カレイドスコープ・ライフ





 ――主だ。
 この庭のヌシだ、と第一印象に感じたのを覚えている。
 元就の家は大層なお屋敷で、近所からも遠巻きに見られるほどの敷地を誇っていた。
 昔からの地主――日本家屋に、日本庭園、一見しただけでは伝統文化財として扱われてもおかしくないほどの様相を呈していた。
 その庭の一角、そこに彼は居た。
 物心ついたばかりの元就に与えられた離れは遠く、そしてあまりにも広すぎた。だが元就にはそれを悲観することもなかった。
 出会いは桃の花の咲き誇る季節だった。
 庭先には四季折々の花々が咲き誇っては、季節を謳歌していた。

 ――熱い、苦しい。

 桃の花が咲き乱れる節句の頃、元就は熱に浮かされていた。いわゆる、おたふく風邪だった。頬が痛くて、耳の下が痛くて、喉が痛くて、はふはふ、と何度も息を吐き出すしか出来なかった。それなのに側には誰も居てくれなくて、随分と寂しいと感じたものだった。

 ――はら。

 人の気配にうっすらと瞳をあげると、雨戸が開いていて、そこから桃色が見えた。

 ――はら。

 桃色の花に、それを支える白い手。戸に影が出来ていて、それが彼だと知った。初めは戸から覗いた手だとか、桃の花びらだとかを夢だと思っていたくらいだ。だがそれは、熱が引いてから夢でなかったのだと気付いた。
 花びらが落ちていく――その軌跡を辿る。戸をあけて、黒い庭土の上を辿る。視線を向ける先には、彼が居た――白い肌に、銀色の髪、その姿はやたらと幻想じみていて、思わず瞳を奪われた。

 ――なんという存在感。

 花花がひしめく中で、一際に存在を主張してくる。それが彼だった。
 周りの花々が、ひらひらと舞う――そして彼の元に行くが、彼は一向に靡く様子もなく、ただ庭の果て――その先の海を眺めているかのようだった。
 熱が引いたばかりの、まだ熱い身体で、元就はもたらされた桃の花をぎゅっと握った。小さな手に触れた桃の枝はひんやりとしている。だが、彼以外誰も見舞いに来てもくれなかったこの身に、これほどまで嬉しい贈り物はなかった。

 ――我を、どうか。

 大きな瞳から、ぼろん、と大粒の涙が零れる。海を見つめる彼を見ていると、涙がこみ上げてきた。彼の視線に触れたい――そう願うまで、そうそう時間はかからなかった。










「ははぁ、やっぱりお前、俺のこと見えてるんだな」
「そ…それがどうした!」

 おたふく風邪もすっかり治った頃、元就は庭の一角に向った。そして目の前に大きく立ちはだかる花を前にして、胸を張って見上げた。だが拳はふるふると奮え、口元はきゅっと引き結んでいる。
 眼前にはあの時に見た青年が、足を組みながら、ははは、と歯を見せて笑っていた。綺麗な銀色の髪が、潮風に吹かれて揺れる。それと同時に彼の頭上の葉が、さらさら、と音を立てていた。

「――…ッ」

 目に見える光景は幻想的で、さもすると見惚れてしまう。それなの、どうしても身体が震えてしまった。小さな身体を縮めながら、必死に足に力を入れている元就に気付いて、彼は頬杖をついて小首を傾げた。

「――俺が、怖いのか?」
「怖くなんか…」

 元就は強く袖口を掴んだ。拳を握りこみすぎて手が痛いくらいだった。俯く視線の先に、ふ、と翳りに気付いて顔を起すと、ぬう、と大きな手が迫ってきていた。

 ――びくんッ。

 大きな手に思わず瞼を閉じる。だがその直後、ふんわり、と頭に触れてきたのは、柔らかい手の感触だった。驚いて瞳を見開いて顔を起すと、彼は微笑みながら語りかけてきた。

「ほれ。触れるだろ?取って喰いやしねぇよ」
「あ…」
「見える奴は触れる。そういうもんらしい」

 撫で撫で、と柔らかく撫でる手が、ふい、と離れる。その軌跡を猫のように視線で追いながら、元就はやっと誰何を向けた。

「お主は…誰ぞ?」
「俺か?俺は、元親だ。この花…花の精、だな」

 ふわ、と元親は両腕を広げてみせる。そうすると頭上で葉が、さらさら、と葉擦れの音を奏でる。それに合わせて元就の背後の、桃やこぶし、沈丁花等が同様にさざめく様に揺れた。鼻先にふんわりと甘い香りが触れてくる。元就は背後を振り返り、それらを視界に収めた後、再び目の前の青年に顔を向けた。

