3. 眼下では信玄と幸村が熱く拳を奮わせていた。今に始まったことではない遣り取りに、はあ、と溜息をつく。佐助は樹の上から其れを眺めて、やれやれ、と首を竦めた。 ――まったくお盛んな事で。 あれほどの熱さを自分は兼ね備えてない。もし二人の間に混ざって来いと言われたら、断固として拒否する――その位に、彼らの熱さを遠巻きに眺めていた。 ――あれくらいで旦那の顔に傷はつかないけど、後で怒られるの俺様なんだよね。 万が一にも幸村に傷が付こうものなら忍隊の面々ならずとも、家臣らに非難をうけてしまう。矛先は全て佐助に向ってくるのだ。その事に納得いかない気もするが仕方が無い。 ――そろそろ止めに行きますかね。 ふう、と溜息をついてから佐助は指笛を鳴らす――それと共に大鴉が現れ、ひょい、と身を躍らせていく。 「大将、旦那ぁ、そろそろお仕舞いにして下さいよ〜」 「む…さす…――ッ」 佐助の声に反応して幸村が振り返りかける――だが其処に思い切り信玄の拳が入り込んだ。 ――ドゴォォォッ! 「ぬ?」 「旦那ぁぁぁぁぁッ?」 弾き飛ばされた幸村に、拳を当てた姿のままの信玄がふと動きを止めた。吹っ飛ばされた幸村の軌跡を追いながら、佐助が叫ぶ。すると飛ばされた先で頭を振りながら起き上がり、そのまま彼は近づいてきた。だが佐助の前を素通りしていく。 「どうした、幸村。気を抜くでないぞ」 「は…っ、畏まりましてございます」 ふる、ともう一度頭を振り、幸村が強い眼差しで信玄を見上げる。その視線の中に佐助は映っていなかった。 ――ちく。 前に進み出た幸村の背中を見送り、佐助は自分の胸元を押さえた。不意に声をかけた自分に怒っているのだろうか――それにしても、無視するなど珍しいことだ。 ――なんか余裕ないんじゃない? 眼前に迫る大軍――それを眺める幸村を見つめながら、佐助は後頭部に手を当てる。そして、すう、と息を吸い込みながら戦場の空気に身を浸していった。 初めて彼の後姿を追った時から、何処ほどの戦があっただろうか。足りない歩幅が徐々に広がり、彼の後ろを守ることにも慣れてきた。 だが幸村はただ背後を護らせてくれるような武人ではない。 ――自分の身は自分で護れ。 そう言い棄てられるかのように、彼自身に炎が纏わり付く――下手をしたら護るどころではなく、自分の身さえも危うくなってしまう。 加減などせずに、全身で、全力で向っていく姿は、清清しくもある。だがそれも時には佐助の胸に厭な燻りを与えるものになってきていた。 「ぐ…ぅ、――…ッ」 がく、と片膝をついた幸村が遠目に視界に入った。ふわり、と彼の長い髪が揺らめく。佐助は足場を蹴って幸村の元に駆け寄ろうとした。 「旦那…ッ!」 「来るなッ」 ――ゴォッ! 一喝する声が響いた瞬間、炎の柱が立つ。一歩遅かったら炎に巻きこまれていたに違いない。 ――全く、加減てものを知ってほしいねッ。 ぎり、と歯軋りする。佐助は目の前で咆哮を上げる主に向って、胸の内で毒づいた。そして視界に収めた彼の状態――傷の具合から、カウントダウンを始めていく。 「ごめーんね、馬鹿主のせいでゆっくり相手してらんないのよ」 かしゃん、と手元に手裏剣を構える。慣れた手つきでそれを、くるくると回して辺りを見回した。半弧を描いて敵がにじり寄ってくる。 背後では敵の悲鳴が聞こえる。それに伴って、地面の抉れる音と、埃の匂い――その中で幸村の声が響いている。 ――もって後少し。 「それじゃ、いっちょやりますか」 く、と咽喉の奥に笑いを含ませる。そして腰を落とすと、佐助は一気に陣形を崩す勢いで突き進む。 ――ざん、ざん、ざん 手に触れる感触など当に感じなくなっていく。数を数えるのも億劫になりながら、素早く印を組み込んで攻撃を繰り返す。 時折視線を動かして幸村の存在を確認する――気配だけでは彼が今どんな状況にあるのかを窺いきることは出来ない。だから五感の全てを使い込む気迫で集中していく。 鋭利になた聴覚に幸村の――息を切らしている音が聞こえた。 「ふ…――っ、は、はぁ…」 すとん、とその場に座り込んだ幸村が視界に入った。辺りには既に敵の存在は無い。辛うじて片腕で槍を握りこんでいる幸村が、かは、とその場に血反吐を吐いた。 「――…ッ、旦那ッ!」 振り向き様に声を掛けると、幸村は朧に視線を彷徨わせて顔を上げた。口元は血で染まり、肌には煤が付いている。そして佐助を探すように視線を彷徨わせると、口を動かした。 ――……… こんな時でも彼の口が紡ぐ――幸村の口の動きを読んで、背中がぐわりと熱くなる。佐助は舌打ちをしながら、目の前の敵を一掃すると勢い良く幸村の元に駆け込んだ。 「旦那、旦那…ッ、ちょっと、冗談じゃないよね?」 「――さ、すけ…か」 抱き起こしながら幸村を揺さ振る。すると閉じていた幸村が瞳を開けて見上げてきた。戦況はほぼ終結に向っている――背後に迫る敵ももういない。 ――からん。 軽い音を立てて幸村の手から槍が離れた。そして幸村は、はー、と深く呼吸を吐き出した。 「どうしたの、旦那?調子悪かった?」 「…少々、目が廻ってな…俺が不甲斐ないばかりに」 「全くだよ、もう…寝てないんじゃないの?」 ぎゅ、と幸村の身体を抱き起こしながら、膝の下に腕を差し込む。そして横抱きにすると心得ているとばかりに幸村は腕を佐助の肩に掛けてきた。 ――ひょい。 足元だけで転がっていた幸村の槍を弾ませて、手に取る。それを小脇に抱えると佐助はまだ燻る戦場の中を歩き出した。 ずり落ちそうになる幸村の身体を揺すり上げると、鼻先に彼の匂いが触れた。香に混じった埃と、血の匂い――それにぞくりと背筋が震える。 「佐助、もう大丈夫だ…下ろせ」 「駄ぁ目。あんた、ふらふらしてんだもの」 すたすたと歩きこむ戦場のあちらこちらで呻き声が響く。それを小耳に挟みながら陣営へと帰陣していく。佐助は幸村を抱き上げたままで、呆れた風に口を尖らせた。 「いい加減さ、自分の年を考えて行動してよね」 「何を言うか!俺はまだまだ…」 「そう言うことは無傷の時に聞きますよ」 ――幸村様。 真剣な眼差しで腕の中の幸村を見下ろす。すると幸村は、ぐ、と言葉を飲み込んだ。そして反論する代わりに、佐助の首に両腕を回すと、ぎゅうう、と強く抱き締めていった。 邸に戻ってから幸村は、皆に伝令をしたかと思うと、ぱたりと倒れ込んでしまった。未だにその時のことを思うと肝が冷える。 ――顔色、悪かったもんな。 彼の側で過ごしておきながら、変調に気づけなかった自分に腹が立つ。変調に気づけない――主の体調管理も自分の勤めと思ってきたのにだ。佐助は眠る幸村の傍らで、自責の念に囚われていく。こんな風に思うのは久しぶりで、どうにも胸元がざわついて仕方なかった。 ――旦那、戦の前は無理しやすいのに。 そんな事は当に知っていることだった筈だ。それなのに気付けずに、戦場へと送り出してしまった。 邸に着いてから、皆に報告をしながら伝令を向ける彼の後姿は、戦場で血反吐を吐いていたとは思えないほどに、しゃっきりとしていた。 ――他に漏れはないか、佐助。 ぴたり、と足を止めて幸村は問うてきた。