カレイドスコープ・ライフ





 背に背負っていたランドセルが、徐々にその大きさを目立たなくさせて行くほど、幸村は年を重ねていった。あの日の事は自分の中の秘密となっている。

 ――近道と言われる神社を通って、妖に出逢った。

 ただあの近道を通ったと告げるだけで、兄は「危ない」と幸村を諌めてきた。そしてもう二度と一人であの神社には行かないようにと言われた。

 ――いけないことをした。

 言いつけを破ったことに兄は怒った。そして約束を破ってしまったことに、幸村は深く反省し、その日から一度も神社を通って道場に行こうとは思わなくなっていった。
 そしてすっかりそんな話も忘れ、ランドセルを背に背負わなくなり、制服に身を包み込むようになったある日、いつもの通りが工事中となって通り抜け出来なくなっていた。

 ――どうしようか。

 行けども行けども目の前には迂回の文字を示す看板がある。
 徐々に伸びてきた背と、半袖から出た手足は、既に少年の域を超えていた。だがまだ青年と云うにも幼く、危うい中間期のような様相の幸村は、あどけなさを残した顔で眉根を寄せた。

 ――時間は間に合う。しかし道がよく解らぬ。

 迂回を知らせる看板に簡易的な地図はある。だがどうにも、堂々巡りをしているような気がしてならなかった。
 空は青く澄んでおり、今にも手が届きそうな青を刷いている。だがそれにあわせて、肌を灼くような、じりじりとした日差しが幸村に疲労を与えてくる。

 ――暑いなぁ。

 季節は夏だ――暑いのは当たり前だ。だがこの炎天下の元で、ぐるぐると終わりの見えない迷路のように歩かされると、どうにも苛立ちが募ってくる。
 肩にかけた袋の中には胴着が入っている。それを担ぎなおして、幸村は溜息をつきながら空を仰いだ。

 ――ひや。

 不意に首元に冷たい風が当たる。この炎天下にあって、そんな涼やかな空気が存在する事は考えられなかった。自然と辺りを見回してから、背後の通り二つ先の路地に目がいった。

 ――此処は、道場の裏手か。

 という事は、この先には道場への近道がある。踵をそちらに向けた瞬間、ふと昔兄に諌められたことを思い出して足が止まった。

 ――ひとりで入ってはいけないよ、幸村。

 兄の厳しい声が脳裏に蘇る。だが幸村は軽く首を振った。

「もう某は子どもではござらん」

 約束を破ることへの言い訳でしかない。しかし幸村はぐっと足元に力を篭めると、路地に向って歩き出した。










 目の前にある大鳥居は記憶と変わらなかった。山道に向って伸びる階段を彩るように、赤い花がこれでもかと道を飾っている。

 ――まるで炎のような。

 今更ながらに見上げると、背筋がぞくりとするような気がした。厳かな雰囲気と云うか、誰をも寄せ付けないような鬱蒼とした雰囲気が其処にはあった。

「――立ち止まっていても始まらぬ」

 よし、と自分に気合を入れると、幸村はアスファルトから、砂利の敷き詰められている山道へと足を乗せた。

 ――ひやり。

 ただ一歩前に進み、大鳥居を潜っただけなのに、途端に熱気が感じられなくなった。まるで其処が境界だったかのように、ひんやりとした空気が辺りを染め上げている。
 不思議なものだと思いながらも、幸村は、ざくざく、と足元を慣らしながら歩いていった。木々のざわめきが頭上にあり、陰を落とすこの空間にあっては、熱気はもはや遠いもののようだ。

 ――なんとも不思議な。

 かつて此処を通った時には、どきどきと鼓動を高鳴らせて、畏怖にも似た思いを抱いて駆け抜けたはずだ。しかしこうして成長してから此処に訪れると、どうにもそんな畏怖と云う感情は沸き起こらない。

