狐の恩返し



 如月の、雪が多く積もった日に、狩に出ていて小さな子狐を拾った。
 最初に気付いたのは一緒に狩に来ていた猟犬で、雪に半分埋もれた小さな身体に、犬の仔を見つけたのだと思った。一緒に来ていた猟犬の赤丸がしきりに吼えるので小屋に連れて行った。そしてよくよく観てみると、それは仔犬ではなく仔狐だった。
 小さな仔狐にどうしようかと思っていると赤丸は円らな瞳で見上げてくる。名前こそ【赤丸】だが雌犬の彼女は幸村から奪うようにして仔狐を暖め始めた。
 そして眼を覚ました仔狐は、まだ幼くて、小さくて、幸村の伸ばした指をすんすんと嗅いでみるばかりで、その幼さに居ても経ってもいられなくなった。

 ――春になったら、山に戻してやるから。

 そう約束した。
 屋敷では、とたとた、とたどたどしく歩く仔狐に思わず表情が和んでいった。夜寝るときに懐に抱き締めていると、くうくう、と鼻を鳴らしながら擦り寄ってくる。
 小さなぼさぼさの毛が、ほわほわ、と膨らむようになっていくのを眺めながら、幸村は春が来なければと思った程だった。

「直に桜も咲こうのう…」

 春まだ浅い弥生も終わりの頃、幸村が縁側で暖をとっていると、名残雪の上を飛び跳ねる仔狐が、きゅ、と小さな声を上げた。

「春が来るのう…」

 ころん、とそのまま縁側に倒れこむと、慌てたようにして小さな身体を跳ねさせて、仔狐は駆け込んでくる。そして雪で冷たくなった前足の肉球を、ぺた、と幸村の頬につけて見せた。

「冷たいぞ、これ」

 咎めるように言うと、すう、と仔狐の瞳が悪戯っ子のように細くなった。かと思うと仔狐は冷たい鼻先を、すんすん、と幸村の首元に這わせてくる。

「ひゃッ!つめた…――っ」

 あまりの冷たさに幸村が飛び跳ねる。だが仔狐はそのまま襟首から鼻先を埋めて、ずんずんと突き進んでいく。

「これ、これッ!――ッ、ふ、あはははははッ」

 冷たい鼻先が、小さな髭が、口元の毛が、ふわふわと幸村の肌を擽っていく。擽ったさに身もだえしていると、ころん、と腹の辺りから仔狐が顔を覗かせて、にや、と笑ったかのように見えた。

「お前は悪戯っ子よの」

 腹に丸く収まっている仔狐を、横になりながら撫でる。すると小さくてもふわふわした尻尾が、くるん、と動いて幸村の手に触れた。

「幸村様…いつからご懐妊を?」
「馬鹿を申すでない、海野」

 背後から聞こえた声に、幸村が首を巡らせる事無く答える。すると海野は幸村の腹を指差して信じられないものを観た様に表情を凍らせた。

「馬鹿者、よう観ぃ」
「きゅ?」

 幸村が背後の海野に怒り交じりに言った矢先に、袂から仔狐が顔を出す。すると海野は大仰に溜息を付いて、良かった、と腰を下ろした。

「脅かさないで下さいよね、幸村様。はい、お茶ですよー」
「かたじけない」

 幸村は、よいしょ、と身体を起こして座ると、腹にまだ居座っている仔狐を撫でた。いわばカンガルーのように腹に仔狐を収めているわけで、袂から顔を出す仔狐は茶菓子と幸村を交互に眺めていた。

「お前も食うか?」
「きゅ」

 幸村が聞くと仔狐が小さく啼く。今日のお八つは御焼きだった。中には野沢菜が入っている。それを千切って渡すと、仔狐ははぐはぐと食べていく。

「幸村様、其れ、どうするんですか」
「そうだな…そろそろ山に返さねばな」
「名前も付けず、狩に繰り出すときに連れて行くくらいで、あんまり可愛がっていないのかと思ってましたが、どうして、どうして」

