6.



 幸村と顔を合わせずらく、自然と視線を反らしてしまう。呼ばれても理由をつけて逃げ回る。あからさまに避けていると気付かれても可笑しくない程、佐助は幸村の前から逃げていた。

 ――どんな顔すれば良いってんだよ。

 普通にと思うと、普段どんな風に対峙していたかが解らなくなる。そしてまた避けてしまう。それの繰り返しを幾日も繰り返していった。
だが何時までも逃げ切れるとも思っていなかったが――そんな折、好都合とばかりに任務を言い渡された。

 ――出掛けの時の旦那、あの時の事、何も言わなかったな。

 約一週間の行程を終えて、上田に戻る帰路で思い出した。出てくる時には、やはり幸村の顔を見ることが出来ずにずっと俯いていた。顔を上げろといわれても、視線を反らしてしまって、まともに幸村を見ていない。

 ――離れると旦那の姿を見たいと思うのになぁ。

 ざざざ、と木擦れの音を立てながら道々を掻い潜る。
 信玄公からの任務は、越後への密使――久しぶりに会ったくの一は柳眉を逆立てて睨み付けていたが、佐助の気配に首を傾けたものだった。

 ――お前、何かあったのか?

 珍しく殊勝にかすがが話しかけてきた。帰り際に振り返ると、かすがは眉根を寄せたまま見上げてきていた。

 ――別に。
 ――だが…何となくだが、変わったように思えるが。

 そう告げられて胸がどきりと鳴った。それもその筈で、謙信公の側に控えるかすがと――二人の遣り取りに自分たちを重ね合わせて見ていた等と、そんな事は言える筈がない。

 ――気のせいだって〜。

 場を誤魔化す為に、かすがを引き寄せて抱き締めた。昔には感じられない女の匂い――焚き染めた香の香りにくらりとしながら、盛大な平手を食らったのは言うまでもない。
 鼻先に香る芳しさも、ふっくらとした心地よい体つきも、佐助を興奮させることはなかった――それよりも幸村の側に居る時の方がずっと、酩酊にも似た香りを感じる。幸村は佐助が仕えるようになってから、衣服に香を焚くのをやめた。それは鼻が利き過ぎる佐助を気遣っての事だった。

 ――旦那、もてなくなっちゃうよ?
 ――別に構わんさ。佐助の鼻が曲がるよりはな。

 幼心にそう辛口をきいた時、幸村は笑いながら頭を撫でてくれた。
 その時は奇特な御仁だとしか思わなかったが、今にして思えば彼なりの気遣いだったのだろう。

 ――旦那は俺を気遣ってくれる。忍なのに…ちゃんと見てくれる。

 それは幼い時分に彼に仕えてから変わることがない。昔は忍を人として扱う彼に、ただ「甘い」としか感じられなかった。
 だが今なら別の要素も含めて理解しそうになる。

 ――いや、違う。俺は旦那が好きなんだろうけど…。

 自覚してしまえば簡単な事だ。胸に秘めていても、秘めているくらいなら、差し支えるようなものでもないだろう。

 ――でも旦那から誘ってきた。

 という事は、自分に好意を向けてくれているのか。しかし忍の性質と云うものを考えてしまうと、そう楽観的にもなれない。

 ――俺、一応忍だし。道具だって…そう思われているなら…。

 からかって遊ぶには調度いい玩具――幸村がそんな風に考える人間ではないと知っていも、どうしてもその可能性を考えてしまう。

 ――だって俺様だって、傷つきたくないし。

 所詮は保身だ。この一週間、ずっと其ればかりを考えてしまっていた。考えてないのは任務の間だけだ――上田が近づくにつれて再び思い返してしまう。

 ――旦那の顔、見たいなぁ。

 一気に足元の枝を跳ねていく。心が浮き立つのに、何処か重苦しいようにも感じてしまう。だがそうこうしている間にも邸が見えてきた。近くに張り巡らせている罠を掻い潜り、自分が戻ってきたことを他の忍隊の者たちに伝えるべく、指笛を軽く吹いた。

「佐助ッ!」

 急に呼ばれて樹の上から眼下に視線を落とす。すると幸村が額に汗を光らせたままで、眩しそうに振り仰いでいた。

「帰ってきたのだな、佐助ッ!」
「ただーいま、旦那ッ」

 手には槍代わりの、鍛錬用の棒を持っている。出掛けとは違ってやっと顔を見ることが出来るようになっていた。遠く離れているからかもしれないが、佐助は樹の上から手を降った。