 ――それどころか、何故か懐かしい。

 歩きながら辺りを見回していく。妙な既視感を感じながら突き進みながら、何かを忘れている事に気付いた。

 ――そういえばあの時、俺は何かに出会った。

 ただ少しの言葉を交わした相手が居たはずだ。幸村は小さな社の見える場所を前にして、ふと足を止めた。両脇には狐が居り、此処が稲荷神社だという事を教えてくれる。

 ――ざざざざぁ。

 横から大きく風が凪いで来る。長く伸ばした髪が風に煽られて、ばさりと顔に係り、幸村は足を止めて瞬きを繰り返した。
 その視線の中にちらちらと赤い花びらが舞っている。

「なんとも綺麗な…」

 ゆらゆらと揺れる赤い花――その小さな花々が、風に揺れて舞って行く。それがくるくると視界を覆っては、幸村を惑わしていくかのようだった。

「珍しいお客さんだねぇ…」

 風の動きが止み、幸村が赤い花を見上げていると、不意に背後から声をかけられた。今の今まで誰もおらず、幸村一人の空間だった場所に、他の誰かの気配がある。そのことに驚きながらも、ゆっくりと首を廻らせると、其処には青年が居た。
 彼は社の階段に座り、此方を頬杖をついて伺っている。髪が茜色に染まり、瞳は緑を映し取ったかのような色をしている。

 ――俺は、この人を知っている。

 どきん、と胸が鳴った。
 彼は頬杖を解き、足を伸ばすと、後ろ手になりながら幸村に視線を向けてきた。そして懐かしそうに――しっとりと瞳を眇めて微笑むと、くつくつと咽喉を震わせて笑った。

「やぁ、また出逢ったね」
「お前は…――っ」

 ぎし、と社の階段が音を立てる。それと同時に彼が立ち上がり、幸村の居るところまで歩を進めてくる。さくさくと踏みしめる木の葉の音を聞きながら、目の前の人物から視線を反らせない。
 こく、と咽喉が鳴った。すると幸村の顔に影が降りてくる。ひゅうと息を飲んで、呼吸を止めてしまった――彼がこちらをのぞきこんできていたのだ。

 ――なんと流麗な…ッ。

 側に近づいた彼の顔に、どきんどきん、と強く鼓動が立つ。動きのひとつひとつ、造りの一つ一つがまるで甘く誘っているかのように艶めかしい。幸村が自身でもわかるほどに、背筋から首筋、そして頬へと肌に朱を乗せていくのを、彼は構わずに手を伸ばしてきて、幸村の頭に置いた。

「またおいで、って言ったのに」
「あ…――」
「随分、来てくれなかったから、嫌われたんだって思ってた」

 ――くしゃ。

 柔らかい手が頭に触れる。それはまるで幼子にするかのような仕種だった。そしてあの夏の日――此処で彼に出会ったのだと、思い出した。

「まぁ、いいや。こうして来てくれたんだし」

 彼はにっこりと微笑むと、もう逃げないでね、と少しばかり寂しそうに瞳を眇めて笑っていった。
 触れた手は冷たく、この炎天の中にあって、心地のよいものだと思っていた。だが其れは、彼が人ならざるものであると知るには十分だった。
 ざわざわと風が吹くたびに、視界には赤い花が散る。
 それを瞳に焼き付けながら、幸村は目の前の男の手に自分の手を重ねると、覚悟を決めたかのように瞳を閉じた。

 ――何故、忘れていたのだろう。

 幼い日の出会い――言葉を交わしたのは、確かに彼だった。幸村はそれを思い出すと、静かに彼に「名前を教えてくれ」と訪ねていった。










 道場に通う日には早めに支度を整えて向う――それも、いつも使っていた道を使う事無く、近道だといわれる神社を通って向うようになった。

 ――今日も元気だろうか。

 週に三度は通っている道場だ。その度に通りかかるものだから、自然と彼とも顔を合わせることが増えた。というよりも、幸村が意識して此処に向うようになったからだろう。

「やはり佐助は油揚げが好きなのだろうか…」

 暑い夏の時期が過ぎて、はらはらと木の葉が色付いては落ちる頃になると、大抵彼は社に寄りかかって――中に入っていれば良いのに――うとうとと瞼を閉じていることが多くなった。それが心配でならなかった。

