1.



 齢、七つにして人を殺めるを知り、八つにて戦を知り、そして数え十三の年に、主を得た。



 外が銀色に染まる季節になると、どうしても渡り廊下のひやりとした冷たさが、足の裏に響いてくるものだった。与えられた忍邸の自室から、主の部屋へと向う。その合間に気持ちを切り替えて、背筋を伸ばす。
 主の部屋の前まで来ると、中で暖を取っているのがありありと解るかのように、ほんわりと障子が温まっているような気がした。

 ――というよりも、あの人自身の熱さのせいかもね。

 ふふ、と思わず口の中でくぐもった笑いを零しながら、佐助はそっと障子に手をかけると、即座にからりと開いた。

「幸村様ッ!朝ですよ――ッ」

 声も高らかに吼える。だが眼前の布団の塊は動くことは無い。というよりも、眼前に布団の饅頭が出来ていること自体が問題だ。

 ――いい歳して、この人はさぁッ!

 ぴき、とこめかみが引き攣れる。佐助は中に入り込むと、ゆさゆさ、と布団の饅頭を揺さ振った。

「幸村様…いい加減起きて下さいよ」
「ん、まだ早かろう…」

 ごそごそと布団の中から掠れた声が響く。中で身体の向きを変えているようで、布団饅頭がぼふぼふと動いていた。佐助はその天辺を叩きながら、がしりと布団を握りこんだ。

「何を寝ぼけたこと抜かしてんですか。旦那が起きないと片づかないんですよっ!」
「片付かなくても良かろうが…」
「いい加減にしろってのッ!」

 ――ばさッ!

 ああ言えばこう言う、そんな応酬になりかけた瞬間、佐助は思い切り布団を引き剥がした。ばっさりと布団を放り投げてみると、仰向けになっている幸村の姿が眼に入る。
 彼の長い髪が、まるで蜘蛛の糸のように、波紋をつくって広がっている。

 ――しまったッ!

「お前も一緒に寝るがいい」

 にやり、と口元に笑みを浮べた男の姿が眼に入った瞬間、佐助は身を翻そうとした。だが時既に遅く、腕を掴まれた――そうなると、力で適う筈も無く、強く引きずり込まれる。

「ちょっと、危ないじゃないですかッ!」

 あっという間に幸村の胸元に引き寄せられ――というよりも胸に飛び込むように体勢を崩した訳だが――ぎゅっと抱き締められる。

「うーむ、お前はもう少し肉をつけた方が良いようだなぁ」
「な…ッ、何言ってんの?」

 流石に抱き締められてしまっては身動きもままならない。こういう時は本当に、自分の身体の小ささが悔やまれる。
 十以上も年の離れた主は、まるで犬猫を抱き締めるかのように、佐助の細い首筋に鼻先を埋めて、ふんふん、と匂いを嗅いでくる。

「ふ…ぅ、やはり子どもだな。温いわ」
「ちょっと!調子に乗るなよなッ」

 抱き締める腕が強くなる。だがずっと彼の胸元に乗り上げている佐助が、どんなにか手足を動かしても、彼の拘束が解かれることもなかった。

「温い、温い。眠ぅなってきたわ。全ては佐助のせいぞ?」

 ぐいーと手で幸村の頬を引き剥がそうと動くと、彼の瞳がじっと佐助に向けられる。見下ろす形で佐助の動きが止まる。

 ――もう厭、こんな上司…

 つい、と伸ばされる指先が、佐助の顎先に触れる。まだ幼さを残した頬に、掌がふれると佐助は困ったように眉を下げた。

 ――絶対にこの人、俺のこと、犬猫と同じと思ってる。

 誘うような指の動きにも気付かず、かくりと肩を落とすと、途端に視界が回った。くるん、と体の向きが変わってハッとすると、今度は背中に暖かい感触がある。先程まで其処に幸村が寝転んでいたのだ、温まっていても問題はない。だがそれを背に感じているとなると、幸村は何処にいるのか――答えは簡単だった。
 佐助が視線を上げる先――自分の上に腕を突っ張って乗りかかろうとしている姿が眼に入る。

 ――さら。

 肩から零れ落ちてきた長い髪が、佐助の胸元に触れる。それが擽ったくて身を捩ると、幸村は瞳を眇めてきた。

「どうだ、一緒に寝ぬか?」
「そんな勝手なことが赦されると思ってんの?」

 ゆるゆると腕を伸ばす――そして幸村の頬に手を添えると、佐助は勢い良く身体を起こした。

 ――ごんッ!

