2.



 戦忍として参戦するのは初めてではない。だから、勝手は知っていたし、戸惑うこともなかった。だがひとつ違うとしたら、今回の戦では幸村の隊で――隊の戦忍として――戦場に身を投じるという事くらいだった。
 遠目に幸村の戦う姿を見たことは、何度でもあった。それなのに間近で、実際の幸村に触れてみて、全てがまやかしだったのかとさえ感じてしまった。

 ――何なんだよ、この人。

 戦場独特の雰囲気の中で、咆哮をあげて突き進む背中に、戦慄が走った。彼を取り巻く火焔が、まるで生き物のように揺らめいていく。
 佐助が軽やかに身を躍らせながら敵を屠る間にも、その倍以上の敵を薙ぎ払う――そして何より、誰も近づけないくらいの気迫――鬼気迫るとは将にこのことだと思った。

 ――信じられないくらいに強くて、かっこいい。

 靡く髪も、紅蓮の炎も、槍裁きも全てが網膜に焼き付いていく。出来うることならば、この瞬間を全て見つめていたいとさえ思うくらいに、佐助の目には幸村が猛々しく映った。

 ――鬼、というか、神。

 ごく、と何度固唾を呑んだか知れない。着いていくのがやっとだった。必死で手足を動かして、幸村の背後を守りに参じる。そうすると、瞬間、ひらり、と幸村が振り返った。煌く瞳に、ゆら、と焔が映りこむ。

「――――…」

 弧を描いて幸村の髪が靡いた。同時に彼の深紅の鉢巻も、はらり、と弧を描いた。彼の口が軽く動いて、そして微笑を向けた。

 ――え?

 佐助の瞳に、しっかりと焼きついたのは、三つの文字を呟く口の動き。確かめようにも次の瞬間には幸村は足場を蹴って、突進していってしまった。

「嘘だろ〜ん?」

 こんな阿鼻叫喚の場には似つかわしくない、間の抜けた声を上げて、佐助は空を仰いだ。

 ――さすけ。

 こんな場所なのに、幸村は自分の名前を呼んできた。その余裕の行動に肩から力が抜けるかのようだった。










 戦は武田の勝利として幕を下ろした。緊迫した空気が薄れていくのを感じながら、佐助は真田の邸にて低頭していた。

「此度の功労として、忍隊を率いよ」
「はっ」
「励めよ」
「はっ、畏まりまして」

 どきどき、と胸が鳴る。この齢で忍隊を率いていいと言われるのは、何よりも嬉しかった。それだけ自分が認められたという事だ。戦装束も解かないままで庭先で膝をついていると、がしゃ、と幸村の装束が音を立てた。

 ――くしゃ。

「――よう、やった。うむ、偉いぞ」
「――っっ」

 庭先に出ている佐助の元にまで降りてきて、幸村が頭をなでてくる。伸びた髪をいつもは軽く結っているが、今は忍装束のままだ。振り解かれたままの髪に、幸村の指先が――地肌に触れるかのように滑り込んでくる。

「お館様からもお褒めのお言葉を賜ってな。俺も鼻が高い」
「……」

 嬉しそうに幸村は頭上から告げてくる。良くやった、と何度も繰り返されながら、佐助はじんわりと胸元を熱くしていった。恥ずかしくて顔を上げられない。

「佐助、何か願い出たい事はないか?」

 不意にそう聞かれて、ぐ、と言葉に詰まった。所詮忍でしかない自分が、何かを願い出ても良いものだろうか。

 ――よくねぇよッ!ってか…うん?

 自問自答しつつ、ふとあることに気付いた。佐助は地面についていた拳に力を込めると、思い切って口羽をきった。

「あ、あの…」
「うん?何でもいいぞ」

 言いながら振り仰ぐと、何か言おうとしている佐助に嬉しく感じたのか――まだ頬を煤で汚したままの幸村が、にこり、と微笑んだ。だがそんな期待の目で見つめられると、ふい、と顔を背けてしまう。

「いえ、その…」

 ――俺様の馬鹿ッ!

 内心で、きい、と自分を責める。だがこれで幸村も引き下がるようなものでもなかった。

「何でも良いぞ、言うてみよ」

 ぐぐ、と言葉に詰まりながら佐助は俯く。だがそれでも幸村は引き下がらなかった。そうなればもう自棄だ――佐助は俯いたまま、声を絞り出して言った。

「風呂…入ってください」
「ぬ?」

 予想に反していたのか、幸村が小首を傾げる。がばりと顔を起して、佐助は幸村の両肩に手を乗せて立ち上がった。

「戦帰りなのは解るんですけどね」

 ――臭いんだよっ!