「佐助」
「ん…ああ、旦那か」

 声を掛けると彼は瞬きをしてから、ううん、と背を伸ばした。側に行ってから、幸村が手に持っていた包みを広げてみせる。すると佐助は怪訝そうな顔つきで、何度も幸村と包みを見比べた。

「どうしたの、これ?」
「いや…やはりお前の好物は油揚げなのかと思って」

 ――稲荷寿司、作ってみた。

 幸村が社に腰を下ろして包みを広げて見せると、一瞬呆気にとられた佐助が、次の瞬間に腹を抱えて笑い出した。

「な…なんだというのだッ?」
「あはははははははは、だって…凄い誤解ッ…ッ」
「な…だって佐助は稲荷なのだろう?」
「違うよぅ」

 ごろごろとその場に転がりながら佐助が笑い続ける。しかし彼の否定の言葉に幸村の方が今度は瞳を白黒させた。

「違うのか?ならば…佐助は何の妖と云うのか?」
「妖、ね…ふふ。旦那ってば可愛い。ね、これ手作り?」
「む…そうだが」
「初めて料理なんてしたんでしょ?手、絆創膏だらけだよ」

 ひょい、と佐助は嗤いを噛み殺しながら幸村の手をとった。そして絆創膏の絡まっている指に唇を近づけると、ちゅう、と吸い上げるように口付けた。

「な…――っ、さささささ佐助ッ!」
「嬉しいなぁ、俺様の為に作ってくれたんだ?」

 ちゅ、ちゅ、と啄ばむように繰り返しながら、傷のひとつひとつに佐助は唇を落とした。幸村が彼のしたいようにさせながら――内心は穏やかではなかったが――指先を離してくれるのを待ちながら、頷いた。

「慶次殿の義姉上に作り方を教わった。五目の方が旨かろうと…油揚げは甘い方が旨いかと思い…」
「旦那も食べよう?」

 膝に乗せたタッパの中にはぎっしりと稲荷寿司が並べられていた。それに手を伸ばして佐助はひとつを口に放り込んで、もくもくと租借していく。そして指先をぺろりと舐めてから、甘いね、と嬉しそうに微笑んだ。

「どれ、某もひとつ」
「俺様にもう一個」

 ぱくぱくと稲荷寿司を食べる佐助を見つめながら、幸村はほっと胸を撫で下ろした。

「良かった…食欲はあるのだな」
「ん?ああ…心配してくれてたの?いつもの事だよ」

 ――俺、夏以外はちょっと苦手なんだわ。

 ぺろん、指先についた米粒を掬い上げてから、佐助はそう話した。彼が人ではないことを認識すると、違いを見つける――発見の連続だった。
 夏以外は眠そう。夏以外は影が消える。夏は実体になれて、いろいろと動き回れるし、実体になれば人にも姿が見える。だがそれ以外の時は、見える人にしか見えない。

 ――ちゃんと此処にいるのに。

 触れれば体温だって、触感だってある。なのに、夏以外には彼はこの社を離れることも出来ず、また人に見つけて貰う事もない。

 ――寂しくなかったのだろうか。

 疑問をぶつけたとき、時々は見える人がいた事を教えて貰った。だがそれも稀なことだ。

「慣れてるから大丈夫」

 そう言いながら微笑む佐助は、華やかさを潜めたまま、ひっそりと寂しそうに見えた。

「そういえばさ、旦那」
「何だ?」
「其処の道場で何習ってんの?声は聞こえてたけど、あんたの姿視たことなかったし」

 こぽぽ、と持ってきていた水筒から暖かい麦茶を注いで佐助に差し出すと、彼は軽く腹を擦りながら受け取る。幸村は自分にも茶を注ぎながら答えた。

「杖術だ。珍しかろう?それと剣道、合気道…」
「へぇ…随分と熱心なんだね」
「お館様が教えてくれるものが、某には甚く楽しいのだ」
「お館様…――ああ、武田の大将ね」
「知っておるのか?」
「時々此処に散歩に来るよ」

