カレイドスコープ・ライフ 家族は5人――ずっとそう思っていた。 いつも家には母と弟が居て、父の帰りを一緒に「彼」は待っていた。だが彼は時折、姿を見ないときもあった。だが政宗が家に戻るころには彼は玄関先に居り、政宗を出迎えてくれるものだった。 誰を邪魔するでもなく、静かな佇まいでそこに彼は存在していた。 物心つく頃には既に彼は存在していた――だが彼は政宗の世界以外では存在していなかった。 「ひとつ多いですよ」 出してきたコップに母は不思議そうに眉を顰めていく。毅然とした態度の母が、まるで政宗がおかしいとでも疑っているかのように、見下ろしてきていた。 ――どうして? 不安に思って見上げると――彼と視線がぶつかった。彼はすまなそうに眉を寄せて苦笑しながら、政宗の頭を撫でて首を振った。 ――私の分は戻してきてください。 そう彼は小さな声で言う。だが此処にいるのに、用意しない訳にはいかない。 ――だってそんなの仲間外れじゃないか。 解せなくて政宗はカップを抱えて頬を膨らませた。だが同じように母もまた「戻してこい」と言う。 ――母上はどうしてそんな意地悪を言うのだろう。 「政宗、こちらにお出で」 呼ばれるままに父の元にいくと、父は母と弟をちらりと見てから、政宗に顔を近づけて――小声で言った。 「さて男同士の内緒話だ。母上や小次郎には内緒だぞ」 「わかってるっ」 「政宗はこいつが見えているのだろう?」 「はい」 「そうかぁ…だがな、こいつは一般の人間には見えないものなんだ。実体になることも出来るが…この家で生活するにあたって、実体にはならない約束していてな」 こそこそと話す父に、政宗はこくこくと頷いていく。 その後ろで彼は困った様相を崩さずに父――輝宗の後ろに控えていた。 「だがお前には見える。この父と同じようにな」 ぽん、と肩を叩いて父は笑った。そうすると父の背後で彼もまた笑っていく。彼がほんわりと微笑むのが珍しくて、もっと見てみたいと思ってしまう。 「輝宗さま」 不意に低い声で彼が父を呼んだ。 そして父の耳元に彼は何かを話し、そして父が頷くと前に進み出てきた。 「こうして日々を共にするようになってから、初めて名乗りますな」 「う…うん」 「私は、小十郎と申します。以後、お見知り置きを」 「俺は政宗だ」 「はい、政宗様」 手を差し出すと、その手を見下ろしてから、小十郎は身を屈めた。そうすると小さな政宗よりも視線が低くなる。そして小十郎は政宗の手を取ると、そっとその手の甲に唇を触れさせた。 ――暖かい。 確かに触れた小十郎の肌は、政宗に温もりを伝えてくる。それなのに、此処に彼はいない――自分と父以外には認められていない。 「――…ッ」 ちくん、とその事が胸に突き刺さった。政宗は小さな手を自分の胸にあて、小首を傾げるだけだった。 そして月日は廻っていく。 政宗が中学生になっても、いくつ年を重ねても、小十郎はいつも同じ姿だった。そしてあいも変わらず父に忠義を尽くしていく。だが共に居る時間は、政宗の方が数段に多かった。もう政宗は小十郎の存在を母や小次郎に言うようなことはなかった。 「お前さ、どれくらい実体になってないの?」 冬の寒さが厳しくなる頃に、政宗は自室の椅子の上から問いかけた。小十郎はというと、課題に取り組む政宗を見張るかのように――この寒さの中だというのに――床に正座をして構えていた。 「もう随分になりますか…輝宗様が奥様を娶られてからになりますから」 「お前、それで不服じゃないの?」 「いいえ、全く持って」 「でもよ…お前は此処に居るのに」 「考えてもみてください。嫁いだ先に得体の知れない男が居たら、良い気はしないでしょう?」 小十郎は手を握り込みながら、視線を落としていく。 ぎ、と椅子を浮かせながら、政宗は腕組みをした。言われてみれば小十郎の方が正論だ。だが彼の気持ちはどうなのだろうか。 「I see,それでお前は平気なのか?」 「――輝宗様のお傍に居られるのでしたら」 「――――…ッ!」 どきん、と胸が高鳴った。どんな形でも構わないと小十郎は言ったのだ――傍に居られるのなら。 「私は此処以外で、自由に動ける身体を持ち合わせてはおりませんから」 ――こうして家の中に招き入れて頂いているだけでも幸せでございます。 そういって微笑んだ小十郎の瞳は、政宗に向かっていた。だが政宗は自分を通して、父を見ているのだと気づいてしまう。 ――なんだよ、それ。 一緒に暮らしてきた。いつも傍にいた。自分の傍に居てくれた――だがそれは、政宗に向けられる感情ではなかった――政宗を通して、父に向う――彼なりの忠義の形だった。 「――――…っ」 政宗は急に椅子から立ち上がると、足音を荒げながら部屋の外に飛び出していった。だが小十郎は政宗を止めることもせずに、ただ彼の背中を見送っていくだけだった。 「早く、大きくなってくださいませ」 ――小十郎はそれをお待ちしております。 政宗が飛び出していった先に、ぽつり、と小十郎は口にした。だが此処で彼の呟きを聞きうる者はいなかった。 別れは唐突に訪れて、息を切らして訪れた病院で、泣き崩れる母と弟を見た。 「父さん…?」 事故だった。 目の前には既に動かなくなった父がいた。応えることはない――父の顔を見ることも適わない。