舞うは白雪 熾烈を極めた戦いの末に勝利を収めた武田軍は、勝利を祝い宴席を設けた。場所は諏訪に近い――そして祝いの為に様々な者達が出入りしていた。 ――警備が面倒なんだよな。 武田信玄の傍らに控えながら、猿飛佐助は周囲を警戒していた。祝いの空気の中ではあるものの、戦の直後だ――間者が潜んでいないとは言えない。 ――それに、俺様もなぁ。 佐助はちらりと信玄を見上げる。篝火に光る彼の眼光は戦前と何ら変わらない。しかし心裡は穏やかではないだろう。 佐助が所属するのは、真田忍隊だ。その長と云う位置に居ながら、こうして信玄公の側に控えているのは、他でもない主が斃れたからだ。 ――昌幸様…。 自分を起用し、側に置いてくれた主、昌幸。彼はもう居ない。今でも彼の豪快な槍裁きは眼に鮮やかに蘇る程なのに、既に彼は彼岸の人となってしまった。しかし彼には嫡子が居る。今度はそちらに引き取られるのだろうと、沙汰を待っているのが現状だ。 「佐助」 「は…」 「お前も舞え」 傍らに座る信玄が前を向いたまま告げてくる。その手にある盃はもう何度も空けられている。酔狂に付き合えというのだろうか。佐助は一度言葉を失ってから、刺々しく反論した。 「は?そんなご冗談。俺様、忍ですよ?警備があるってのに」 「良いから舞うがよい。一度見たお前の舞いは素晴らしかった。この場はどうも面白みがなくてのぅ…」 「辞めてくださいよ…そんな昔の話」 ――それに部下もいるってのに。 にやにやしながら信玄が見下ろしてくる。昔、一度だけ昌幸の前で舞った――その席にもちろん信玄も居た。それを思い出して佐助は眉根を寄せた。 確かあの時も勝ち戦だった――まだ幼い、細い手足を曝して踊ったのを覚えている。思案に暮れていると、す、と信玄が狐面を差し出してきた。どうしても舞わせたいらしい。 「皆に見つかるが恥ずかしいか?ならば面でも付けてゆけ」 「余計に舞いずらいっての。大将…あのですねぇ」 「舞えば好きなものを取らそうぞ」 「え…ッ」 渋る佐助を陥落させる一言だ。ぴた、と佐助が動きを止めると、信玄はくいと咽喉に酒を流してから、低く唸るように告げてきた。 「恩給でも、なんでも。昌幸の死に報いたる程に」 「大将…」 片膝を上げかけた瞬間、どおん、と和太鼓が鳴った。 その音に気付いて顔を前に向ける。両端には各武将達が居並ぶ先、其処にうやうやしく頭を垂れる女が一人居る。 女といってもまだあどけなさを残す、少女のようにも見えた。 白い装束に、そっと緋袴が見える。そして額には深紅の鉢巻が風に吹かれて靡いていた。辺りの喧騒を一瞬で飲み込んで、この場に静寂しか残らなくなる。その中に一際、はっきりとした声が響いた。 「諏訪大社が巫女、お祝いに馳せ参じました」 「ほう…」 「勇猛なる甲斐の虎、お館様に剣舞を」 「見せてもらおうか」 深々と頭を垂れていた少女が面を上げる。伏せられていた瞳を彩る長い睫毛が、遠めにも映るくらいに見事に陰を落としている。 薄い唇に刷かれた朱紅もまた、彼女の造形美を語るだけだ。表を上げた巫女に、周囲が息を飲んだ。 ――麗しい、って言うのかな。 きん、と冷えた空気が周囲に立ち込めるように、彼女が立ち上がると、全ての音が吸い込まれた。いや、魅入られているとしか言えない。 ――しゅ。 衣擦れにあわせて、すら、と剣が白刃を見せる。其処に反射して篝火が揺らめいた。佐助は腰を浮かせかけたままの姿勢でじっと少女が舞い始めるのを伺った。 ――どぉぉん。 再び太鼓が響く。それに合わせてしゃらしゃらと鈴や笙の、笛の音が響く。厳かな空間と化したこの場で、息を飲むのも忘れるほどだった。 ――巫女が舞うと、お祓いをしたと同じ効果があるというけど。 将にその通りとしか思えない荘厳さがあった。 視線を動かすだけで、ぴくりとも動かない巫女の白い面――くるりと動くたびに揺れる長い髪、そして袖から不意に現れる白い肌――それら全てが美しかった。 ――ぴり。 「――…?」 しゃら、と剣が音を立てる。そして巫女が一歩ずつ前に出るたびに佐助の五感に、火花のように触れる感覚があった。 ――なんだ? この感覚が馴染んで等しいものだ。所謂、殺気という感覚だ。それがどこから発せられているのか、佐助は感覚を研ぎ澄ました。 ――しゃんっ。 鈴が大きく音を立てる。同時に巫女が足を前に進めて、ひらり、と舞った。 ――…ッ ぎく、と身体が強張るのを感じた。佐助はこの殺気の元を感じ取ると、後ろを振り返って忍隊の者と入れ替わりに飛び出した。 ――あの巫女…ッ。 巫女から発せられた殺気は、ただの殺気ではない。それなりに鍛錬を積んだものの気配だ。それを感じ取って、佐助は素早く白い着物を羽織りながら、長い髪を無造作に結んだ。 ――どんどんどんどんどんッ。 場面の転換とも言える太鼓の音に合わせて、しゃ、と短刀を抜いて佐助が巫女の横に躍り出た。 ――わっ。 周囲が佐助の乱入に声を上げる。非難と云うよりも歓声に近い。佐助は覚えている足取りで、疾く巫女の元に舞いながら追いつく。 微かに振り返った巫女が、佐助に気付いて腰を落とした。ふわり、と髪が弧を描く。合わせて佐助は背をあわせるように彼女に近づいた。 「――…ッ」 「あんた、刺客か?」 小声で問うと、すら、と白刃が佐助の首元を掠める。 「――…邪魔だ、退けっ」 「このまま俺と舞え」 袖に隠れたまま彼女の手を取る。すると拍子を合わせて彼女は小声で佐助を威嚇してきた。この細腕のどこに力があるのかと疑うほどに、彼女の力も強い。弾き飛ばされそうになりながら、佐助が再び接近する――いや、前に進み出て刃を突き出そうとするのを阻んだと言っても良い。 「退け、下衆が」 「命を粗末にするんじゃねぇよ」 ――しゃんしゃんしゃん 周りの雅楽の音が大きくなる。二人に増えた舞手に周囲も見入る。だん、と大きな足音を立てて突き進もうとする巫女を阻んで、彼女の前にはらりと躍り出る。 ――きぃん。 怜悧な音を立てて、白刃と白刃が音を立てた。そして再び進み出た分を後退し、くるり、と体勢を変える。その隙に同じように動きながら接近する。すると巫女は表情も崩さずに佐助に告げた。 「仇を前にして討てぬとあらば、恥を曝すだけ」 「聞き分けな…ッ」 ――ひゅ。 不意に佐助の肩越しから巫女の白刃が伸びる。それを交わしそびれて、佐助が手に持っていた鞘を前に出す。しかしそれは間に合わず、中空に弧を描きながら弾き飛ばされた。 ――ざわ。 周囲のざわめきと共に、とん、と鞘が床に大きな音を立てて落ちる。巫女と佐助の間には間が開き、互いに緊張が取れたのか肩を動かしながら息を弾ませていた。 ――だんっ。 「見事ッ!」 「――…ッ」 辺りの静寂を打ち消すように信玄の声が響く。その声にも佐助が首をめぐらせず、ただ巫女を見詰める。巫女もまた同じように先程のまま体勢を崩しては居ない。しかし舞が中断したとしても、信玄の一声で場は宴会の空気を取り戻していく。 「大将…やはり俺様に舞わせたのは間違いだったみたいで。すみませんね、場を汚して」 「そんな事はない。のう、皆のもの」 はあはあ、と息を乱しながら佐助が背に向って声を張り上げると、信玄は満足気に口を開いた。 「佐助、先の言葉だが違えてはおらぬ。欲しいものを言うが良い」 「じゃあ…」 まだ呼吸は荒い――というよりも目の前の巫女から視線をそらせない。すでに彼女も殺気をだだ漏れにするようなへまはしていない。警戒しているという訳でもないのに、燃え立つような瞳から視線を離せなくなっていた。 そして佐助は、気付いたら信玄に告げていた。 「この巫女さん、俺様に下さい」 「な…ッ」 「よし、その巫女をとらそうぞッ!」 この言葉に、がららん、と巫女が持っていた白刃を取り落とす。それを合図としてか、周囲は急に色めき立ちながら歓声を上げていった。 宴はまだ続いている。その最中で佐助は与えられた部屋に赴くと、はあ、と溜息をついた。忍に部屋を与えるというのもどうかと思うが、其処に本当に巫女が居るとは思っても居なかった。 当然、憤慨して諏訪大社に戻っているとばかり思っていたのだが、律儀に彼女は此処に留め置かれてしまったらしい。 「貴様、どういうつもりだっ」 「どうもこうも、あんたの命を助けただけ」 佐助は着けていた装具を外しながら、警戒を解いて彼女の前に立つ。