 思い切り叫ぶと、はあはあ、と肩で息をする。そんな佐助の様子を見上げて幸村は、ひゅ、と息を飲んだ。だが次の瞬間、邸中に響くような大音声で爆笑していった。










 はあ、と疲労を全て洗い流すように、幸村が溜息をついた。

「小姓の一人でも持てと言われたのだが」
「それ、もしかしなくても俺様のこと?」

 風呂に入れ、と言ったものの、結局は自分が世話をすることになるのは目に見えていた。言ってから少々後悔もしたが、湯船に使って長い髪を佐助に預けている幸村を眺めると、まんざらでもない気分になってくる。

「まあ…そうだな。俺が共を一人もつけずに居たのを見かねて、といったところか」

 ほわ、と湯気が白く立ち込める中、佐助は幸村の髪に苦戦していた。
 湯船に浸かっている本人はいい――だが、彼の髪には血糊がこべりついて、べったりとなっていてた。それに合わせて焦げているところもある。
 幸村に言ったら、伐ってしまえばいい、とあっさり言われたが、そうそうに切りたいものでもなかった。だから佐助は櫛と、椿油、それに湯で必死になって縺れた場所を解していく。ばしゃん、と何度目かになる湯をかけていく。

「だってねぇ、旦那、今時ないもんね。女の人見て、破廉恥言い出したり、逃げたり…あんた本当に武士?」
「失礼な事を言うな。おなごと関わらずとも、生きてはゆける」
「んな訳ないでしょが!」

 ぱしゃん、と湯を弾かせて、幸村が首だけを廻らせてくる。仰のくようにして頭を縁に載せ、髪だけを佐助に預けている姿は、どう観ても無防備だ。

「まあ…何だ、お前はよくやってくれている。小姓どころではないな」

 ばしゃ、と大きな音を立てて幸村が身体の向きを変える。
 腕にはしっかりとした筋肉が浮き出ており、佐助はじっと其処を見つめた。そうしていると、にゅう、と幸村の手が伸びてきて、佐助の頬に触れる。

「あのさ、小姓くらい持てって言われて、俺様と出逢って、そんな気になったりしなかったの?」

 頬に濡れた幸村の手の感触を受けながら、湯気の暖かさにほんわりと身体の緊張を解く。手元の彼の髪もまた、徐々に解れて――湯の色が徐々に澄んだものに変わってきていた。

「当たり前だ…毛も生えてない、声も変わっていない童に、どうこうしようとは思わぬ」

 はあ、と呆れた風に幸村が眉根を寄せて、両腕を縁に乗せた。更にその上に顎先を乗せていく。ぽとん、と彼の前髪から滴が落ちていく。

「なっ…声は仕方ないけど、毛は生えてるもんねっ」
「ほほう?ならば見てやろうか」

 にぃ、と口の端を吊り上げて幸村が手を伸ばす。本気でやりかねない幸村に、佐助は背中を向けてガードした。

「ぎゃー!やめてっ」
「冗談よ」

 くつくつ、と咽喉を震わせて幸村が笑う。あっそ、と応えながら、再び彼の髪へと手を伸ばした。

 ――ざぁ。

 何度目かになる湯を流し、ぎゅ、と髪を絞る。そして佐助は湯船の側に近づくと、膝をついて縁に腕を乗せた。

「あの、さ?旦那」
「うん?」

 ぱしゃぱしゃ、と湯の表面を弾く。そして腕に顎先を載せて幸村を見上げた。

「どうこうしても構わないよ?」
「なにを申すか」

 ――ばしゃん。

 即座に湯が顔にぶつかってくる。だが湯だ――温かいので、そのまま受けてしまった。

「だって俺、忍だもの。それくらいは訓練しているし」
「自分を安売りするでない」
「だって…」

 唇を尖らせて俯き加減になると、ほわ、と濡れた手で幸村が頬を包んできた。温まった彼の手が、じんわりと肌に沁みてくる。

「もっと自分を大切にしろ?な?」

 間近に顔を寄せて、こつん、と幸村が額をぶつけてくる。頬を包んでいる幸村の手首を、佐助はぐっと掴んだ。

「旦那…旦那が望むなら、俺…ッ」

 思い切って――恥を忍んで告げた。だが全ては言うことは出来なかった。

 ――ごんッ。

 額に割れるような鈍痛を感じ、背後に首が反り返る。幸村が物凄い勢いで頭突きをしてきたのだ。

「破廉恥な事を言うな、馬鹿者ッ」
「バカってなにさー!」

 ばしゃん、と背中を見せる幸村に、額を押さえながら佐助が叫ぶ。だが幸村は背中を見せたまま、尊大に言い捨てた。

「ほれ、早う、背を流せ」
「ううう、こんの馬鹿上司ぃ」
「聞こえぬなぁ?お前の願いだからな、風呂に入っておるのは」
「はいはい、背中、流させていただきますぅ」

 傷む額を擦りながら、佐助は手ぬぐいを手にした。幸村は振り返らなかった。だが均整の取れた彼の背に手ぬぐいを当てながら、佐助は振り返ってくれなくて良かった、と苦笑していった。






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