flower of passion 二つ目の花が閉じていくのを寝入り様に見つめながら、おやすみ、と声をかけた。でも幸村は本体に引き篭もって出てきてはくれなかった。 ――明日、また謝ろう。 深く息を吸い込みながら布団の上に身体を横たえる。消したエアコンと、開け放っている窓――そこから夏の生ぬるい風が吹き込んできていた。 ――外の、夏の匂いがするなぁ。 眼を閉じるとそれがよく解る。生温い風が、外の香りを運んでくる。じっとりとしてくる――肌に吸い付く湿気とか、草の強い匂いだ。 ――旦那は香りのない花だし、でも草の匂いくらい、するかな。 抱き締めた瞬間の、幸村の感触を思い出した。布団の中で、ごろごろと動き回って、この腕の中に彼を収めていた時を思い出す。時間は然程それと変わっていないのに、それが遥か昔のことのように感じてしまっていた。 佐助は自分の腕で、自分の身体を抱き締めるようにして構えると、ごろ、と壁に向かって横向きになった。そして、再び深く呼吸をすると、そのまま寝入っていった。 久しぶりのアラームで眼を覚まして、天井を見つめる。けたたましく鳴り響く携帯を片腕で引き寄せて、音を止めると、佐助はむくりと起き上がった。 起き上がった視界の先で、こちらに背中を向けている幸村が眼に入る。のそ、とベッドから降りると――然程広いわけでもない部屋の中だ――直ぐに幸村の後ろに座り込んで、腕を伸ばした。 背中に流れる髪が、鼻先を擽ってくる。ぎゅっと抱き締めて、幸村の背中に頬を近づけると、しっかりと自分の胸元に引き寄せた。 「おはよ、旦那」 「――おはようござる」 抱き締められて身体を縮めたままの幸村が答える。少しだけ拗ねたままの口調に、背後から幸村の肩に顎先を寄せた。 ――あ、やっぱり香りはしないなぁ。 昨夜寝入る時に思いついたことを、佐助は犬のように鼻を鳴らして試してみた。だがそれを佐助が泣いていると勘違いしたのか、幸村が焦って眉根を下げ、手をぱたぱたと動かした。佐助は、すう、と息を吸い込む。 「旦那、御免ね、昨日は」 「佐助殿、某のこと、本当に嫌ってはおらぬのか?」 間近に幸村の瞳が佐助に向けられる。ぽぽぽ、と紅くなっているのは、密着しているからだろう。佐助は幸村の頬に自分の頬を近づける。すると幸村は少しだけ、ううん、と顔を背けた――たぶん、伸びかけた髭があたったに違いない。 「嫌いな訳、ないじゃない」 「…良かったでござる」 身体を動かして、幸村はほっと胸を撫で下ろした。佐助が幸村の肩を、くる、と回すと彼を再び自分の胸に引き寄せる。幸村の柔らかい頬に顔を寄せると、佐助は其処に唇を触れさせる。 ――ちゅ、 「――――…ッ」 ぴく、と幸村の背中が揺れる。だが手放すことはせずに、指先を幸村の下唇に押し当てると、薄く開かせた。そしてそのまま滑らせるようにして唇を重ねていく。 「っふ、――…ッ」 啄ばむだけのキスを繰り返してから、間近に幸村の顔を覗き込むと、彼は瞳を潤ませながら荒く胸元で呼吸を繰り返していた。 「旦那こそ、怒ってないの?」 「――な、何が…」 はふはふ、と呼吸を繰り返し、濡れた唇を舐める姿に、思わず背中がぞくりとした。佐助は長い幸村の髪を手に取ると、それを指先で弄ぶ。 「だってさ、俺…――旦那を泣かせちゃったじゃない?」 「それは、そう…だが」 「理由も云わずにさ」 「――――…」 ひくん、と幸村が咽喉を鳴らす。確かに理由を告げたわけでなく、一方的に幸村と顔を合わせられなくなっていた。だが、その理由を問われたらどう答えたらいいのか、思案してしまう。 ――てか、説明なんて出来ないじゃない? 「でも理由を教えろって云われても、俺様困っちゃうから。だから、まだ聞かないで」 「解り申した…」 こくん、と幸村は素直に頷いた。そして自分の鉢へと手を伸ばして、閉じかけている五枚の花弁を指先で撫でる。その伸ばした指先を――佐助は自分の指に絡めて引き寄せた。 「あ、でも此れだけは覚えててよ」 ――嫌いなんか、絶対にならない。大好きだよ。 こそ、と幸村の耳元に云うと、幸村はそのまま頷いた。 「狡いことお願いしてごめんね」 ふるふる、と幸村が首を振る。 ――ぐぐぐぅぅぅぅぅぅ。 途端に轟くような轟音が響いた。聞き覚えのありすぎる音に、佐助は瞳を瞬いた。 「今の…旦那の腹の音だよね」 「ううう、申し訳ござらん〜。腹が空きもうして、どうにも」 ――花期はいつもより腹が空くのでござる。 火を吹く勢いで赤面し、幸村が肩を縮ませる。佐助は咽喉の奥からこみ上げてくる笑いを抑えながらも、面食らってしまってそうもいかない。徐々に、かたかた、と笑いで肩が揺れてきた。 「駄目だっ!旦那、すっごいタイミングなんだもんッ!あはははははは」 「な…っ、酷いでござるッ!笑わないで下されぇぇぇっ」 ――ぐきゅるるるるぅぅぅぅ 反論しながらも幸村の腹は轟音を鳴らし続ける。佐助は、ひーひー、と腹を抱えながら水を取りにキッチンへと這って行った。 静かに花びらが閉じ始める蕾の先で、もうひとつの――三個目の花が大きく、微かに揺れていった。 ぽとり、と二個目の花が落ちたのは、翌日の朝のことだった。落ちた花を両手で梳くって手の中に収めると、しっとりと――それでいて、柔らかい花びらの感触に気付く。赤々と――どの花よりも紅く咲く姿は、部屋の中が華やいで仕方ない。 そしてその花と同じ色の、Tシャツを着た幸村が、佐助の身支度を見上げながら、2リットルのペットボトルに直接口をつけて水を飲み込んでいく。 「ね、今日はさ、慶次さんのところに行ってなよ」 「え?何ででござるか?」 こくん、と半分近く飲み切ってから幸村が、慣れた手つきでテレビのリモコンで音量を下げた。 佐助は鏡に向かいながらネクタイを締めていた。ここ最近でスーツを着るのは本当に久しぶりで、何となく肩の辺りが居心地悪い。 ――とりあえず夏だから、上着は着ないで持っていこう。 クールビズだとか何だとか世間では騒がれている。例に漏れず佐助の会社でもその傾向は強いが、今日は小十郎に付き合って展示会に行ってくるのだ。 「今日はね、いつもと違うところに行くんだよ。だから、旦那は行けないんだよね」 「そう…で、ござったか」 しゅん、と斜め下に視線を動かして幸村が腕にペットボトルを抱える。たぷたぷ、とその中の水が音を立てていた。 佐助はネクタイを結び終わると、幸村の側に座り込んで頭に手を乗せた。 ――くしゃ。 いつも小十郎が佐助にするように、手を軽く動かしてなでると、幸村はつまらなそうに口唇を尖らせていた。 「そんな顔しないでよ。お仕事、早く終えて迎えに行くからさ」 「一緒に居たいでござる」 つん、と尖らせた唇でそんな事をいわれると、胸がきゅんとしてしまう。子どものような仕種に胸が疼いてしまう。 「可愛いこと云わないで。ね?」 「――解り申した」 ふう、と溜息を付きながら幸村が頷いた。どんどん人間らしさに磨きが掛かってくる幸村を観ながら、好きな肥料買ってあげるから、と告げると幸村は少しだけ機嫌を直したらしく、ペットボトルをたぷたぷ揺らしていった。 佐助を見送ってから幸村は慶次の手伝いに精をだす。