 海野は首を振りながら苦笑する。そして幸村に、可愛がって居られるようで、と告げた。

「――やはり解るか」

 幸村は照れたようにして御焼きの二個目に手をつけた。そうこうしている間にも仔狐は幸村の腹と服の合間で丸くなり、もぞもぞと動く。

「本当に幸村様はお優しい方だ。俺を此処に呼び入れた時も」
「瀕死の鳥を見つけた、だったかな」
「正解」

 くくく、と咽喉を震わせる海野はふわりと身体を動かした。その彼の影に、何枚もの羽根が映るが、実際にはそのようなものは存在しない。

「幸村様は妖さえにもお優しい。故に、獣とて…代わりはございませんでしょうが」
「やはり還さねばならぬか」
「山の生き物は、山に。自然の理を曲げてはなりませぬ」

 諭すようにして海野は言い放つ。この不思議な気配にさえすでに仔狐は馴染んでしまっていた。眠いのか、くあ、と欠伸を掻くだけだ。

「致し方あるまい…」

 しょんぼりとする幸村に、海野は「諦めなされ」と告げていく。そして名残を惜しむようにして幸村は腹に蹲る小さな仔狐を抱き締めた。










「暇よのう…」

 つい数ヶ月前には膝に乗っていた小さな温もりがあった。別れは唐突で、雪解けと共に狩に行ったとき、仔狐を野に放った。何度か振り返る仔狐に、戻ってはならぬ、と厳しい声を向けた。
 その度に、そろり、とついて来ようとするのを、何度も諌めて――目頭に浮く涙を気付かれないようにして山を降りてきた。
 それから桜が散り、新緑を迎える頃になっても、幸村の胸元にはぽっかりと穴が出来てしまっていた。

 ――あの小さな重みが恋しい。

 ふわふわの尻尾も、小さなすべらかな耳も、愛くるしい瞳も仕種も、まだ瞼の裏に映るものだ。幸村は縁側でぼんやりと庭を眺めていた。すると俄かに雨が空から降ってきた。そして雫は次第に霧雨になる――しかし不思議なことに空は晴れていた。

 ――さああああああ

「お、狐の嫁入りか」

 此れは虹が出るな、と幸村が背を伸ばしかけた瞬間、門前から大きな声が聞こえた。

「頼も――――ッッッ!」
「――…ッ」

 少年のような甲高い声が屋敷に広がる。今日は生憎と屋敷の者たちは買出しに出ており手薄だった。幸村は重くなりかけていた腰を上げると、何だろうかと門前に身を躍らせた。

「頼も――――ッ」
「そんなに声を張り上げずとも聞こえておる」
「あ…ッ」

 渋々といった風情で玄関先に顔を出すと、門前に一人の少年が立っていた。今叫んだばかりというように、両手を拳にしており、髪は茜色、そして瞳がなんともいえないほど美しい碧色をしていた。

 ――なんと愛らしい。

 少年は痩せっぽちで、足先は泥に塗れていた。だが幸村は追い返す気にはならずに、玄関から彼の方へと足を向けた。両手を袖に入れて屈みこむと、少年は大きな瞳をぱちぱちと瞬いてから、何故か嬉しそうな笑顔を向けて――頬が桃のようにふっくりと赤らんでいたのだが、幸村はじっと彼を見下ろした。

「して、用向きは何ぞ?」
「あ、あの…ッ」

 幸村がそう問いかけた瞬間、少年はごくりと咽喉を鳴らしてから、大きな声で彼に懇願した。

「此処で雇ってくださいッ!」
「――…ッ」

 幸村はぎゅっと瞳を瞑ったままの彼の頭に手を、ぽん、と置くと空を見上げた。空には俄かに虹が出ている。

「狐の嫁入り、か…」
「え?」
「いや、こちらのこと」
「俺、何でもしますッ!だから此処で働かせて…って、うわッ」
「軽いな…」



 驚いて頭を起した少年を、幸村はひょいと抱え上げる。そして「いいだろう」と言うと、軽く小さな身体を抱きかかえたまま、屋敷の中に連れて行った。
 此れが佐助と幸村の出会いだった。






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