彼女は先程と変わらない白い装束のまま其処にいた。しかし手には白刃もなにも持っていなかった。 静かに座りながら、怒りをぶつけて来る。 「ほざくな…っ、しかも私を褒美として所望するなど…ッ」 「気付かなかった?大将はずっと獲物を手にしていた。それに、俺様の配下があんたを狙ってたんだよ?」 膝を折って、すい、と彼女の顎先に手を添える。すると彼女は腕を振り上げようとした。それを先にとって、さらさらと手首を結んでしまった。下手に暴れられるのも面白くない。 「貴様――…ッ」 「はいはい、大人しくして。大人しくしてたら何もしないから」 ぱ、と手を離してから佐助は座り込んだ。 部屋の中を見れば律儀に布団まで敷いてある。全くあの大将は、と唸りたい気持ちだった。しかし彼女の瞳から視線を離せなかったのも、彼女をくれと言ったのも自分だ。 ――さてどうしようか。 考えようとした瞬間、彼女は恨みがましく、うぬぅ、と唸る口を開き始めた。怒りと屈辱が滲み出ている瞳には、じわりと涙まで浮かんでいる。 「お前の言葉のせいで私は社の者達に捨てられたも同然。人身御供ではないか」 「仇って言ってたけど、諦めなよ…」 そっと手を伸ばすと、結ばれてしまった手でそれを払いのけられる。 「触れるな…っ」 「あのねぇ、俺様もあんたの剣に刺されたけど、俺様もあんたに怪我を負わせたでしょ。手当てくらい…」 「仇を…父上の仇を討てずにのうのうと生きてなど…ッ」 ばし、とあわせた手が拳を作り、畳に打ち付けられる。その音に佐助が声を荒げた。 「いい加減にしなっ」 「――…ッ」 どん、と彼女の肩を押す。すると簡単に巫女は横に転がってしまった。少しの力で転がるくらいに華奢な体に、どうして先程のような力があったのかと驚いてしまう。 畳の上に広がる波紋のような髪に気付いて、佐助は慌てて彼女を抱き起こした。そして抵抗をしなくなった彼女を抱きかかえると、そっと布団まで連れて行く。 ――このまま寝かしてやろう。 仏心を出しながら、目の前の花のような少女を見つめて思った。大きな瞳に、きりりとした柳眉、それに薄い唇――そのどれもが整っていて愛らしい。 笑ったらさぞかし綺麗だろう。そう思うと、どうせなら仇だ何だと血腥い思いをさせるよりも、蝶よ花よと愛でてあげたくなってくる――単純に彼女の笑顔が見たいとも思った。 「あんたは女の一生を生きれば良い。そんな仇なんて忘れちまえ」 額にかかる前髪をさらりと撫で上げて、佐助が諭すように言う。 ゆらゆらと灯火が揺れて、巫女の頬に鮮やかな光を映していた。その頬に、つ、と光る雫がある。佐助はとっさに其処に指先を向け、すい、と拭った。 「武家に生まれ、神社に追いやられて、女の一生など送れる筈もない。生きながら死ぬのなら、いっそ此処で…」 「あんた…――っ」 「此処で殺せ」 光を受けて上げられた彼女の瞳には、ゆらりと灯火が――焔があった。 彼女の口調からは絶望じみた色合いしか感じ取れない。だが静かに涙を流し、それでも瞳に燃える焔を映した姿は美しかった。 ぞく、と佐助の背に戦慄が走った。その感覚が何を言うかは知っている。 「巫女って、純潔を失うと資格を失うって言うけど…」 「ぁ…」 どさ、と大きな音を立てて彼女の肩を後ろに押し、結んだ手首をそのまま頭上に持ち上げた。急に拘束されて彼女が驚きに言葉を失う。 だがその合間にも佐助は苦無を取り出し、がつ、と畳に打ち付けた。 「何を…――っ」 「暴れないなら、こんな事しなくてもいいんだけどね」 ふふ、と咽喉の奥に笑みが上ってくる。仰向けになった巫女の上に乗り上げ、頬に手の甲を触れさせる。すると、びく、と彼女の身体が震えた。 佐助は低く囁くようにして身体を折りたたみながら告げた。 「俺が…俺様がただの女にしてやる」 「――…ッ」 「だから、生きな」 彼女の言葉を奪うようにして唇を塞ぐ。驚きに息を飲む音が、彼女の咽喉の奥からか細く聞えた。それでも火に照らされた彼女の肌が艶めいて、自分を抑えることが出来なくなっていった。 →next 110116 up |