恋は落ちるもの




「休憩に行ってきます〜」

 眼科の休憩時間は長い。その分、夜遅くまで開業しているという訳だが、佐助の働く武田眼科では2時間の休憩があった。

 ――今日は何食べようかなぁ。

 白衣をばさりと脱ぎすてて、バッグを背負う。その中に文庫本と携帯、それに財布を入れ直してから、外へと出た。

 ――ラーメン、は昨日食べたし。

 その前はちゃんと弁当を持って来ていたし、と思い描いてから、鶏肉食べたいな、と思い描く。すると調度カフェが視界に入った。店の入り口にある黒板仕立てのメニュー表には「蒸し鶏の生春巻き」の字がある。勿論ランチメニューだから、これに更にサラダとスープも付く訳だ。

 ――決まりだな。

 ほくほくとした気分でドアに手を掛ける。すると、カロンコロン、と軽快な音を立ててベルが鳴っていった。











 カフェの中をぐるりと見渡して、奥の壁際の席へと座る。早速とばかりに注文をしてから、店内を見回した。

 ――あ、今日はお休みかぁ。

 先日来、知り合った友人の姿がない――バイトだといっていたから、今日は非番なのだろう。少しだけ残念に思いながら、先に出されたグリーンサラダにフォークを突き刺し、持って来ていた文庫本に手を伸ばした。

 ――かろん、ころん。

「おはようございますッ!」
「あら、おはようございます。真田君、今日は非番でしょ?」
「はっ、しかしながらレポートをやろうかと……」

 明るい声が入り口から聞こえてくる。その声に顔を上げると、長い後ろ髪がゆらゆらと揺れていた。

 ――尻尾みたい。

 ふふ、と口の中で笑ってしまっていると、彼は上着を脱いでから店内を見回して「あ」と声を上げた。そしてカウンターに広げ始めていたレポートや本をばさばさと抱えて奥へと足を向けてきた。

「いらしていたとは」
「今休憩中なんでね。あ、どうぞ、そっち座って」

 目の前の席を勧めると、彼はぺこりと頭を下げてから、がたがた、と椅子を引いて座った。そうすると直ぐに彼はメニューを手にして開くと、ちら、と佐助の方へと視線を向けて――そしてそのまま俯いてしまった。

「どうしたの?」
「あ、いえ…大人だなぁ、と思って」
「そりゃ年上ですけど?」

 突飛な物言いに苦笑しながら、フォークをトマトに突き刺して口に運ぶ。開きかけていた文庫本を閉じてバッグの中に収めながら、佐助はさくさくと咀嚼をしていった。

「――――…?」

 じ、とメニュー越しに視線を感じて振り仰ぐと幸村の視線にぶち当たる。
 数ヶ月前までは分厚い眼鏡に覆われていた彼の顔半分は、今は見事に明らかにされている。それもその筈で、彼は視力の悪さはさておいて、コンタクトレンズを入れている訳だ。

「何?俺の顔に何かついてる?」
「い、いいえ…え、えと…」

 もぞもぞと口篭る彼はメニューで顔を隠してしまう。そして隠れたままで注文を告げていた。

 ――可愛い顔、してんだよねぇ。

 頬杖をつきながら佐助は彼の動きを眺めていた。
 コンタクトを彼に入れたのは――紛れも無く佐助だが、その顔に落ちた。好きだなぁと思ってみてしまうと、全てが可愛く見えてしまうから不思議だ。

 ――俺様って面食いだっけ?

 眼鏡を外した彼は、それはもう整った顔立ちをしていた。大きな瞳に、きりりとした眉、すうと通った鼻梁もさることながら、少しだけ厚めの唇なんかも可愛い。ついでに言えば、ころころと表情が変わるのも面白い。

「猿飛さん…」
「佐助」
「え?」
「佐助って呼んでいいよ。ね?幸村君?」
「あ、ありがとうございまする…で、その…お伺いしても?」
「な〜に?」

 聞いている間に、蒸し鶏の春巻きが運ばれてきて、佐助はそれを摘みながら「美味しいなぁ」と咀嚼を繰り返す。その様子を見つめて、幸村が「お勧めでございますゆえ」と我が事のように、笑顔を振り撒いてきていた。

「で?お伺いって何?」
「あの、今日…お暇でござろうか?」
「仕事終わりって事だよね?何も予定ないよ」
「じゃあ、食事にでも行きませぬか」
「――――っ」

 こくん、と思い切り咽喉の奥に春巻きを流し込むと、幸村はハッと気付いてまた俯いてしまった。ほわりと頬から耳にかけて赤くなるのが手に取るように解る。

「ご都合が悪ければ…」
「都合は良いけど、外じゃなくて家にこない?」
「え…――?ご迷惑でなければ」
「じゃ、決まりね。明日定休の木曜だからとことん呑みたい感じだし」

 にこり、と佐助が微笑むと幸村は運ばれて来ていたミルクティーに口をつけた。その指が微かに震えて、かたかた、と揺れていたのを佐助は見逃さなかった。その指を見ていると笑いがこみ上げてしまう。

「どうかされましたか?」
「幸村、緊張してたでしょ?」

 ――もう会ってから結構経つのにさ。

 しゃく、と春巻きを齧ると野菜が音を立てる。もくもくと咀嚼しながら彼を見つめていると、幸村は困ったようにはにかんだ。

「今まで、ぼやけた視界を一緒に、人付き合いもあまりして来ませんでしたので」
「そうなの?」
「あまり他人に関心が無かったというか…しかし佐助さんとは、しっかりと付き合いたいと思ってますので」
「いい変化だねぇ」
「はい」

