「習作、あるいはディスタンス」




黒き日々は偶さか朱を得て、充実をみせる。
朱。血の色。
猿飛佐助は忍びである。今は戦国の世、忍びの仕事は無数とあった。偵察、攪乱、時には暗殺も。
佐助はこの仕事が嫌いではなかった。むしろ、他人に道具としてつかわれる自分に満足さえしていた。重責を負うのは柄ではないと、心の底から感じていたために。
他人を弑することすら、主のため。
黒き日々は己。朱は友。
彼にとって命とは軽重があるものであり、それすなわち恩賞の軽重であった。
――だから衝撃的だったのだ。
主である真田幸村は戦場の真ん中でただ呆然と立ちつくしていた。迫る切っ先が見えていないかのように。名もなければ技もない、佐助からみれば敵にさえ値しない足軽が、幸村の命を奪わんとしていることに気が付いていないかのように。
「家康様の御為!」
考える間もなく身体は動いていた。愛用の暗器をひらめかせてその足軽を狩る。
「……どうしたの旦那ぁ。初陣でもあるまいし、家康と会って闘志が鈍ったのかい?」
「そんなことはない!」
間髪入れず、幸村は怒鳴り返す。
家康は戦うと言った。織田につくと。
その時から、家康の命は、徳川軍の諸々の命は軽くなったのだ。殲滅すべきものになったのだ。
理解していない幸村ではない。敵と味方の区別がつかぬものが生き残っていけるほど、この戦乱の世は甘くない。
「それが人を斬る痛みじゃ!」
幸村の主であり、師と仰ぐ信玄が諭すのを、佐助は白けた気持ちで見ていた。人を斬るのは仕事だからだ。それ以上でも以下でもない。
(これだからお偉いさんたちは……)
忍びには感傷にひたる暇などない。それが出来るのは、信玄公や幸村のような武将だけだ。戦を仕事とせず、政争の道具とするものたちだけだ。
それを解っていても、自分の主がその感傷に捕らわれたことに、佐助は少なからず衝撃を受けていた。幸村と自分の間にある距たりを感じていた。
信玄の訓戒を受け容れ、本来の調子を取り戻した幸村をみて、佐助はそっと息をついた。




「佐助、此度の働きも見事であった」
屋敷に静寂が戻ったのは翌日の朝四ツを過ぎた頃であった。
戦は織田軍の圧勝に終わった。友軍の伊達は織田の鉄砲隊により大きな損害をこうむり、特に将たる政宗が重い手傷を負い、この甲斐の屋敷にて伏せっている。
この結果が、幸村の本意であるはずもない。
「お褒めにあずかり恐悦至極っと。旦那も疲れてるでしょう、こんな時間だけど早く休んだ方がいいですぜ」
三、四日は寝ずに動く自信のある佐助も、さすがに疲労感があった。早く退出して横になりたい。
「それじゃ」
「佐助」
与えられている部屋にさがろうとすると、すでに単衣姿になった幸村に呼び止められた。
「旦那?」
「その……なにか怒ってはいまいか?」
「なにを……」
言いかけて佐助は、はたと気付いた。おそらく、先だっての戦場での件であろう。特に気にしていたわけではないが、衝撃を受けていたのは事実だ。それがいつのまにか態度にでていたのだろう。忍びとして失格だ。
「……言うの、旦那ぁ。俺様はあくまでも旦那の配下でしょう。怒ったりするわけないない」
「そうか」
たった一言で、ぱっと顔を輝かせる。基本的に単純なのだ、この主人は。
「それじゃ改めて」
「佐助」
幸村は再び呼び止める。
「ここで寝るとよかろう」
「はい?」
主人の突然の申し出に、佐助は目を見開く。すると幸村は、言い訳をするように両手を振った。
「佐助の部屋は伊達の方々にお貸ししているだろう? それに、伊達殿を信用していないわけではないが、佐助がいれば心、づよ、い……」
「はあ」
欲望は強い意志を持って、佐助を誘惑する。どんどんと俯いていく主人に、近づいていきたい気持ちに駆られる。
頼られている。そのことが佐助の心をかき乱し、満足させ、激させ、安心させる。
幸村は主人である。佐助にとって誰よりも重い命を持った人間である。誰よりも大切にしたい人間、近づきたいひと。
しかし、幸村は武将なのである。佐助だけではない、多くの命を背負わなければならない責任をもった人間なのだ。
主人が自分を困らせようとしているわけではないことは解っている。こうやって、佐助の心を揺さぶるのは、無意識の産物なのである。
(いや、俺様が勝手に揺さぶられているだけ、か)
近づきたい。孤高の将であって欲しい。
守りたい。もっと血塗られて欲しい。
(駄目だ)
佐助は俯いたままの幸村の髪をそっと掬った。はっとして顔をあげる主人をみて、笑む。これ以上触れると、せっかくの理性が無駄になりそうだ。
「旦那、不安なら俺様上で寝るから」
「不安などではないっ」
「そうだよねぇ。んじゃ」
 幸村が反応する前に、佐助は主人のもとを退いた。
これが従者としての理性。主従としての距たり。佐助の誇り。
汚されたくはなかった。それ以上に、主人を汚したくはなかった。

黒き日々は偶さか紅を得て、充実をみせる。
紅。主人の猛き炎。
猿飛佐助は忍びである。今は戦国の世、忍びの仕事は無数とあった。主人を守ることも、大きな仕事の一つである。








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立花さんから貰った佐幸!
彼女の文章が大好きです!読めて幸せvv
ありがとう〜!