「バカか?花の精など居ろうはずが…」
「そう思っても構わねぇが、お前さんは頭で考えるよりも先に感じ取っていたじゃないか」

 ――とん

 非現実だと否定するつもりだったのに、彼は上半身を此方に向けて、鼻先を突いてきた。

 ――子ども扱いしおって。

 実際、まだ幼い子どもでしかない元就だが、早熟だったからか、頭だけは固くなっていた。だが自分の眼に見えるものが、そんな理論だとかを打ち破るくらいに非現実だ。

 ――でも彼が此処に居ると、我は判る。

 これは幻ではないのか――そう思ってしまう元就の思考を、目の前の元親は存在全てで否定してくれる。そして、鼻先に再び指をむけると、とん、と其処を突かれた。

「自分の直感に従えや」

 にま、と笑う笑い方は、この邸の中のものにはないものだ。目が細くなる――三日月になる程に細め、白い歯まで見せてくれる。
 紫紺の瞳がきらりと光を弾いて、元就をじっと見つめてくる。その事に気恥ずかしさを感じながら、元就は両手を組み合わせた。

「見舞い…」
「うん?」
「見舞いの礼を、言う」

 ぼそ、と呟くと、くしゃ、と再び頭上から大きな手が降って来た。元就が顔を上げると、逆光になって彼の表情は見えなかった。だが、しっとりと絞り出すかのように告げられた言葉が、心からのものであると思った。

「ああ…良かったよ。治ってさ」
「うむ」
「お前、兄貴と違って俺が見えるんだよな?だったら、いつか願いを言えよ?」
「え…?」

 小首を傾げながら見上げる。その先には緑の葉が見え、さらさら、さらさら、と音を奏でていた。太陽の光に、瞳を何度も瞬かせる。どうにかして彼の表情を読みたかった。
 だが元就の思惑は適わず、彼のその時の表情を見ることは出来なかった。

「それが約束なんだ。俺は霊木でもあるから、少しくらいなら叶えてやれるからよ」
「――?」
「って言っても…まだ解らないか」

 ふう、と溜息が聞こえた。いつまでも頭をなでる手に、自分の小さな手を当てると、元親は軽々と元就を抱え上げて腕をさらりと伸ばした。

「観てみろ、元就」
「――海…」
「綺麗だよなぁ。俺の故郷があの先にある」
「え…――?」
「昔話さ」

 ふふふ、と元就を片腕で抱え上げて、元親ははにかんだ。どこか少年のようなあどけなさを残したその顔を、間近で見つめながら共に春の海を眺めた。
 それが物心ついてからの、元就と元親の出会いだった。










 幾年過ぎたか、いつの間にか元就の定位置は彼の花の側になっていた。その場所は庭の一角で、其処からならば海が見える。その為か、彼の花の下には最初からベンチが置かれており、元就は殆どの時間を其処で費やすようになっていた。
 季節は初夏――少し動けば汗が噴出すが、こうして座っていれば快い風が流れ込んでくる季節だ。その下で用意された冷茶をグラスに注ぎ、からん、と氷を揺らしながら元就は呟いた。

「ここで飲む茶が一番好きだ」
「ふぅん」

 それまで姿のなかった元親が、不意に隣に座っていた。そんな驚きの光景にももう慣れてしまっていた。

 ――神出鬼没とは言うが…。

 まさに其れであろう、と元就は横目で彼の姿を確認して静かに冷茶を咽喉に流し込んだ。

 ――ゆら、ゆらら…

 風に合わせて彼の花が揺れる。微かに香る甘い香りが花先を擽る。すう、と元就は息を吸い込むと、膝に置いていた本を閉じた。

「静かで、ほっとするな、此処は…」
「俺はお邪魔か?」

 すい、と横から伸びてきた元親の手が、頬に触れた。人差し指だけが頬に触れ、それから確かめるように掌が追いついてくる。確かにある温もりに、ふ、と元就は擦り寄るように頭を傾げ、彼の掌を感じていく。

「いや…むしろ、居てほしい」
「元就…」
「一人は好きだが、一人は…寂しいものだ」

 この邸の中で、こうして自分に触れてくれる者はいない。距離はあるものの、元親が側に居てくれるだけで、どれ程に救われていたか判らない。
 庭には季節を追う様に花が咲き乱れる。その一角の、この彼の懐が心地よくてならなかった。高校から帰ると大抵、元就は其処で読書に勤しむ。
 誰も咎める者はいない――元就にとってのこの場所は唯一の、安らげる場所だった。