「ぐ…ッ!」

 見事に頭突きが決まる。そのまま背後に倒れこんだ幸村の腕から逃れ、佐助は仁王立ちになって叫んだ。

「今日は大将に謁見するんだろーッ?」
「そうであった!こうしてはおれぬッ!」

 背後に倒れこんでいた幸村が咄嗟に立ち上がる。そして先程までの行動を払拭するかのように――いや、まるで別人のようにてきぱきと支度を始めていった。
 それを横目で見ながら、布団を畳んで、佐助は小さな肩を大仰に落としていった。










 信玄公との謁見が終わるなり、慌ただしく戦の支度へと雪崩れ込んでいった。自兵への配慮も忘れずに、逐一確認している姿は流石に武将だと感じてしまう。だが彼の場合、部下に全て任せるようなことはしないので、戦に赴くまでに疲弊してしまうのではないかと、いつも冷や冷やしてしまう。

「旦那、そろそろ休んだら?明後日には出立なんだし」
「おお、それもそうだな…済まぬが、茶を一杯もらえるか」
「茶だけじゃなくて、何か食べてよ。作ってきたからさ」

 からりと障子を開けて中に膳を持ち込むと、幸村は今頃気付いたとばかりに自分の腹を擦った。

 ――ぐぐぅぅぅぅ。

「…すっかり忘れておったわ」

 ふにゃ、と眉を力なく下げる姿に、思わずぐっと詰まる。外の冷気が中に入り込まないように、佐助は小さな身体を余計に縮めて中に入ると、幸村の前に膳を差し出した。
 膳の中には、山菜の煮物、根菜の味噌汁、それに握り飯が二つ――それもやや大きめの握り飯だ――それだけの簡素なものだった。佐助の手の大きさの二倍もあろうかという握り飯が二つ、どん、と乗っている膳は傍からみたら、不恰好かもしれない。

「味の保障はしないからねッ」

 佐助が照れ隠しに強く言い捨てると、幸村は大き目の瞳を見開いて膳を眺め、さらに今度は佐助へと視線を動かした。

「――佐助が作ったのか?」
「うん…簡単なもので悪いんだけど」
「――…」

 正座する膝に手を当てて俯くと、幸村はじっと佐助の方へと顔を向けて覗き込んできた。彼の瞳に見つめられると、行き場を無くして瞼を閉じるか、眼を泳がせてしまう。それくらいに彼の視線は強いものがあった。

「何、どうしたのさ?」
「――うむ」

 ――ぐりぐり。

 不意に伸びてきた幸村の大きな手が、ぐしゃぐしゃと豪快に佐助の頭を撫でくりまわす。あまりの力の強さに、頭ごともぎ取られてしまうのではないかと思うほどだ。

「お主は、幼いながらによう出来るものだな。某など、炊事は全く出来ぬ」
「あ、当たり前でしょッ!」

 ――あんた、一応、お武家さんなんだからッ。

 幸村の手を両手で掴んで、動かすのを止めさせようとする。すると嬉しそうに瞳を眇めた幸村が、にこり、と笑みを浮べてきた。

 ――うっ。

 何処かまだあどけなさを残した笑顔だ――それなのに、整いすぎた容貌は蟲惑的ですらある。思わずどきどきと胸が高鳴ってしまう。

「では冷めぬうちに頂くとしよう」
「う…うん」

 箸を手にとって、ぺこり、と頭を下げる幸村を正面に見つめながら、佐助は回りに散らばった書物を片付け始めていく。その横で、もぐもぐ、と何処か嬉しそうに咀嚼を繰り返す幸村を、佐助はちらちらと窺っていった。












