連れ出された時、彼は「着いて来てはいけない」と背を向けた。 ――どうして? 悲しかった。だけどそれよりも寂しそうな彼の背中に、彼を困らせてはいけないのだと気付いた。 ――わらって。わらってよ、ゆきむらさま。 彼の笑む顔が好きだ。だからこんな時でも悲しい顔だけはさせたくなかった。まだ寒い時期だ――手足も冷えてしまうのに、彼は鼻も耳も真っ赤にしながら、仔狐の行く先を見つめている。 ――だいすき。 ふと出てきた言葉に、仔狐は自分の中の恋しさに気付く。でも今は別れなくてはならない。自分が姿を消さないせいで、彼が風邪でも引いたらことだ。そう気付くと、仔狐は彼に背中を向けて、と、と、と、と雪の中を走っていった。 「達者でな…」 走り去る自分の背中に、彼の涙交じりの声が聞こえた。 山に戻ってからの仔狐は生きるのに困ることはなかったが、ちょっとした木漏れ日の中にも彼のことを思い出す日々だった。時折屋敷近くまで駆けて行って、こっそりと彼の様子を伺う。鍛錬をしているときや、縁側でのんびりしている姿を見るにつけて、再び彼の元に行きたいという願いが生まれてきた。だがそれも容易く出来ないことも知っていた。 ――どうにかして彼の元に行けないかな。 小首を傾げて考えて、そうだ人間になれればいいんだ、と思いついた。その思いつきは将に天啓とでも言うべきもので、仔狐は早々に決めると山の奥深くに突き進んでいった。 山の奥深く――其処には妖と呼ばれる類の者達がいる。その彼らに教えを請おうと、仔狐は必死で山の奥に向かって行った。 それから数ヶ月、仔狐はやっとの思いで人に化けることを覚えて、そして山を下っていった。 仔狐は屋敷の門前に立つと、辺りをきょろきょろと見回した。 ――よし、誰もいない。 小さなちんまりした身体で、その場で尻尾を追いかけるようにしてくるくると廻る。そして程なくして、ほわん、と小さな少年の姿になった。 「覚えてるかなぁ…あっ、でもこの姿じゃ駄目か」 ――それでも幸村様の側に行きたい。 仔狐は自分の手を、ぐっぱ、ぐっぱ、と握ったり解いたりしてみる。それから、変化に不十分なところはないかと、くるん、と背後を振り返って自分の尻尾がないのを確認した。 さらに髪を撫でつけながら、耳が出ていないことも確認する。 「よーし、俺様完璧!」 すう、と息を吸い込んで前進しようとした瞬間、空からはらはらと小雨が降り注いできた。 ――さああああああ 「天気雨だ…御山の大将の計らいだねぇ」 仔狐はそんな風に空を仰いでから、両手を合わせて山にむかって、ぺこん、と頭を下げた。 そして一歩前に進みこむと、門前で彼は大きく息を吸い込んだ。 「頼も――――ッッッ!」 腹の底から大きな声を出して、そして息を切らせて反応を待つ。だが誰の姿も見受けられない――仔狐は小首を傾げてから、もう一度大きく息を吸い込んで叫んだ。 「頼も――――ッ」 「そんなに声を張り上げずとも聞こえておる」 「あ…ッ」 渋々といった風情の幸村が――逢いたいと願っていた相手が、中から出てくる。彼は別れた時と寸分違わない姿をしており、今すぐにでも飛びつきたい衝動に駆られるのを、じっと押さえた。 ――幸村様だ! まさか彼が自ら出てくるとも思っていなかった――でも嬉しい。 両手を袖に入れて屈みこんでくる姿は優しく、背にかかる髪がゆらりとゆれる。意志の強そうな瞳が、自分をさらりと見て微笑むのを、仔狐は瞬きすら忘れて見入ってしまいそうになった。それもその筈で、幸村は誰の目から見ても端正な顔立ちをしている。 ――嬉しいな、もう逢えた。 仔狐は大きな瞳をぱちぱちと瞬いてから、嬉しさのあまり笑顔になってしまうのを押さえきれず、照れて俯いてしまう。 「して、用向きは何ぞ?」 「あ、あの…ッ」 幸村がそう問いかけた瞬間、仔狐はハッと気付いた。本題に進まなければと意気込む。だが、彼に受け入れられるだろうか――それを心配しながらも、どきどきと激しくなる鼓動に押されるようにして、思い切って告げた。 「此処で雇ってくださいッ!」 「――…」 不意にしんと静まったことに不安がよぎりそうになる。 ――ぽん。 だが触れてきたものに――頭に乗ってきたのが彼の手だと気付いくと、くしゃくしゃと撫でられた。大きな手に撫でられながら見上げようとすると、彼は空を仰いで呟いた。 「狐の嫁入り、か…」 「え?」 「いや、こちらのこと」 「俺、何でもしますッ!だから此処で働かせて…って、うわッ」 「軽いな…」 一気に捲くし立てる様にして言うと、幸村は軽々と仔狐を抱え上げてきた。鼻先に懐かしい香りが触れる。仔狐は彼の首元に、きゅ、としがみ付くと、彼は怒るでもなく「いいだろう」とだけ言うと、優しく背中を撫でてくれた。 →next 100914/101027 up |