どれも抜かりなく「ないよ」と応えた直後、そうか、と幸村は笑ったように告げてきた。 ――ふ。 告げた瞬間、背後に身体が傾がっていく。綺麗に流線を描いて幸村の髪が流れる。佐助が幸村の名前を呼びながら、倒れこむ背中を支えた時には、既に彼は意識を失っていた。 何度もその時のことを反芻しては、溜息を繰り返す――佐助は後頭部をがりがりと掻くと、眠っている幸村の顔を覗き込んだ。 ――綺麗な、顔。 傷を受けたことから発熱している幸村は、額に汗を浮べたまま、ふう、ふう、と規則正しくも、熱い呼吸を繰り返していく。傷に加えての疲労――それがピークになった結果だ。 ――これが時々、涎垂らしたり、緩んだりするって、皆知ってんのかね? そっと手を伸ばして額の手ぬぐいを取りあげる。熱くなっているそれを桶の中の冷水に浸し、ぎゅ、と絞ると再び彼の額に乗せた。 「ん…――」 「旦那?気が付いた…」 冷たい感触に反応して、うっすらと幸村が瞳を開ける。焦点が合わないらしく、ぱちぱち、と何度か瞬きを繰り返していった。 「さ、すけ…か?俺は…」 「戦から帰ってきてから直ぐにぶっ倒れたのよ。覚えてる?」 起き上がる素振りはなく、布団の中で仰向けになったままで、はあ、と手を伸ばして幸村は自分の額に張り付いていた髪を掻き上げた。 汗にしっとりと濡れて、幸村は居心地悪そうに眉根を寄せて見せた。 「なぁ、佐助」 「何ですか〜?」 「団子が喰いたい」 寝こんでいた人間が求めるものではないだろう――がく、と肩を落としながら、だが弱っている人間の求めるものくらい用意してあげたい気持ちで、佐助が腰を上げかける。 「…それじゃあ、ちょいと買いに行ってきますか」 ――くい。 立ち上がりかけた佐助を留め置くように、幸村の手が佐助の服を摘んだ。 「旦那?」 「俺も一緒に行く」 「はぁ?」 今度は流石に、はいそうですか、と頷ける筈はない。今の今まで意識を失って寝込んでいた人間が、街中に一緒についてくるなど言語道断だ。 「駄目だって。旦那、あんたどれだけ意識失ってたと思うの?」 「知らぬ。だが…身体を動かして…――ッ」 其処まで言うと幸村が、顔を歪めた。起き上がろうと上体を起し上げようとして、右腕を使ったようだ。 「――…解った?腕に、裂傷、あんの。しばらく使えないよ」 「なんと…これでは不自由ではないか」 ばたん、と幸村は再び背後の布団の上に逆戻りした。そして右腕を上げてマジマジと眺める。本人はどこでどうやって傷ついたかを覚えていないだろう。 「不自由でしょうよ。だから俺様が旦那の手となって、治るまでお世話しますって」 「――…なんぞ、お前が言うと破廉恥だな」 「破廉恥って言う人の頭ン中が破廉恥だっての」 「ぬ……ッ」 ふわ、と先程まで白かった顔に朱を乗せて、幸村が布団を左手でたくし上げる。そして黒い瞳で、じっと佐助を見上げると「団子」と再び強請った。 「解ってるよ、それは買ってくるから」 「――…」 「だから大人しくしててね」 さら、と汗に濡れたままの幸村の額を撫でる。そうするとまだ彼の額が熱いことが感じ取れた。そして佐助の手の冷たさを感じ入るように、幸村がふわりと瞼を閉じていく。 ――とくん。 「――……?」 良く見ると長い睫毛が、頬に影を落としていく。掠れた熱い吐息が、手に降りかかる。そして何より、こうして触れていることに、胸が小さく早鐘を打ち始めていった。 ――なんだっていうんだよ? 佐助は自身の胸の動きに小首を傾げる。すると幸村が気付いたのか、身体の向きを変えて佐助に手を伸ばしてきた。そしてその手は佐助の頬に触れた。 