一通り開店準備が整うと、いつもの花屋の作業台の上に突っ伏して幸村は回りを見回していた。 見慣れた風景だ。此処で何年も過ごしていた。レジの上の棚は、今は何も置かれていないが、あそこに自分の鉢があり、そこからこのフロア全体をよく眺めていたものだ。 ――それが遠い昔みたいでござるな。 此処で他の仲間と遊んでいた時が、遥か遠くにいってしまった気がした。今は佐助のいる――佐助の、あの1DKのマンションの一室が、幸村にとっての家だ。 あそこに居て、そして佐助がいる。葉に触れてくれたり、話しかけてくれたり、一緒に色んなことをするのが、楽しくて堪らない。 ――暇でござるなぁ。佐助殿、今頃何をしてるのであろうか。 人間には仕事というものがある――だがそんなものとは無縁の幸村には、彼の不在の時間が長く感じられて仕方なかった。幸村は作業台に突っ伏して、顔の向きを左右に動かしていった。そうしていると水遣りを終えた慶次が中に入ってくる。 「慶次殿、某…どこか、おかしいのでござろうか?」 「幸村はいつもおかしいでしょ?」 「…なんか酷いことを言われたような気がするのでござるが?」 「気のせいだよ、気のせい」 ちょっと休憩、と慶次は椅子を引き寄せて座ると、自分用のアイスコーヒーを飲み込んだ。幸村の前には出掛けに佐助が買ってくれた水がある。 「そうではなくて…こう、佐助殿のことを思うと、何やら此処が苦しくなるのでござる」 「――…へぇ?」 身体を作業台から起こして、幸村は自分の胸に手を当てた。掌で胸元を押し当てるようにしてみせる。 「触れられたらもう、嬉しくて堪らないのに、落ち着かなくて…」 「――…ふぅん?」 慶次は片肘に顎を乗せて、じっと幸村の話を聞いていた。からん、とアイスコーヒーの中に入っていた氷が音を立てる。 幸村は云いながら佐助のことを思い返していた。いつもの笑顔、語りかけてくれる時の優しい眼――だがそれと同時に、彼の振り向かない後ろ姿を思い出して、しゅん、と項垂れた。 「嫌われたら如何しようかと、そればかり考えてしまうのでござる」 からら、と氷の音を立てて慶次がグラスを傾ける。とん、と作業台の上にグラスを置くと、滴が落ちた。慶次は幸村の項垂れた顔を覗き込む。 「好きなんだねぇ」 「え…――ッ」 ばっと幸村が顔を上げる。その鼻先に慶次の指先が指し示される。 「好きなんでしょ?好きで好きで仕方ない、って顔しているよ」 「な…ななな何とッ!」 ――某、斯様に破廉恥極まりない顔をしていたのでござるか? ばしっ、と小気味よい音を立てて幸村は自分の両頬に手を当てた。 がたん、と椅子を動かして慶次は幸村の隣に座った。そして彼の頭を――子どもの頭をなでるように、わしわし、と撫でると、そのまま長い髪に指先を絡めた。 長い髪の部分を見ていると、彼の本体の花の花芯を思い出す。ひらひら、とした五枚の花弁が眼に浮かぶようだった。 「元々さ、お花なんだし、花期は人一倍綺麗になるけど」 「――うん?」 こくん、と幸村は小首を傾げた。花期にはこの花達は人一倍美しさを競う。どの花も、華の精も、花期には無条件で人を惹きつける程の美しさが滲み出てくるのだ。 ――でも今までの幸村とは違うよね。 慶次は今までを思い出してから、ふふ、と口の中で笑った。 「今回の花期ほど、俺は幸村が輝いているのを見たことないよ?」 「――そうでござろうか」 ――自分では解り申さぬが。 照れて幸村は頬を指先で、ぽりぽり、と掻いた。 二人の目の前を、市を連れたかすがが通っていく。かすがの金色の瞳が、くるん、と幸村を見上げてから、ととと、と歩いていく。