 佐助は話しながらも眠そうに欠伸を何度も繰り返している。さわさわと辺りに茂る木々が子守唄のようにその葉を奏でていた。

「佐助…――」
「ん、食べたら眠くなった。ほら、旦那も行かないと」

 いつも眠そうにしている姿に、どこか悪いのだろうかと不安になってしまう。いつもの事だといわれても、心配する気持ちを払拭することは出来なかった。
 幸村が道場に行く時間が迫っても、佐助を伺っていると、彼は意地悪く口の端を吊り上げて笑うと、額に指先を向けてぴんと撥ねてきた。

「いた…ッ」
「お馬鹿さん。俺様に構ってないで、ほら、行った、行った」
「だが…――」
「俺様は居なくなりゃしないよ。だから、旦那…行っておいで」

 ぐずる子どもを宥めるように、頬に手を添えてなでてくれる。中学生になってから、そんな風に触れるのは兄でさえない――どこか気恥ずかしいような気持ちを抱きながら、幸村は彼の冷たい掌の感触を受けると、こくりと頷いてから道場へと向っていった。










 佐助と出会ってから何度目かになる夏がやってきた。空にはまだ真夏を思わせる白い雲が沸き起こり、じわじわと蝉の声が響いている。
 毎年、この茹だるような暑さの夏になると、待ち遠しくなってしまうのは、佐助に出会ってからだった。
 幸村は去年、高校へと進学した。高校は此処から電車で一本、自転車でも行ける範囲だ。以前よりも時間を取るのは難しくなったが、それでも道場に通うことを辞めはしなかったし、彼に逢いに神社に行くこともやめなかった。だが高校に進学した頃から、幸村の胸には変化があった。

 ――離れていると逢いたいのに、いざ一緒に居ると何を話したら良いのか、戸惑ってしまう。

 佐助の姿を視るだけで、声を聞くだけで、どきどきと鼓動が早くなる。口篭ることも増えたが、佐助はそれでも――まるで親のように――穏やかに待っていてくれる。
 神社の社で逢うことが楽しみだったが、此処最近は胸に嵐が沸き起こり、居ても立ってもいられない。

「それってさ、恋なんじゃないの?」
「――――…ッ」

 友人の前田慶次が不意に発した恋の言葉に反応して、幸村は思い切り竹刀を空振った。

「幸村ぁぁぁぁ、弛んでおるぞぉぉぉッ」
「申し訳ありませぬ、お館様ぁぁぁッ」

 回りでは掛け声が飛び交っているというのに、この武田道場の師範である武田信玄が目聡く幸村に注意を促がした。そしてそれに空かさず応えながら、幸村は身を起して慶次の元にいくと、どさりと座り込んだ。

「慶次殿が変なことを言うからですぞ」
「だってどう考えてもそれって、恋だと思うんだよね」
「こここ恋などと、そのような破廉恥な…ッ」

 幸村が防具を解きながら、口篭ると、首に腕を引っ掛けて慶次が密着してくる。耳元に揶揄うような笑い声が響いてきた。

「そうは言っても幸村、解ってんじゃない?」
「何がでござるか」
「こうしてて俺にどきどきする?しないでしょ」
「ぬ…――」

 言われて見るとそうだ。佐助が側に来た時には、南無三、と何度も瞼を引き絞ったものだ。身体も硬直して、それなのにドキドキと胸の鼓動だけが大きく聞こえていたくらいだ。
 だが今こうして慶次に触れられてもなんとも感じない。

「幸村はもう解ってんだよ、それがどんな物なのか」
「でも…」
「大丈夫。いいから告白しちまいな」

 ぎゅ、と慶次は楽しそうに幸村の鼻を摘むと、今度は「さあて」と声をかけて練習に向ってしまった。幸村はそんな後姿を見つめなあら、はあ、と溜息をついた。

「恋、でござるか…」

 空にじわじわと暗雲が立ち込めてくる。明日から夏休みだというのに、どうにも胸の中は晴れなかった。幸村は空の雨雲を見つめながら、降りそうだな、と想いつつも道場の中に戻っていった。
 その日の稽古が終わり、片づけをする頃には大粒の雨が降ってきていた。夕立はよくあることだが、雷もピンシャンと鳴っており、様相は夏の嵐だった。

