狐の恩返し




 ――我が屋敷には銀狐が居りまして。

 この屋敷の主、真田幸村はそのように語ると傍らに座り込む青年の方に、ちらり、と視線を向けた。

「ですから、無用な心配でござる」
「しかし…」
「身の回りのこと、戦のこと、全てこの者等に任せております故」

 幸村はそう言い放つと頑として客人の話を受け入れようとはしない。その間もずっと傍らでは茜色の髪の青年が控えて、何度か溜息を繰り返していった。

「いいの?あんな風にして追い返して」

 客人が帰った後、呆れたように青年が答えた。すると幸村は咽喉の奥で笑ってから、彼の胸に顔を埋めた――そして腕を背に回して、ぽんぽん、と叩く。

 ――ふわり。

 幸村のそれが合図だったのか、嘆息した青年の腰から尾てい骨の辺りに、ぶわり、と大きな、ふわふわした尻尾が現れた。
 すると待ち構えていたかのように幸村は身体を這わせて彼の尻尾に頭を乗せて抱き締める。

「はぁ…やはりお前の尻尾は気持ちいい」
「よく言うよ…さっきの客人、旦那が俺様のことを【狐】とか言うのに、目を白黒させていたね」

 ――変化も上手くなったでしょ?

 青年は尻尾と一緒に出した、大きな三角形の耳を指先で毛繕いする。幸村はその間にも大きな尻尾を抱き締めるばかりだ。

「俺様も変化も上手くなったし、もう野たれ死ぬようなことは無いから…安心して嫁でも何でもとっていいのに」

 幸村に背中を向けたままの彼が、胡坐を掻きながら言う。静かに身体を起こした幸村は、彼の尻尾ごと、腕を彼の胸元まで回して背後から抱き締めた。

 ――ぎゅう。

「旦那…?」
「俺にはお前で十分だ」
「だから…」
「お前が来た日、その日に決めたのだ」

 幸村は揺るがない――抱き締める腕の力を抜いて、身を伸ばして後ろから彼の耳の付け根に齧り付く。すると彼は「仕様も無い人」と諦めた口調で呟くと、くるりと身体を反転させて幸村を胸元に引き寄せていった。











 一面の銀世界。こんな日には音も何も無くなってしまう。
 いつから一人なのか、それさえもはっきりしないが、気付いた時には一人になってしまっていた。たしか黒い夜が来たときに、親は消えてしまったような気がする。ここで待っていなさい、と穴の中に押し込められて、外の夜の最中で沢山の咆哮を聞いて、それが最後だった。
 それから季節が廻り、なんとか食べるものを自己流で獲り、生き抜いてきた。
 だがこの雪だ――中々食べるものが無い。とぼとぼと歩きながらも足元がふらついて、視界も歪んできていた。

 ――とさ。

 小さな音を立て雪の上に転がる。いつも凍える雪なのに何だが柔らかく感じてしまうほど、身体は衰弱していた。

 ――おなかすいた。

 ぽつりとそう思う。足を動かしても――動かそうとしても、ぴくりとも動かない。しんしんと降る雪を見上げて、ふ、と息を吐いた。
 辛うじて息は白く浮き上がり、それを眼で追ってから、そっと瞳を閉じた。

 ――さむい。

こんな寒い日には、同属同士で身体を寄せ合った。優しく引き寄せてくれたのは、母だっただろうか。
 ――ここでおわるのかな。

 静かに雪に埋もれて、そして消え去るのか。そう思うと「厭だ」と否定したくて堪らなくなる。だが其処から抜け出すだけの力はもう当に残っていなかった。

 ――あ、やわらかい。

 しんしんと降る雪。それが小さな身体を包み込み始める。すでに冷たさも感じない。ただ小さい身体を雪に横たえて、静かに眠るだけだ。雪に埋もれて、二度と眼を覚ますことなどないと思っていた。

 ――直に暖めてやろう。

 どれくらい経ったのか、ふわりと耳心地の良い声と共に身体が持ち上げられる。何か強い力に抱き締められて、じわじわと「暖かさ」を感じた。

 ――あたたかい。

 ぬくぬくとした暖かさに身体の機能が動き出す。その暖かさに引き戻されるようにして眼を覚ました先には「人間」がいた――いや、最初は犬の大きな鼻先が視界に入って、恐怖のあまり、ぴゃーぴゃー、と泣き声を上げてしまった程だった。

「おお、眼を覚ましたか!」

 彼はそう言った。そして自分を舐めていた大きな犬の頭を撫でると、でかしたぞ、と声をかける。何がなんだか解らないと辺りを見回すと、其処は小屋になっていて、囲炉裏が暖かな火を持っていた。

「狩に来てみれば、見つけたのが狐とはな…しかもこんなに痩せっぽちで」

 そろり、と人間が手を出してくるのに、小首を傾げる。
 警戒心の欠片もなく、彼の手に撫でられながら、この暖かなものは何だろうと身体の奥底から込み上げるものに小首を傾げるだけだった。

「腹が空いておろう。しかし先ずは白湯か重湯か、といったところか…」

 衰弱しきった身体を軽く抱きかかえて――其れでなくても小さいのだが――彼はそう呟いた。そして思い立ったが吉日とばかりに立ち上がり、外の様子を見ると、がらり、と戸を開け放った。

「雪が止んだ!よし、赤丸、屋敷に戻るぞ」

 犬に話しかける彼は自分の懐に小さな身体を押し込めた。布一枚を隔てて触れる体温に、かすかに聞こえてくる鼓動に、瞼が重くなる。

「少し待っておれ。春には再び山に戻してやるからな」

 ――何、直の間のことよ。

 彼はそういうと小さな身体を抱き締めたまま、山を降りた。そして次の春、約束通りに春が来るまで、彼の屋敷で暮すことになった。







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100909・100910 改稿/101025 up