恋は落ちるもの



 視界に広がった世界に、さあ、彩を。



 昼休憩を過ぎて戻ってみると、一人の患者に行き当たった。

 ――すっごく緊張しているみたいだけど、どうしようかな?

 佐助は白衣をひらりと肩に羽織らせて、しゅ、と音を立てながら袖を通す。今日は殆ど来院する人がいないものだから、のんびり――仕事をサボるなと言われそうだが――しようとしていた処だった。
 此処は武田眼科――土日も営業しているので、結構な繁盛振りを見せている眼科だ。その代わりといっては何だが、木曜日がいつも定休となっている。
 そんな中で、猿飛佐助の担う場所は、コンタクトレンズに関する事が殆どを要している。時にはアシスタントもするが、大体は変わりなく業務をこなしている。
 診察室よりも奥になっている小部屋で、ちょこんと座っている青年は、まだあどけなさを残した表情で、それは分厚い眼鏡をかけていた。
 そのせいで表情が読みにくいといえば、読みにくい。
 診察室と同様の丸椅子に腰掛けて、肩をかちこちに固まらせている。

「コンタクト、初めてなの?」
「は…っ、はい!いつもは眼鏡ですので」
「そうか〜、そんなに硬くならなくていいですよ」

 話し掛けながら、蛇口を捻って手を洗う。指先まで洗いこみ、爪が出ていないかを再度確認した。そしてそっと彼に手を差し伸べた。

 ――びくっ

「うわ…ッ!」
「あ、すみません。驚かせましたか?」
「は…い、いいえ。すみませぬ」

 顎先に手を伸ばした瞬間に、彼はびくりと身体を揺らした。手が冷たかったのかと指先を丸めて引っ込めてしまうと、今度は彼がぺこぺこと恐縮していく。

 ――調子狂うなぁ。

 佐助は手元に来ていたカルテを覗き込み、ええと、と声をかけた。

「真田、幸村さん?」
「はいッ」
「コンタクト、どうしてしてみようと思ったの?」
「あの、笑わないで下さるか?」
「ん、笑いませんて。今日はそんなに混んでないから、ゆっくり話してもいいし」

 きこ、と丸椅子を引き寄せて佐助は彼の横に腰掛けた。そして、頬杖をついて彼を覗き込むと、彼は分厚い眼鏡の奥で瞬きを数回していた。

「某、ずっと目が悪いのでござるが…こう、何も余計な隔たりのない――フレームなどが邪魔しない景色を見てみたいと思いまして」
「ふうん?」
「それに、からかわれるのでござる…瓶底眼鏡、だと」
「あ〜、よく言うよね」
「そ、それと最近、バイトをはじめまして…その、飲食店なのでござるが、眼鏡が曇って曇って、何度も失態を」
「それでかぁ…色々と要因はあるわけだね」
「しかしよく店に来て下さるお客様が、先日失態をした某に優しくしてくださったのでござる。その方のお声と、ぼんやりとした姿は覚えているのですが…ですが、某…あいも変わらず眼鏡が曇っていて、その方のお顔さえ見ることが出来ず」

 ――全く持って不甲斐なく。

 はあ、と肩を落として幸村は頷いた。お礼くらい言いたかった、と彼は余計に肩を落としていった。
そんな彼の肩に手を当てて、とんとん、と励ますようになでてから、佐助は「それじゃあ、眼鏡外してください」と話しかけた。
 するといつの間にか緊張も解れたのか、彼はこくりと頷いてから、件の分厚いレンズの入った眼鏡を外した。

 ――お、結構可愛い顔している。

 眼鏡のせいで小さく見えていた瞳は、意外と大きく、こちらが目を見張るほどだ。彼はこしこしと瞼を擦ってから、ぎゅ、と今度は眉間と目頭に力を入れた。

「あの…――」
「はいッ?」
「そんなに力入れてたら、入るものも入らないんですけど」

 ふくく、と咽喉の奥で忍び笑いをしていると、幸村はカッと真っ赤になった。目元に思い切り力を入れていたら、コンタクトをいれる此方もやりずらい。
 先程のこともあるので、失礼しますよ、と声をかけてから、佐助は再び幸村の顎先に手を当てて――さもすると俯いてしまうので、仰向かせた。

「今から入れますから、眼を開けてて」
「う、うむッ!」

 ――くわっ。

 今度は目が乾燥しそうなほどに幸村は眼を大きく見開いた。

 ――何だこのコントみたいな遣り取り。

 思わず腹をかかえて笑いたくなってしまう。だがそんな笑いを堪えながら、佐助は指先に半円のコンタクトレンズを取ると、指先をすらりと動かしてみせた。

 ――すい。

「はい、右眼入りました」
「え…もう、でござるか?」
「ええ。どう?入ってるでしょ?」
「痛くなかった…」

 ぽつ、と呟く彼の言葉に、ははあ、と思いつく。たぶん彼は此処に来るまでに「コンタクトは痛い」とでも聞かせられてきたのだろう。
 確かにハードコンタクトだったら――しかもゴミなんかが入った際には、叫びたくなるくらいには痛い。だが、ソフトコンタクトで痛みを訴えることはそんなにないものだ。

