pink panic ――花を買った。それも鉢植えで。 部屋の中は何もなかった。それもその筈で、急な転勤のせいで、住むところ以外は何も支度が出来ていなかった。運び込まれたダンボールの山を片付ける気力すらなく、転がるだけの毎日の中で、何となく部屋が寂しいと思った。 そんな最中、仕事帰りにふと目に付いたのは、ピンク色の花びらをひらひらとさせた花だった。思わず立ち止まって、じぃ、とその花を見つめる。己の膝よりも低い鉢植えなのに、葉がびっしりと広がり元気な様相だった。そして天辺に一輪大きなピンク色の花が咲いている。 「それ、気に入ったのかい?」 「え…」 声をかけられて顔を起こすと、目の前に青年が居た。彼は長い髪を一つに束ねて、エプロン姿にホースを持ち、顎先に滴った汗を手の甲で拭いていた。 言われてから、己がどれ程その鉢を眺めていたのかを気付かされてしまい、かあ、と頬が熱くなった。だが彼はそんな自分と鉢を見比べ――鉢の方に、ほにゃり、と微笑んでから、その鉢を持ち上げた。 「はい」 「え…」 「持っていきなよ。今なら出血大サービス、タダだよ」 「ええええ?そんな…そんな訳には」 「だったらさ、この子の身の回りのものを買って行って。この子のお代は要らないからさぁ」 店の店員と思しき彼は、そう言うと見ていた鉢を手にして抱え上げると、とん、と手に鉢を乗せてきた。重いのかと思ったが、簡易鉢のせいかそんなに重くない――だったら可愛い鉢に移してあげようかと思い立って、その提案に乗った。 そして気付いたら、店員の彼に鉢に植え替えてもらい、肥料と、水差し、それから簡単な育て方を教えてもらって帰宅していた。 部屋の中で――白い素材のローテーブルに鉢を載せて、そしてじっと見つめる。 明日は休みだと思い出しながらも、目の前のピンク色の花びらが可愛いとさえ感じて、じぃと見詰めてしまう。 薄いピンクに、濃い赤が入り、黄色い蕊がゆらゆらと揺れる。その佇まいが可愛らしい。 「まるで花嫁さんだ…」 ふと口をついて出たのは、たぶん仕事で行ったブライダル系の建物の影響だと思った。中の改装を頼まれており、その視察で何度も訪れる中で、何度も結婚式を見た。 花が散る――花びらが舞う、そんな光景を何度も見た。 ふふ、と花を見上げながらテーブルに突っ伏し、指先で花びらを突いた。ぽよん、と花が跳ねるのが可愛くて、柄にも無くそっと顔を近づけていた。 ――ふ。 唇と頬にほんわりと柔らかな花びらが触れる。鼻には香りというものは感じられなかった。香りの無い花なのかと気付き、それもまた良いか、と思いながらも再びテーブルに突っ伏した。そして連日の疲れもあり、そのまま眠りに落ちてしまった。 季節は夏の終わり――もう直ぐ秋と云う、晩夏の季節だった。 ――お疲れ様でござる。 柔らかい、浮遊感を得たような夢の中で、柔らかく頬を撫でられた。最近そういえば労るように触れられたことなどなかった。 ――残念ながら、次に目を覚ますときには… 何を言っているのか聞き取れない。 だが細くしなやかな指先が、さらり、と頬に滑った。そして唇に指先が、つ、と乗る。 ――すぐでござる。 それと同時に屈んできている相手の髪が、はらり、と肩に触れた。思わず離れて欲しくなくて腕を伸ばすと、相手は一瞬驚いたのか動きを止めた。 手に触れる感触は華奢で、抱き締めてしまえそうだった。 ――すぐに、この姿であい見えましょうぞ…。 さらり、と掴んだ手が解ける。重くて上がらない瞼が恨めしいとさえ思いながら、そのまま深い眠りに落ちていってしまった。 ――ぺちぺち。 何だか小さなものが頬を打つ。その感触が不思議でならなかった。 ――ぺちぺちぺちぺち。 小さな、小さな、掌のようなものが頬を打ち付ける。顔を背けてみてもそれは変わらず、堪らずに、ううん、と唸った。 「起きてくだされ、起きてくだされ!」 「――…?」 耳に少しだけ高い声が響く。その声は直ぐ側で聞こえた。だが此処に越してきてからと云うもの、自分以外の誰をも招き入れた事はない。だから此れは幻聴なのだと思った。 「起きてくだされぇ…」 ぐす、とその声が小さくなっていく。強情に目を覚まさない己に対して、どうやらぐずってしまったらしい。全く何なんだろう、夢にしてはリアルだな、などと悠長に思って瞼を押し上げた。 「ん〜…」 「あ、起きられたかッ!宜しゅうござったぁ、全く目覚めぬ故、何かあったのかと…」 「え…?」 瞼を押し上げて直ぐに、目の前に不思議なものを見た。じっとその物体を見つめてから、深く溜息を付いた。身体に残る倦怠感から、ああ俺昨日はテーブルに突っ伏して寝ちまったのか、と額に手を当てた。そして時計を見つめてから、もう一度テーブルに視線を向けた。だんだんとぼやけていた思考がはっきりしてくる。 テーブルの上では、先程眼にした小人が大きな瞳をきらきらと輝かせて此方を見上げていた。 「某は、真田源次郎幸村でござる!以後、宜しゅうお頼み申すッ」 「――…は?」 今一度視線を向けた先――其処には両腕を盛大に天に向って伸ばす、三頭身の小人が居た。大きさはおよそ10cm。ころんとした身体つきに、右の耳に鉢植えにあった花と同じ花を挿している。よくよく見れば後ろにひと房伸びた髪を結ぶところにも花がある。 ――何、このファンシーな夢… 目の前の現実に思わず逃避しそうになる。そして額に手を置いて「疲れてんだ」と呟くと、その場にころんと横になった。 ――俺絶対変な夢見てる…。 再び目を覚ました時には、此れさえも夢だったと思うに違いない。床に転がって仰向けになると、小人のことを考えないようにして転がった。 「とうッ!」 ――どすッ! 「――――ッッ!ちょ、ななななに…ッ!」 急に咽喉元に向って衝撃が走る。思わず、ごほ、と咳払いをしてから、涙目になって起き上がると、ころん、と小人が転がった。可愛くも転がる時に「ふんぎゃあ」と声を上げている。 「え…って、これ…マジなの?」 「うううう痛いでござらぁぁ」 むく、と起き上がる小人は、ぷっくりしたお尻を此方に向けて起き上がる。そして零れ落ちそうな真ん丸の瞳を此方に向けると、口元をあひるのように尖らせて「無視は良くないでござるよ!」と釘を打ってきた。 目の前の小動物を前にして、咽喉がひくつく。そしてそれと同時に悲鳴が咽喉から迸った。 「ぎゃああああああ何コレ――――ェェェェェッ!」 「ぴぎゃああああああああああああああああああああッ!」 絶叫する声に合わせて、目の前の小人もまた悲鳴を上げる。佐助の悲鳴に、びく、と体を揺らしてから叫ぶ姿など子どものようだ。 なんともけたたましい朝に、ぽとん、とピンク色の花びらが花を終えてテーブルの上に落ちていった。 →2 101229/120106up |