「お…元親よ。既に種が出来ておる」
「うん?そりゃあ…もう直ぐ、夏がくるからな。俺の花もそろそろ…」

 ――ぶちッ

 勢い余って視界に収まった種を、思い切り引きちぎった。手には軽い種の入った実が乗る。だがそれに合わせて元親は蹲った。

「いってぇぇぇぇ!!!元就、手前ぇ…」
「…どこを押さえて居る?」
「どこって…ぶっちぎった奴が言うなよ」

 ごろん、と側に蹲った元親が前屈みになっている。更に言えば涙目になりながら――どう見ても股間の辺りを押さえているようにしか見えない。
 元就は元親と手元の実を交互に見てから、ぽい、と実を放り投げた。

「ぎゃあああ、そんな所を我は触ったのか!汚らわしいっ」
「けが…酷いじゃねぇかよ!」

 放り投げられた実が弧を描いて庭に消える。元就が手をぱんぱんと払っているのに対して、元親は掴みかかっていった。

「知らなかったのだから仕方あるまいッ!ああもう、知っておったら触れなんだ…ッ」
「よく言うぜ!んなこと言っても、ガキの頃なんてよく殻とかとってやがったじゃねぇか!」
「子どものする遊びぞ…!不愉快なッ」

 ごしごし、と手元にあった布巾で元就は手を拭き始める。ぎりぎり、と背後から元親が睨みこんできている。だが元就はそのまま其処から背を向けるようなことはしなかった。

 ――さら…さらさら…

 頭上からは絶えず、花の揺れる音が響く。葉擦れの音が響いている。それを聞きながら、この陽気の中で海を見つめていると、あまりにも長閑で眠たくなってくる。

 ――午睡といこうかの…。

 うとうとしながら海を眺めていると、どさ、と横に元親が座った。そして横から、ぐい、と元就の頭を引き寄せる。

 ――ばたん。

 引き倒されるままに身体を横にすると、ちょうど元親の膝に頭が乗った。元就がそのまま見上げると、銀色の髪がきらきらと木漏れ日を受けて光っていた。

「元親…」
「眠いんだろ?今日までだったっけ?試験とかいうのは」
「ああ…中間テストだ」
「寝てろ。日暮れには起してやるから」

 すう、と元親の手が目元に触れてくる。促がされるままに元就は瞼を落とした。

 ――さら…さらら…

 瞼を閉じるとやたらと葉擦れが響く。だがそれは子守唄のようで心地よかった。元就は肩から緊張を解くと、元親の膝の上に頭を乗せなおした。

「元親…後で、ひとつでいい…」
「ん?」
「お前の花…我の部屋に…」

 甘い香りが――元親の香りが鼻先に触れる。子守唄が耳に届く。元就は静かに、初夏の庭で午睡に耽っていった。
 そうして柔らかな時を幾度も刻み、大して変化もなく――着かず離れずの関係を築いていった。
 後に、この庭から飛び出すことになるなんて思っても居なかった。与えられるまま、閉じ込められるままに、籠の鳥のままで生きていくのだと、覚悟していた。

 ――それなのに。

 今はこうして外に飛び出して生活している。あの十代の頃の、少年期が夢のように霞んでしまう程に遠くなる。
 あの庭は今でも元就にとっての、楽園には変わりない。

「そうして、我と元親は出会った。だが…それは、出会いでもなく、必然だったのだ」
「どういう事でござるか?」

 食後の茶を飲み込みながら、元就はくすりと口の中で笑った。そして政宗に「デザートでも出そうか」と告げ、一人席を立った。
 その後姿を四人は見守っていった。ただ一人、元親だけは小さな身体を、テーブルの上にころんと横たえて、ぼりぼりとむき出しの腹を掻いていた。










 家の者達の期待のままに元就は過ごしているように見えた。だが高校三年生の、それも年明けした頃に激昂しながら母屋と離れを繋ぐ廊下を歩いてきた。彼の後ろを、使用人だとか母親だとかが追いかけて来ていたが、元就はそれを振り払っていった。
それを庭から元親は眺め、何かあったな、と欠伸をしながら見つめていた。