「うわぁ…すごくよく見えるでござるッ」

 まじまじと鏡を見つめて、左目を手で隠しながら幸村が声を弾ませる。それは良かった、と思いながらも、佐助はもう片方のコンタクトを手にして再び声をかけた。

「はい、じゃあ…左も入れますよ」
「うむ…」

 すい、と流れるような動きで入れた後、一緒に鏡を覗き込んで行く。ぱちぱちと瞳を動かす幸村が、ぱあ、と明るい表情で振り返った。

「すごい…こんなに違うものとは…ッ」
「うん?」
「――――ッ!」

 其処まで言ってから、幸村が口をぽかんとあけて佐助を見上げた。釣られて正面から佐助も彼を見つめてしまう。

 ――うわ、なんかこの人…超好みの顔してんじゃん?

 鏡越しだったり、横顔しか見ていなかったか、正面から見つめてみて、どくん、と鼓動が早くなった。今更ながら眼に飛び込んできたのが、幸村の大きな瞳――しかも綺麗な黒い粒だ――だった。しかも彼は、ぽぽぽ、と首元からほんのりと肌の色を染めていく。
 わなわなと口元を動かしながら、幸村がこちらを見上げて来ていた。

「あ、の…――」
「は、はい?」

 思わず出てしまった声がひっくりかえって、佐助は口元に手を宛がってしまった。すると見上げて来ていた彼が、ぼそぼそ、と口元を動かした。

「あの、其処のカフェ…よく来てませぬか?」
「え?あ、ああ〜、昼ごはんに行ってるかな?」
「――某がお礼を言いたかったのは、たぶん…」

 ぼそり、と呟く幸村にふと佐助は思い出したことがあった。数日前、いつものように昼ごはんを食べていた時に、自分のいるテーブルの横に盛大に転んだウェイターがいた。

「あ!あの時の…――ッ」

 思い出して声を高くすると、こくこく、と幸村は頷いた。そしてじっと佐助を見上げてくる。

「まさか、こんな…しかも一番初めにみた光景が、貴方だとは」
「は、ははは」
「今、凄く驚いており申す…」

 佐助は洗面になっているカウンターに軽く腰かけて、彼を見下ろしていく。すると幸村は恥ずかしげも無く、もっとよく顔を見せてください、などと言って来た。

「はっきり見えるというのは、こんなにも綺麗なものを見れるということだとは」
「――――…ッ」
「両目にコンタクトが入って、視界がクリアになって…見た最初に、こんな整った顔があるのかと、気後れしてしまい申した」
「それはどうも…」

 とくとく、と鼓動が早鐘を打ち始める。ストレートな物言いをする人だな、と想いながらも佐助は上から彼の睫毛を見つめてしまう。そして、今度は彼の横に座ってひと呼吸置いた。

「それじゃあ、自分で入れられるように、練習しますか」
「はッ!」
「まず手、洗ってくださいね」

 にこり、と微笑みながら佐助の脳裏には、どうにかして彼と接点を持ちたいという一念に摩り替わっていた。

 ――やばいな、これって俺様、落ちちゃった?

 くるくると脳裏でそんな風に考えるが、高鳴る鼓動が全てを物語っていくだけだった。











 数週間後、受付に顔をみせた幸村が佐助を見つけるとにこりと微笑んだ。

「どう?慣れました?」
「ええ。しかし2weekのもあると聞きまして…」
「あ〜、眼の健康考えたら1日使い捨てが一番だよ」
「そうでござるか…あのッ!」

 しゅん、となった幸村が再びきりりと眉を引き締めて顔を突き出してくる。眼鏡をしていた時よりも表情が明るいように見える。

「この後、お暇でしたら是非にも…」
「後でお店に行くから」

 しゃきしゃきと――しかし鼻の頭に、緊張で汗を浮かべた幸村に微笑みながらそう告げると、彼は嬉しそうに頷いた。

 ――さて、どうしようかね?

 此処からどう進もうか。
 接点を多くしたいがための、1日使い捨てコンタクト――なくなるのも早いだろうからと、そうすればまた来てくれるだろうという、浅はかな思い付きだった。
 しかし徐々に距離を縮めることには成功してきている。

「真田さ〜ん、真田幸村さん」
「ほら、呼ばれてるよ」
「は…行って来申すッ!」

 佐助は診察室に呼ばれる幸村の、長い後ろ髪を見送りながら、ふふ、と咽喉の奥で笑うだけだった。

 ――目があった瞬間、恋に落ちた。

 だったら、この先にはどうこの関係を変えていこうか。それを考えながら、佐助は白衣を翻して自分の持ち場へと、のんびりと戻っていった。



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091211up 某絵茶で派生したコンタクト要員佐助とど近眼幸村。
091213up 改訂。連載へと変更。