月下美人とカトレアの鉢を近くしたら、この二人は意気投合したのだった。 それを見送ってから、慶次は腕を組んで作業台に寄り掛かった。 「うん、キラキラしててさ、恋しているねぇ。佐助さんの影響かな?」 「恥ずかしい…ッ!」 わっと幸村は両手で顔を隠してしまった。出ている耳も、首筋も真っ赤になっている。彼の花と良い勝負だと思うくらいの赤面っぷりだった。 「ねぇ、俺、配達あるからさ、その後、一緒に迎えに行かない?」 「――…?」 そろり、と指先の合間から幸村が慶次を見やる。慶次は楽しそうに、にしし、と笑いながら伝票を手にして、ぱたぱた、と動かした。 「佐助さんに逢いたいんでしょ?待ちきれないって顔してるよ」 「慶次殿ぅ…」 ――それ以上、いじめないで下され。 このままでは恥ずかしさで頓死してしまいそうでござる、と幸村は付け加えていく。時計を見れば昼を幾分か過ぎた頃だった。 「俺のお仕事は花屋さんだからね。此処はひとつ、恋の花咲かせるお手伝いをさせていただきましょ」 慶次はそう云うと、座り込む幸村の腕を引っ張って行った。 展示会は昼前に何とかほぼ終わりを迎えていた。昼を挟んで全てが終わったのは、夕方に差し掛かった頃だった。ロビーのソファーにぐったりしながら座っていると、小十郎が「お疲れさん」と甘いキャラメルマキアートを佐助に手渡してきた。 佐助は舌先にじんわりと甘みが乗り、ほっと一息ついた。 「佐助、お前今日は幸村は連れてこなかったんだな?」 「だって仕事にならないでしょ」 隣に座り込みながら小十郎はコーヒーを口に運んだ。問いかけてきた小十郎だって、今日は政宗を置いてきている。 「――浮かれてたくせに」 ふふ、と核心を突くように、揶揄うように、小十郎は屈み込みながら佐助に指摘してくる。佐助は、こくこく、と甘いコーヒーを飲み込んでから、ふう、と溜息をついた。 「片倉の旦那ぁ…」 「おう、どうした?」 「俺さぁ…どうしたら良いのか」 「うん?」 サイドにあったツールにコーヒーを置いて、両手で顎先を抱えた。長い指先が、頬から目元まで差し掛かって、覆っていく。 「旦那が可愛くて、どうしようもないんですよ」 「それは…観ているとよく解る」 うんうん、と小十郎は頷いた。確かに、小さい幸村を可愛がっていたのを彼らは知っている。花の精たちはそれぞれが可愛くて、少し人とはずれていて可愛い。 ――だけど、無条件に可愛いんじゃなくて… 佐助は、がしがし、とセットしていた頭を掻き乱した。隣ではのんびりと小十郎がコーヒーに口をつけている。 「でもさ、それが…どうしようもなくて」 ――抱きたい、って思っちゃって。 「――――ッ!」 ぐほ、と咽喉の奥にコーヒーを押し込めて小十郎が咽喉を詰まらせる。げほげほ、と咽ている彼をじっと見ながら、佐助はネクタイを外していった。 「ね、引くでしょ?俺様本当にどうしたら良いのかなぁ」 「そりゃまた、随分と思い切ったな…ごほっ」 辛うじて噴出すのは避けた小十郎だが、咽て胸が痛いのだろう。どんどん、と胸元を叩いていく。佐助はそんな彼の様子に構わずに、手元でネクタイをくるくると巻いていった。 「顔合わせらんないんですよ、旦那が目の前にいると、抱き締めてキスして、もうぐっちゃぐっちゃにしてやりたいっていうか…」 ――俺様、こんな風な恋なんてしたことないのに。 がく、と頭を下げる。今までの恋愛でもそんなにのめり込む事なんてなかった。それを思い返すと、幸村と対峙してこんなにも胸を躍らせる自分に「中学生かよ」と突っ込みを入れたくもなる。 