「冗談ではないッ!」

 ずかずかと庭に飛び出してきた元就は、肩を怒らせていた。そんな風に激昂する元就を見るのは初めてだった。彼は元親の前に来ると、再び声を――張り裂けんばかりに張り上げた。

「全く、冗談ではない!そうは思わぬか…ッ」
「そう思うも何も…何が起こったか、俺は聞いてねぇからよ」

 ――何も言えんわ。

 ベンチに座りながら隣を譲る。だが元就は空席になったベンチのその場所を見下ろしながらも、突っ立ったままだった。そして両手をぶんと振り上げてから、はー、と深い呼吸を繰り返した。

「落ち着けや、な?」
「これが落ち着いて居られるものか。我は…少しも、何も、望んではならぬのか…ッ?」

 血を吐くような叫びだった。今までの不満を全て含めたように、元就は声を荒げると、そのまま肩で呼吸を繰り返す。そして元親にことの次第を語り出した。
 元就は自分の意思で、行きたいと願った大学があった。そしてそれは見事に合格し、春からはこの地を離れて学生生活を送ることになっていた。だがそれを急遽止めろといわれたという――ずっとこの地に居て、この地の大学に通って、そして兄を助けろとの事らしい。それは将に元就に踏み台になれと言わんばかりだったという。

「今直ぐ…明日にでも我は出ていく」
「…いいよなぁ」

 くるりと背を向けながら元就が叫ぶと、元親はのんびりと感想を述べた。出て行くと言った彼の言葉への感想だったのだが、元就は訝しんで振り返った。
 眉間に深い皺を築いて、目を鋭く吊り上げた彼の顔を見上げながら、元親は欠伸をする。冬のこの時期はどうしても眠くてならない。

「俺は動けねぇ。ここでお前の家を守るだけよ」
「――っ」

 ぐ、と咽喉を詰まらせるように元就が言葉を噤んだ。それを視界の隅に見止め、元親はベンチから腰を浮かせた。ひらり、と背を向けて自分の本体へと戻ろうとする。元就に背を向けて手を振った。

「達者で暮らせよ、元就…」

 ――ぎゅっ。

 背中に衝撃が走ったと思った瞬間、細い腕が腰に回ってきていた。それが元就の腕で、元親を背後から抱き締めているのだと気付くと、元親は肩越しに振り返った。

「どうした?」
「――…ッ」
「らしく、ねぇぞ?」

 元親からは元就の旋毛しか見えない。だが彼にしてみたら、こんな風に縋りつくのは初めての事だ。元親もしがみ付かれて、無理に振り解くようなことはしなかった。腹に廻ってきている元就の腕に、そっと手を添えて様子を窺っている。

「い、嫌だ…お前も…――ッ」

 からからに渇いた、消え入りそうな声で元就が呟く。元親は肩越しに振り返るのを止め、首を元に戻すと、元就の――腹に廻ってきている彼の腕を、ゆるゆると撫でながら諭し始めた。

「お前はな…元就。お前は人だ。だから、飛び立ってゆける」

 ゆっくりと元親は彼の腕を解き、身体の向きを変えた。そして正面から元就を引き寄せた。胸と腹の間くらいに、ぼふ、と元就の頭を引き寄せる。彼の呼吸に合わせて、鳩尾の辺りが暖まっていく。くすぐったさを感じながら、元親は溜息を吐いた。

「俺は…ここに根を張る、花だ」

 ――だから、動けねぇの。

 はは、と軽く空笑いをする。すると、元就が腕に力を込めた。元親の鳩尾に顔を埋めたままで、不穏な声で呟く。

「我の願ぞ…」
「元就……」
「幼心に覚えて居る。望みを言えと…お前は言ってくれたではないか」

 ――あれは嘘だったのかッ!

 がば、と顔を上げて元就が睨みこんでくる。その真剣な眼差しに、ごく、と咽喉を鳴らした。

 ――こんな眼差しは、あの時以来だ。

 少しの既視感にとらわれている間に、ふい、と元就が腕を振り解いた。

「もう…よいわ」
「元就…おい」
「嘘つきめ」

 元就は吐き捨てると、くるりと背を向けた。そして、来た時と同じように肩を怒らせながら離れに駆け込んでいった。
 ひゅう、と冷たい空気が吹き込む庭で、元親は溜息を付きながら銀色の髪を掻き込んだ。そして遥か彼方に見える海の方へと視線を投げてから、すい、と本体へと戻っていった。






5(親就)




100312 /100314加筆  逆転花の精・親就。ちょっと延長。