 追加で持って来たお櫃の中身を空にすると、幸村が深々と頭を下げた。

「馳走になった」
「はい、お粗末様でした〜」

 ことん、とお櫃の蓋を閉じながら応えると、幸村は満腹になった腹を擦った。横目でそれを眺めながら、今度は茶の準備をする。

「なぁ、佐助」
「なんですかー?」
「お前、何歳で戦に出た?」

 佐助から茶を受け取りながら、幸村が掌でそれを包み込む。手を伸ばして幸村の顎先についていた米粒を取り、ぺろ、とそれを口に運ぶ。すると幸村は「着いておったか」と然程気にもせずに顎先を指で擦った。

「それ…任務についた年?それとも、戦忍になったほう?」
「どちらでも構わぬ、戦だと…そう思った方で」

 こくりと熱い茶を飲みながら幸村が促がす。佐助はその場で正座し、直ぐに動けるように足の指だけを立てた格好で、うーん、と天井のほうを振り仰いだ。

「八つ…かなぁ。とにかく敵を倒せば良いんだって理解したのは」
「戦が何であるかは、考えぬのか?」
「俺様の考えることじゃないでしょ?これでも忍なんだし」

 ――太平の世を作るのはお武家さんの仕事、俺の仕事はその駒として働くこと。

 ひらり、と両手を広げて、したり顔で告げる。そうすると幸村は眉根を寄せて口元を膨らませた。

 ――こういう仕種はこどもっぽいんだから。

 瞬間、幸村が自分と同年代のように感じてしまう。一回りも違う主なのに、時々、己と大差ないのではないかとさえ感じる瞬間があった。だが佐助はそれを、幸村の甘さだと理解しているに留めていた。

「駒…とは想いたくないな」
「甘いこと言わないでよね」

 顎先に手を添えて、ううん、と眉根を寄せる幸村に、佐助は身を乗り出して厳しく告げる。きりりと表情を引き締めていると、今度は幸村が破顔した。

「ふふ…」
「何だよ?」

 くつくつ、と咽喉の奥からさも楽しそうに笑い出す。そして顎先を指の腹で擦ると、片方の眉を下げた。

「若僧に説教されてしまったわ」
「あんたが甘い事言うからだろう?」

 正座していた足を崩して、佐助はその場に胡坐をかく。合わさった足首を両腕で握りこんで、ぷい、と幸村から顔を背ける。

「佐助」
「――…」

 ぷう、と頬を膨らませてそっぽを向く。まだ幸村の声は笑っていた。まるで嘲笑のようにも聞こえて気分が悪い。

 ――旦那の方が何にも出来ないやや子みたいなのにさッ。

 実際の年齢よりも、時々幼く思ってしまう。それなのに、こんな時だけ大人の顔をされるのは納得いかない。佐助が思う境地など全て越えてきているかのような態度が、苛苛と胸に突き刺さった。

「佐助、さーすけ」
「――…」

 幸村はそれでも佐助を呼ぶ。何度呼ばれても応えずに、つん、とそっぽを向いていると、困ったように溜息を織り交ぜながら幸村が言う。

「臍を曲げるな、佐助」
「――…」
「お前に相手にされなんだら、某は寂しくなってしまう」
「だってさ…」

 あまり無視するのも悪いかと、ちらり、と視線だけを向ける。すると今度は、にやにや、と口元を歪めた幸村がいた。

 ――性質悪いッ!この確信犯ッ。

 ぼん、と顔に朱が上る。少しでも甘い顔をしようとした自分が馬鹿だった。佐助は側にあったお櫃を手にし、膳も抱え込むとすっくと立ち上がった。

「もう行くからねッ!」
「佐助」

 ――くい。

 廊下に全て物を出して、幸村に背をむけると、むき出しの腕に熱い感触が触れた。それが幸村の掌だと気付くのに時間はいらなかった。
 佐助が振り向くと、其処には真面目な顔つきをした幸村が――佐助の腕を取って見上げてきていた。

「此度の戦、ついて参れ。俺の隊にて働け」

 どきん、と胸が鳴った。
 戦に出ても、幸村の側で働くことはなかった。それが幸村から『戦忍』になれと告げられた瞬間だった。

「承知」

 つかまれた腕もそのままで、佐助はその場に膝をついた。そして幸村にむかって低頭していく。下げた頭を、くしゃ、と撫でる幸村の掌の感触を、忘れることは出来なかった。









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100209 start〜100211 大体、佐助12歳〜13歳,旦那25歳くらい。まだ少年期の話。