深く、深く、溜息を吐くと、ははは、と楽しそうな小十郎の笑い声が響く。横目でそれを睨むと、彼は手を伸ばして掻き乱した髪を余計にぐしゃぐしゃと掻きこんだ。 「ま、なるようにしかならねぇよ」 「酷い…他人事だと思ってさ」 「悩め、悩め、青少年」 ふはは、と皮肉ったように小十郎は左の口の端を吊り上げ、再びコーヒーに口をつけていく。佐助も掌に紙コップを持つと、くい、と咽喉に流し込んでいった。 帰社して直ぐにロビーで呼び止められた。小十郎と並んで歩きながら、踵を返して振り返る。 「佐助ッ!」 振り返ると、たたた、と駆け込んでくる幸村の姿があった。そのまま幸村は飛びついてきそうな勢いで、一瞬、佐助は辺りを見回してしまった。すると幸村の背後から慶次が、大きなバスケットに入った花篭を持って歩いてきていた。 「どうも〜、配達でっす」 「どうも〜。って…旦那、どうしたの?」 ぺこん、と会釈すると、幸村は佐助の前にきてから足を止めた。そしてじっと見上げてくる。佐助が軽く手を広げると、幸村は佐助の胸元にぎゅっと抱きついた。 「あのな、慶次殿が配達に来たので、その付き添いがてら一緒に帰ろうかと」 「――…迎えに来てくれたの?」 顔を起こして、佐助の背に回した腕を放して離れてから、幸村は問いかけてきた。佐助の背後で小十郎が手を上げて挨拶していて、幸村は丁寧に頭を下げる。 ――旦那が俺を迎えに来てくれた? それを思うと、ぶわ、と胸元が熱くなる気がした。彼の方から佐助に迫ってきてくれることが、どうしようもなく嬉しい。 佐助が感動している中で、小十郎が慶次に近づいて花籠を見つめる。カサブランカやバラと、見るだけに豪華な顔ぶれの揃った花篭だ。 「で、配達って…それ、うちの部署じゃないだろうな」 「これ竹中さんの復帰祝いだって、電話貰ったけど?」 「じゃあ営業だ。ちょっと話つけねぇと。こっちだ、前田」 「はいよ〜」 小十郎に促がされて慶次がロビーの受付のところまで歩き出すのを見送っていると、幸村が伺ってくる。 「もう、仕事は終わったのか?」 「――旦那…ッ」 ――ぎゅうっ。 がば、と途端に佐助は幸村を抱き締めた。さっきは幸村から抱きついてきたのに、佐助から抱き締めると幸村は戸惑った声を上げ、手を泳がせる。 「わ、わ、さ、佐助……?」 「旦那ぁ…――何であんたはそう可愛いことするのさぁ」 「某、何かいけないことをしたのでござろうか?」 泳がせていた手を佐助の肩甲骨の上に添えて、ことん、と幸村は頭を肩に乗せてくる。ぎゅうぎゅうと抱き締めながら、佐助は「一緒に帰ろうね」と耳元に囁いていく。 会社だとか、外だとか、そんな事は思考の外に追いやって、ただ幸村を抱き締めていたいと思った。 駐車場まで幸村の手を引いて歩き、マンションに着いてもやっぱり手を離せないでいた。後ろ手になってしまうのに――というよりも、幸村はどうしても佐助の半歩後ろに歩いて着いてくる――手を離せずに、繋いで歩いた。 「佐助殿、某のこと、本当に嫌いになっておらぬのか?」 「嫌いじゃないって、昨日も、今朝も云ったでしょ?」 佐助はネクタイをクローゼットの中に追いやり、着苦しいシャツを脱ぎ始める。展示会の中は意外と冷房が効いていて寒いくらいだったせいか、汗は殆ど掻いていなかった。 がば、とシャツを脱ぎ込んで着替えていると、幸村が何本目かになるペットボトルの水を咽喉に流し込む。 テーブルの上の鉢では、三個目の花が大きく花開いていた。今までで一番大きく、そして深紅に染まった花――それを見下ろしながら、幸村はテーブルの上にペットボトルを置いた。 