「お前は…怪我はなかったのか?」 「あ…うん。まぁね。俺様を誰だと思っているの?」 「そうだな…佐助は日の本一の忍。忍の中の忍だものな」 ふふ、と嬉しそうに話す幸村に、徐々に胸が高鳴り出す。その動きを追いやるように佐助はすっくと立ち上がると「それじゃあ、さっさと行ってくるから」と告げて部屋を後にした。 後ろ手に扉を閉じて、その場にしゃがみ込む。まだ胸が、とくとく、と細波を打ち付けていく。そうしている合間に、閉じた障子の向こうから幸村の呟きが聞こえてきた。 「――…よかった」 ――佐助が無事で。 「――――っ!」 何故幸村がそんな事を呟いたのか解らない。だが佐助を動揺させるには十分だった。 ――何言っちゃってるんだよ、旦那ってば! 「――くそッ、解らねぇっ!」 ぐわりと沸き起こる熱もそのままに、くしゃくしゃと髪を掻く。そして佐助は唇を噛み締めると軽やかに身を躍らせて街へと向っていった。 何が切っ掛けで喧嘩したのかは覚えていない。 庭先から鉢巻を取りながら歩み寄ってくる幸村に、ぷい、とそっぽを向いて見せた。すると困ったように幸村は小首を傾げて見下ろしてきた。 今からもう五年近く昔の――まだ幸村よりも頭二つ分以上も小さかった時のことだ。 「佐助、臍を曲げるな」 「でもね、旦那ッ!あんたはもっと回りを見るべきだよ」 噛み付く勢いで吐き捨てる。すると幸村は、ふむ、と顎先に手を添えて長考する姿勢をとった。そして徐に佐助の横に座り込む。二人の間には幸村のお八つが置かれていた。 いくつになっても彼はしっかりと一日の食事のほかに、お八つも取る。それも団子が大好物ときていた。用意するのは何時しか佐助の仕事になっていた。 「周り…か。俺は…」 佐助の言葉を反芻してから、幸村がぐっと詰まる。そしてくるりと声音を変えて、仕切りなおしとばかりに佐助を覗き込んできた。 「佐助、さーすけ」 何度も幸村が呼ぶ。一度で振り返らない自分が悪いのだが、そう呼ばれると余計に意固地になってしまう。だがこの時ばかりは、もっと言ってやろうと直ぐに顔を幸村の方へと向けた。 「ほれ」 「むぐ…――」 くわ、と口をあけた処に、とん、と素早く幸村の手が伸びてきた。口に団子を放り込まれて、一瞬何がなんだか解らなくなった。幸村は楽しそうに――串を佐助に向けたままで微笑んだ。 「甘いものでも食べて、少しは落ち着け。そんなに怒り顔でいると幸せが逃げるぞ?」 「旦那に言われたくないよ」 ばし、と彼の手から串を取り上げ、もく、と団子を噛み千切った。それと横目で見ながら、幸村も自分の団子を皿から取り上げて、ぱくん、と口に放り込む。 「――佐助は子どもよのぅ」 「子どもじゃないからッ」 ぷりぷりと怒っても、幸村には暖簾に腕押しだ。応えている風体は一切なく、ただ笑って済まされるだけだった。 ――あの頃と変わってない。 手にほかほかの団子を持って、佐助が思い出を脳裏に描きながら帰途につく。ひょい、と近道をつかって、樹から樹へと駆け込んでいく。 ――あの時も、もっと周りを見て欲しい、って言ったのに。 だけど幸村はわらって誤魔化すだけだった。 ――待てよ、あの時、旦那は何か言いかけてたよな。 記憶の彼方に追いやっていた事柄に気付く。手の中の暖かい団子を見つめてから、佐助は「後で聞いてみるか」と呟くと、彼の待っている邸へと向っていった。 →4 100214〜100216 青年期の話。ちょっと成長した佐助が優位に立ち始めた? 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