「じゃあね、幸村。また講習で〜」
「慶次殿もお気をつけて」

 道場の入り口で挨拶を交わすと、慶次は折りたたみ傘を広げて駅へと向っていった。彼の大きな図体には不釣合いな、ファンシーな柄の――ケーキとかマカロンの描かれている――傘はたぶん義姉のまつのものだからだろう。
 彼を見送ってから幸村は空を見上げた。ざぶざぶと降り注ぐ雨に、致し方ない、と諦めをその表情に載せる。

 ――傘は持ってきていないし、今日は兄上も皆出払っておるし。

 いわゆる一人なのだから、濡れて帰っても怒られることもないだろう。そう思い立つと幸村は雨の中を駆け出した。だが一応近道を使っていこうと決めた。
 ばしゃばしゃと泥を跳ね上げて、いつもは下る道を登りきると、稲荷神社の社が見える。其処は佐助のいる場所だが、幸村はあえて声を掛けずに通り過ぎるつもりだった。

 ――ぱし。

「――――…ッ」

 駆け抜けようと足に力を入れた瞬間、ぐっと強い腕に掴まれた。振り返り様に確かめると、其処には佐助が居り、まるで舞うようにして幸村を自分の胸の中に覆い隠すと、社の戸をぱしんと開け放った。

「こっちにおいで、旦那」
「しかし…」

 入り口で立ち竦む幸村に手を差し出して佐助が声を掛ける。背後で、ぴしゃん、と雷が爆ぜた。佐助は立ち尽くす幸村の背後に行くと、ぐい、と中に押し込めてから、戸を閉めた。社の中は案外に広く、畳が敷き詰められている場所もある。

「まったく如何したのさ。傘は?」
「持ってきておらなんだ。そうしたら降られてしまって…」
「びっしょりだね。雨宿りしていきなよ」

 背後から肩を抱くようにして佐助が触れてくる。そうされると、どくん、と胸が撥ね始めた。

「――――…ッ」

 ――恋なんじゃない?

 脳裏に数刻前の慶次の言葉が蘇る。幸村は濡れた胸元をぎゅっと握った。しかし佐助はそんな彼の変化に気付かずに、戸の格子から外を見上げている。

「止まないね…まったく吃驚したんだから」
「そう、だな…」
「風邪引くよ、シャツ脱いで拭いたら?」
「いや…」

 首を軽く振る幸村は、鼓動を押さえ込もうと必至だった。

 ――落ち着け、落ち着け。

 ごくんと咽喉をならして、渇いた唇を何度も舐める。そうしてこの緊張していく身体を押さえ込もうとしていた。だが反応の薄い幸村に、佐助が痺れを切らして肩に手を置いて、ぐっと引き寄せた。

「旦那ってば」
「――――…ッ」
「え…」

 佐助と視線が合った瞬間、ぶわ、と真っ赤になった幸村に、今度は佐助が瞳を見開いた。だが驚いた佐助の顔に幸村は咄嗟に、顔を背けた。そして彼の手から逃れるようにして身を捩った。

「あ、いや…すまぬッ」

 ――気にしないでくれッ。

 半ば懇願にも似た叫びを出すと、幸村は佐助から身を離し、ぎゅっと自分の肩を抱いた。その様子が寒さを堪えるように見えたのか、佐助が我に返って「寒いの?」と聞いてくる。だが幸村は首を振るだけだ。

「ちょっと如何したのさッ?」
「何でもないッ」

 くるりと佐助に背を向ける。どきどきとそれでも鼓動が高鳴り、本当にこの鼓動だけで死んでしまうのではないかと思うくらいだった。手先もかたかたと震えて覚束ない。

 ――苦しい。

 落ち着かない。いつもの彼が其処にいるのに、どうしてこんなに動揺してしまうのだろう。幸村は戸惑いながら身を縮めると、肩に佐助の手が再び触れてきた。

「なんでもないわけないじゃないッ」
「何でもないんだッ」

 ――ばしッ。

 勢い良く手を払う。社内に響いた音にハッとすると、驚いた顔の佐助が払われた手を見つめていた。そして一瞬後に、ふ、と眉根を寄せると泣き出しそうに――頼りなく顔をゆがめ、俯いていく。