見てしまったら、泣き出してしまいそうで、叫んでしまいそうで、どうしても出来なかった。ただ立ち尽くして、父の傍らで白い布を見つめ続けていた。 それからどうやって戻ったのか――気付いたら家に着いていた。 「政宗様、お帰りなさいませ」 「小十郎…」 玄関口で彼は立って待っていた。暗い家の気配に先程までの事が夢でないと知る。 政宗は、心配そうに窺ってくる小十郎にしがみ付いた。すると小十郎もまた、抱きついてくる政宗を抱き締めてくれた。政宗は小十郎に抱きつきながら、すん、と鼻を鳴らした。そうすると、ふんわりと甘い香りが鼻先を擽ってくる。 「何があったのですか。奥方と、小次郎様が出て行ったきり…」 「父さんが死んだ」 「え…――」 くい、と身体を起こして政宗は小十郎を見上げた。 小十郎ははしばみ色の瞳を見開いて、口を噤んだ。その彼に畳み掛けるように政宗は告げていく。 「父さんが死んだんだ」 「死…――?」 単語を述べる小十郎の唇が、ふる、と戦慄いた。小十郎の瞳が政宗から離れ、地面に向けられる。彼の着ていた白い着物が、ひらり、と動きに合わせて揺らめいた。 ――かく。 膝が崩れ落ちて――小十郎が力なくその場に膝をつく。知っていた――でも、認めたくなかった。やはり小十郎にとって父は絶対の存在だった。 「小十郎…ッ」 手を伸ばして膝立ちになった彼を、身体を丸めて抱き締めた。ぎゅっと抱き締めると、小十郎の身体から仄かな香りが漂ってくる。彼の花期には彼自身も香り、いつも父も自分もこの香りを楽しんだ。 「政宗様…」 腕を伸ばして小十郎が細い政宗の腰に絡めてくる。顔を仰のかせて政宗の胸元に顔を埋め、ぎゅう、と抱き締めてくれた。 「小十郎、泣くな」 「貴方様こそ…泣かないでくだい」 ぽろ、と彼の頬に涙が零れ落ちる。こんな外で、誰が見ているかも解らないのに、どうしても止められなかった。一度堰を切ってしまった涙は、次から次へと溢れ出してしまう。 「小十郎…――、こじゅ…う」 彼の名前を呼ぶだびに、同じように滴が零れて止まらない。それを下から掬い上げるようにして小十郎は手を伸ばし、そっと涙を拭ってくれた。 「あの方は、私の花を見る事無く逝ってしまったのですね」 「――…ッ」 「あの方が褒めてくれたから、私は咲き続けてきたのに」 いつもは顰められている小十郎の眉が、珍しく下がっていく。口元に苦笑とも取れる笑みが浮かぶ。なのに、その瞳には微かに涙の膜が出来ていた。 ほろほろ、と涙を顎先にまで零している政宗とは逆に、ただ小十郎は涙を耐えていく。その姿があまりにも彼らしくて、咽喉元が締め付けられるように苦しくなった。 ――俺の前で、泣いて良いのに。 だが彼はそうしないだろう。どこか一線を引きながら彼は政宗に接してきていた。小十郎は庭先にある大きな樹を見上げて――くしゃり、と顔を歪めて微笑んだ。 「もう、私が咲く必要もないでしょうな」 ――私も花を閉じましょう。 静かに瞼を下ろして腰を落とす小十郎に、ぞくりと背筋が凍る気がした。 「厭だ、そんなのッ!」 「政宗様?」 気付いたらそう叫んでいた。仁王立ちになりながら、涙はまだぼろぼろと零れてくるというのに――小十郎を睨みつけながら、政宗は首を振った。 「お前まで、俺の前から消えるなんて、厭だっ。絶対ぇ、赦さねぇッ!」 「政宗様?」 ――ぐいッ。 云いながら政宗は小十郎の着物の胸倉を掴んで引き上げて立たせる。そうすると政宗の方が今度は彼を見上げることになる。 驚いたかのように瞳を見開いて小十郎が見下ろしてきていた。両手でぐっと襟を掴みこんで、小十郎を引き寄せる。鼻先には今もまだ、甘い香りが触れてきていた。 「俺はお前の…――お前の花が、好きだ」 「政宗、さま…?」 近づけた顔を俯かせてしまう。どうしてもその先に続く言葉は、彼の顔を見ながらなんて云えない。 「花だけじゃねぇ。お前そのものが…」 ――好き、なんだ。 断られる可能性もあった。だが今のこの状況で伝えることしか出来なかった。そうしなければ、彼は引き止められる事無く、自らで立ち枯れを起してしまう。そうしたら自分だけが――父との共通の内緒だった、小十郎――思い出全てを亡くしてしまいたくなかった。 「だから俺の為に、咲いてくれ」 ぎゅう、と握る手が、次第にかたかたと震え始める。小十郎からの答えが怖かった。だが震えながら離れそうになっていた手を、小十郎は包み込んだ。 「俺の、為に…――」 こくり、と小十郎は頷いた。誘われるように見上げると、小十郎はいつぞやのように静かに政宗の手に唇を触れさせる。 「ならば政宗様、あなたの為に花を」 ――咲かせましょうぞ。 そう云いながら小十郎が膝を折ってその場に跪く。それを静かに見下ろしてから、政宗は空を仰いだ。 「政宗様、これより私は貴方様を主と致します」 「小十郎…」 「お側にお置きくださいませ」 静かに伝えられる言葉が、何だか遠いことのように思えた。彼を手に入れた――だがそれは自分が望んだ形のものではなかったかもしれない。 冷たい夜空に、星だけがやたらと瞬いて、綺麗な夜だった。政宗はただ涙が乾くまで、其処に立ち尽くした。そしてそれを支えるように小十郎もまた、政宗の側に控えていった。 →2(小政) 100124 up /逆転花の精・小政、過去編 |