 任務帰りの忍装束も解かないままで、直ぐに幸村に謁見した。任務が滞りなく終了したことを告げて、労いの言葉を貰う。

 ――良かった、普通に話せてる。

 何事もなかったかのように――気拙い想いもせずに過ごし、軽口を叩くほどになっていた。そんな穏やかな雰囲気にほっとしていた矢先に、不意に幸村が腰を上げて近づいてきた。近づく幸村に、一瞬だけびくんと身体が硬直してしまう。身体を動かせずにいると、ぬ、と幸村の手が伸びてくる。思わず佐助は目を瞑った。

「――――っ」

 ――くしゃくしゃ。

 伸びてきた幸村の手が、思い切り佐助の頭を掻き混ぜる。その動きが昔と変わらず、佐助は一瞬ぽかんと呆けてしまった。見上げる先には、にこにこ、と穏やかに微笑む幸村がいる。

「ようやったの、佐助」
「――ッ、ちょっと、何時までも子ども扱いしないでよねッ」

 ぱし、と撫でて来る手を払う。すると今度は腕が伸びてきて首に絡まり、ぐりぐりと撫でられた。

「わああああ、もう旦那ッ!俺の頭、鳥の巣にしたいのッ?」
「何を言う。労っておるのだッ!ありがたく受け取れッ」
「いーやーだーッ!」

 あははは、と盛大に笑いながら攻防を繰り広げていく。どんなに振り解こうとしても幸村は子どものように無邪気に笑うだけだ。ぐいぐいと引き寄せられて鼻先に幸村の髪が触れてむず痒い。だがそれも不意に、ぴた、と止まった。

「――…っ」
「何、旦那?」

 す、と少しだけ身体を離した幸村は、くん、と再び佐助に顔を近づけて――匂いを嗅ぐよう鼻を動かした。そして、ぽん、と佐助の頭に手を乗せて上向かせる。視界に入った幸村は瞬時にして無表情に近くなっている。

「任務、ご苦労。だが…お前もやはり若いのだな」
「え?」

 何のことか解らずに瞬きをすると、ぐ、と胸倉を掴まれた。そして再び幸村は佐助を引き寄せて、くん、と鼻を動かした。

「女子の匂いがする」
「あ…これは」

 思い当たる節はある。越後を立つ時にかすがを抱き締めた。その時の香りが移っているのなら、あながち幸村の鼻は間違っていない。
 はぐらかすべきか、と逡巡している間に、間が空いてしまう。そうなると肯定してしまったようなものだ。
 す、と幸村は佐助の胸倉から手を離すと、正面に膝立ちになって見下ろしてきた。じっと強い視線が注がれてきてどうにも気拙く感じられる。佐助は幸村から、すい、と視線を反らした。

 ――ぎゅ。

 反らした視線の先にある幸村の手が、ぐっと握りこまれた。

「なあ、佐助。縁談を受けようと思うのだが」

 頭上から聞こえたのは、静かな声だ。その声に一瞬反応出来なくなる――今、なんと言ったのか、と脳裏で何度か繰り返し、こく、と咽喉を鳴らした。そして幸村から視線を反らしたまま、ゆるゆると口を開いた。

「――良いんじゃないの?」

 ふる、と唇が震えてしまう。何故自分の唇が震えてしまったのか――佐助は手を口元に宛がった。すると頭上から焦ったように、追う様に幸村が畳み掛けてくる。

「本気か…本気で、そう…言っておるのか?」
「本気も何も、早く落ち着いてくれればさ、俺様も安心するって話…」

 はは、と空笑いを浮べながら口だけが言葉を紡ぐ。だが言いながらも幸村の顔は見ることが出来なかった。言いながら、気を赦せばかたかたと唇が戦慄いてきてしまう。

 ――旦那、急に何言い出すんだよ。

 何故彼がこのタイミングでそんな話をしてきたのか解らない。今までも簡単にしてきた話なのに、どこか重苦しく感じられる。何かひとつでも間違えば、全てが壊れてしまうかのような危うさがある。佐助は慎重になりながら、幸村の反応を待った。

「そうか…」

 何の感情も読み取れない声で、幸村が溜息と共に呟く。

 ――ぱた。

 目の前の畳が急に湿って、染みを作った。それに気付いて顔を起すと、佐助は瞳を見開いた。目の前では幸村が、大粒の涙を零している。音もなく、ただ零れるままにされている涙が、目の前で再び、ぼろん、と落ちた。