「旦那…ッ」
「――――…ッ」

 ゆら、と静かに動いた佐助の両腕が、ぎゅう、と幸村に絡まってくる。そして耳元に掠れた声で囁かれた。

「逃げないで」
「あ…」
「逃げないで、お願いだから」
「――佐助…」

 ぐす、小さく啜り上げる音が聞こえてきていた。幸村は佐助の胸に引き寄せられながら、そろそろと腕を彼に絡めて、身を寄せていった。それでもまだ胸の中は外の嵐と同じように渦巻いて、終わりを知らないように雷鳴を轟かせていくようだった。










 出されていた柏餅を食べ終わると、のんびりと机の上で佐助が舟を漕いでいた。小さな三頭身の姿を見つめながら、幸村は指先で彼の茜色の髪を撫でる。

「その後、直ぐに身体を赦してしまったのですが、まあ…それは若かったという事で」
「お前、今さらりと恥ずかしげもなく言いやがったな…」

 呆れ顔で政宗が突っ込むと、幸村は「仕方ありませぬ」と苦笑した。だがその笑顔には何の迷いもなく、完全に惚気としか言えない。

「佐助と出逢って魅入られて、もう既に某には…佐助しかいらないと思いましてな」
「ほほぅ…若いのぅ」

 両手で湯飲みを包み込んで咽喉に茶を流していくと、元就が口元に手を宛がって、頷いた。だがその背後で元親が「お前も可愛かったよな」と嘯くと、ごす、と肘が打ち込まれていった。

「夏休みは幸せでござった。日がな肌を触れ合わせて、寄り添って、何処までも共に行けるのだと…疑いもしませなんだ」

 幸村が机の上の佐助を撫でていると、彼はハッと瞳を開けて、ととと、と幸村の元に駆け寄っていく。その姿を視ながら元就が静かに先を続けた。

「――だが、佐助は」

 ――花。

 それを聞くと、幸村はこくりと頷いた。伏せた目元に長い睫毛が影を落としていく。そして掌で佐助を包み込むと、肘をついて目の前に寄せた。

「旦那?どうしたの…?」
「愚かだったのでござる。人なる某が、幾百年も経た彼を手に入れるなど」

 幸村の言葉には後悔が滲み出ていた。そして目の前の佐助は状況が飲み込めないとばかりに、小首を傾げてから、くるん、と頭を燻らせて皆を見回していく。その幼い動きに、今の話の相手だと――そう認識するのは難しいものがあった。

「幸せに目が眩んで、眩しくて、後先は何にも考えませなんだ」

 幸村はそう告げると「まだ聞きますか」と皆に確認した。此処で話の先を無くすには、既に聞き込んでいる。政宗も元就も、小十郎も元親も――誰一人として首を横には振らなかった。
 それを確認すると、では、と口羽を切りながら、幸村は先を続けて言った。











 ――そしてあの夜が来る。

 翌年の、旱魃にも似た炎天下での地獄。一面の赤い光景が迫る。

「大丈夫、旦那は俺が護るから」
「佐助…――っ」

 彼の背後にただ燃える様な赫が映えて、美しいのに怖いと思った。腕を伸ばしても触れるのは何もなくて、ただ彼の冷たい身体だけが自分を護ってくれているのだと知った。

「大丈夫だよ、怖く、ないからね」
「厭だ…逝くなッ」

 歪んでいく視界の先で、佐助はずっと幸村を抱き締めたまま、優しく包み込むようにして抱き締めてくれていた。

 ――眼に蘇るのは、あの夏の赫。

 それを思い出しながら、幸村は静かに――彼との出会いと、そして別れを語っていった。







8(佐幸)







100516 逆転花の精・佐幸。