 屈託なく笑う彼からは想像も出来ない告白だ。だが佐助は彼の気持ちを変えさせた要因になれているだろう事に、少しだけ浮き足だっていった。










「で?どれくらい見えないものなの?」

 待ち合わせをして、途中のスーパーで買い物をしてから、一緒に部屋に入り込む。摘みを食べながら酒も進んでくると、幸村はいつもの緊張を徐々に解していっているのが分った。
 佐助がするめの足を齧りながら聞くと、幸村は見ていたテレビから視線を外して振り向いた。調度彼の缶が空になっているのに気付き、自分の方にあった缶を差し出した。幸村は佐助からカクテルの缶を受け取りながら、ううん、と唸ってみた。

「そりゃもう…近づけば見える、という程度でしょうか」
「ふぅん…?」

 するめを咥えたままで佐助は腰を上げた。洗面台に向って歩いていき、手を洗うと小さなケースを手にして佐助は戻ってきた。
 すとんと座る仕種を幸村が眼で追っている――幸村とは、眼科で出会ってから徐々に距離を縮めてきている。

 ――でも、もう一歩踏み込みたい。

 もしかしたら彼はその気はないのかもしれない。ただの友人としてカテゴライズされてしまう危険は重々にある。

「幸村」
 呼びすててみてから、手を伸ばして彼の頬に触れさせる。すると幸村は動きを止めて佐助をじっと見つめて来ていた。

「どのくらい見えるって?」
「それは…佐助の方が知っているのでは」

 確かにカルテを見ているからそれは知っている。だが数値で知るのと、実際は別物だ。佐助は酒で熱くなった彼の頬に手を添えさせていく。

「でも、実際、どのくらい見えるのかって…興味湧くんだけど」
「それは…」

 言い澱みそうになった幸村に、さらりともう片方の手を動かしてみせる。

「はい、ごめんよ」
「え?」

 ――ひょい。

 慣れた手つきで佐助が手を動かすと、幸村はぱちりと瞬きをした。それにあわせて、もう片方に同じ動きを繰り返す。

「あ…っ!」

 気付いて幸村が声を上げる。だが時はすでに遅い――佐助の手によって幸村のコンタクトは取り外されてしまった。

「ひ、卑怯でござるよっ!」
「だって知りたかったんだもん」

 あはは、と軽く笑うと幸村がバッグを手探りしてごそごそと動かした。直ぐに中から眼鏡ケースが出てくる。

 ――ひょい。

「駄目、答えて」
「返してくだされっ」

 佐助が眼鏡ケースを取り上げると幸村が手を伸ばしてくる。その手を掴みこみながら、べえ、と舌を出して見せた。

「このくらいで、俺の顔見える?」
「う…ぼやけております」

 悔しそうに唇を尖らせた幸村が、じっと眉根を寄せる。「ふうん」と相槌を打ってから、佐助はずいと顔を近づけた。だがそれでも幸村は眼を眇めて――口をへの字に曲げている。

「どう?ここら辺、だったら見える?」
「――――微かに」

 時間を置いてから幸村が答える。結構顔を近づけているというのに、幸村の反応は変わらない。故に、本当に見えていないのだと確信できた。

「じゃあ、このくらいは?」

 佐助が幸村の手首を掴んで――テーブルの対岸から腰を浮かせた。そして身を乗り出していくと、鼻が触れそうに近くにくる。

「あ、此処なら…」

 はっと瞳を見開いた幸村が、声を明るくしてから、ふと口を閉ざした。まさに幸村と佐助の顔が触れそうなほど、近くに迫っている。
 佐助はじっと見つめて来ていた幸村の――眇めた瞳が、いつものように大きく見開かれた瞬間、手首を掴んでいた手にぎゅっと力をこめた。
 幸村の黒い瞳と、佐助の薄い色の瞳がぶつかった瞬間、引き寄せられるかのように、佐助は顔を傾けていた。

 ――ちゅ。

 軽く触れた唇、そして引き離してから、瞳を押し上げてみると、真顔の幸村が其処にいた。

「あ、ごめん…つい」
「つい、なのでござるか…?」

 く、と眉根を寄せて幸村が眼差しを眇める。佐助は取り繕う瞬間を逸して、そのまま幸村の肩を引き寄せていた。

「ごめん。本当に…でも、俺は…もっと幸村を知りたくて」
「それは…?」
「好きなんだ」

 気付いたら告白していた。自分の脳裏で「あれ?」と疑問詞が飛び交うが、そう答えていた。すると強い力が急に佐助に降りかかり、頬を掴まれた。

 ――かつん。

「痛…――っ、何?ちょ…幸村、歯ぶつけた?」
「―――」

 見ると目標を見誤った幸村が口元を押さえている。視界がぼんやりしているのに、あたりをつけてもすれ違うだけだ。

「本当に、佐助は某を?」
「う、うん…そう、だけど」
「ならば…もっと、触れてくだされ」

 痛みに口元を押さえているだけかと思っていた幸村がそんな事を言う。どきん、と鼓動が跳ねて、止め処く無くなっていく。がたがたと彼を引き寄せてフローリングの床に押し付けると、幸村が思い切り眼を見開いて此方を見上げて来ていた。

「幸村…――」
「良かった…こんな視界だったら、恥ずかしくても、言える」
「――――…っ」
「某、佐助が好きでござる」

 押し倒されたまま、幸村が擦り寄るように腕を伸ばす。その腕を自分の首に引き寄せると、佐助はぎゅうと彼を抱き締めた。そして耳朶に「いいの?」と問いかけると、幸村はしずかに頷いていった。






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