「…今日、慶次殿と話していてな。某、どうやら…」 「待って、旦那」 「え?」 ふう、と着替えて楽になったところで、佐助が幸村に歩み寄って言葉を遮る。そして少しだけ身体を屈めて正面から幸村を覗き込んだ。 「俺の前でさ、他の男の話、しないで」 「佐助……――」 面食らって幸村が咽喉をこくりと鳴らした。佐助は、がく、と頭を下げると手で自分の髪を思い切り掻き込むと、顔を上げた。 「ああ、もうッ!御免ッ。俺、すっごい厭な奴になってる。嫉妬して、みっとも無いよね」 ――俺の方こそ、旦那に愛想付かされちゃうよね。 困ったな、と続けて佐助は深く呼吸を繰り返す。幸村に他の誰かの話をされると、どうしても胸の中がざわついて仕方ない。これを――この気持ちを何て呼ぶのかを自覚してしまうと、口にしたくてたまらなくなる。 「そんな事はないぞッ!愛想など尽かすものかッ」 「旦那…――ッ」 がし、と急に幸村が佐助の肩を掴み込んでくる。小さな愛らしい時とは打って変わって、男らしく眉をきりりと上げている。はっきりとした口調が耳に心地よく響いた。 「某…気付いたのでござる」 「何…を…――?」 「某、佐助が…佐助の事が」 「――――…ッ」 徐々にはっきりしていた口調が、途切れがちになる。一語一語をしっかりと、確実に伝えようと幸村は必死になっていた。佐助はじっと彼の挙動を見守るしかない。 だけど、どくんどくん、と鼓動が急に早くなって、耳に迫ってくる。 ――うわぁ、身体全部心臓みたいだッ。 ふわ、と頬を上気させながら、乾きそうになる咽喉を引き剥がして、幸村は真っ直ぐに佐助を射抜いてくる。 「好きで、好きで…大好きで…」 「――――…ッ」 「もっと佐助の事が知りたくて、触れたくて…」 こく、とやっと一息つくと、幸村は眉を下げた。掴まれている肩が、かたかた、と揺れてくる――幸村の手が震えているのが解る。その振動が佐助にも伝わってくる。 「は、破廉恥なことを云っていると、解っているのだが、その…」 しゅう、と蒸気が出そうなくらいに幸村は真っ赤になった。テーブルの上の花よりも、もっともっと紅かった。 佐助は飛び出してきそうな心臓の音を、押し込めるように天井に向かって息を吐く。 「もう良いよ」 「――――…ッ」 びくん、と幸村が不安そうに眉を寄せて顔を上げた。泣き出しそうに潤んだ瞳が視界に入ると、佐助は強く腕を引き寄せて幸村を自分の胸へと閉じ込める。 「ごめん、本当に。云わせっぱなしは卑怯だよね」 「佐助……――ッ」 抱き締められて居場所がない腕を、幸村が宙に躍らせているのが解る。それでも佐助は幸村の肩に噛み付く勢いで抱き締める――すると幸村の背中が撓っていく。 「旦那、好きだよ」 「本当でござるか…?」 耳朶に吹きかけるようにして佐助が唇を寄せる。幸村は逃げることはなかった。咽喉の奥で言わない方が良いような気もしていたが、気付いたら懇願するかのように――声を絞り出していた。 「好きだ。好き…なんだ」 「――――…ッ」 「だから、旦那の全部、俺に頂戴」 ――抱かせて。 幸村の耳元に囁くと幸村は、すん、と息を吸い込んだ。どくんどくん、と心臓が高鳴る。触れて密着したところから、この鼓動が伝わればいい。 ――ぎゅう。 「こういう事は、よく解らないのでござるが…」 ――好きな事には変わりない。 不意に泳いでいた幸村の手が、佐助の背中に触れて抱き締めてきた。佐助に全て任せるようにして幸村は瞼を閉じた。 それに気付いた瞬間、佐助はそのまま幸村の唇を噛み付くかの勢いで塞いでいった。 →9 091018up |