「旦那?え、ちょっと、何泣いて…」
「お前の気持ちはよう解った!」
「え…」

 慌てて手を伸ばそうとすると、幸村はすっくと立ち上がり、ぐす、と袖で鼻を啜った。伸ばされた手が空を切る――佐助は戸惑いながら立ち上がった幸村を見上げた。

「下がってよいぞ」
「ちょっと、旦那?一体どうし…」
「下がれッ!」

 ぴしゃり、と大きな声で命令される。主の命令は絶対だ。こんな風に癇癪を起したかのような幸村は初めて見る。

「――下がれ、佐助」
「――ッ」

 びくん、と背を震わせてから、佐助は静かに頭を下げると部屋から姿を消した。ただ何かを間違った事だけは解った。しかしそれを弁明するだけの勇気はなかった。










 縁側に座り込み、空に瞬く星を見上げる。袖の中に手を差し入れて腕を組むと、幸村は静かに呟いた。

「追えば逃げる、待てば獲られそうになる」
「まだ子どもで御座いますからな」

 背後から音もなく一人の男が現れた。そして幸村の隣に座り込んでくる。横に彼が胡坐を掻いたのを見て、幸村はぎろりと睨め付けた。

「海野…今度は邪魔してくれるなよ」
「何のことでしょう?」

 海野六郎は両手をひらりと上に向けて肩を竦めてみせる。だが咽喉がくつくつと笑っている処からして、幸村の予想は外れてはいない。

「先日の件…お前の差し金だろう?」
「さぁ?」
「邪魔はするな」

 ふい、と顔を空に向けると、横から盃を差し出される。それを受け取りながら、咽喉に酒を流し込むと、同じように海野もごくりと咽喉を鳴らして酒を飲み込んだ。そして楽しそうに斜に構えて覗き込んでくる。

「邪魔ねぇ…簡単に小僧っ子のものになるのも腹立たしいから、つい。……あいつ、何がなんだか解らないって感じに落ち込んでますよ?」
「そうか…」

 ととと、と空になった盃に横から直ぐに酒が注がれる。背後から照らされてくる灯りが、仄かに酒に映りこむ。海野は、くい、と酒を咽喉に流し込むと静かに――だがどこか楽しげに話し出した。

「もう闇にじーっとり浸ってって鬱陶しいったらないね。膝抱えちゃってさ。でも…ちょっと良い様だと思う」
「あまり苛めてやるな」
「それは幸村様でしょ?苛めちゃ駄目ですって」

 ――子どもなのは誰なんだか。

 ぴ、と人差し指を幸村に差し向けて海野は覗き込んでくる。ぐっと咽喉に詰まっていると、ほら、と彼は楽しげに笑いだした。

「俺が子どもだと言いたいのだな?」
「まぁ、そうですね。もう三十路も足突っ込んでどれくらいなんで?」
「――海野にしてみたら俺など、いつでも子どもだろうよ」
「そういう開き直りしますか」

 くいくいと酒を呷りながら、静かに話し出す。そういえば酒の席に佐助を呼んだ事はなかったと思い出した。そして、膝を抱えて蹲る佐助の様子を想像して、はあ、と溜息をつく。苛めているのは自分だと告げてくる海野に、それもそうかもしれないと思ってしまう。

「子ども…か。佐助と出逢ったのはまだ、佐助が十三の齢だったな」
「ほう?」
「それからずっと…待っておる。だがそれも仕舞いだろうな」

 ――待つのも、もう終わりにしたい。

 十三の齢に出逢った時には、まだあどけない少年だった。小さな身体であれこれと動き回る姿に関心し、何処でも連れていった。側にずっと置いておきたくて仕方なくなっていく――それはいわば独占欲のようなものだ。

「案外、佐助の奴は鈍感で困る」
「こんなに幸村様はあからさまなのにね」
「言ってくれるな」

 手で額を押さえて項垂れた。すると背を海野がばしばしと叩いてきた。焦ってあれこれして来たが、今思い返すと恥ずかしくてならない。それだけ必死になっていたのに、自分だけの空回りに終わってしまっている。幸村は再び溜息を漏らすと、身体を傾けて柱に寄り掛かった。

「気付いてくれたら良かったのに」
「せいぜい頑張ってくださいよ」

 にやにやと笑いながら横目になる海野に、べえ、と舌を出した。そして幸村は空を見上げながら、瞬く星を見つめて再び深い溜息を吐いていった。




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