深淵



あんたのいなくなった後の、あいつを知っている。



 ふわりと沸き起こる紫煙を吐き出しながら、冬空の下、夜半に窓を開ける。流石に寒いだろうと思うが、火照った肌には調度良い風だった。

「Hey,俺にも寄越せよな」

 窓辺で煙草を呑んでいると、ベッドに座ったままの政宗が――片膝を立てて此方に手を差し出していた。肩はむき出しになっており、先程までの情事の痕が窺えるほどの色気を振り撒いている。
 ちら、と其方に視線を投げながら、口元に煙草を引き寄せる。最後のひとくちとばかりに、ふう、と吸い込むと灰皿に煙草を押し付けた。

「駄目です」
「――昔は俺の方が吸ってたんじゃねぇか」

 はた、と立てていた足を倒して胡坐をかく彼の側に近づき、ベッドに座ると、ぎしり、とベッドがスプリングをきかせた。手を伸ばして頬に触れさせると、政宗はその手に鼻先を擦り付けて、匂いだけでいいか、と瞼を落としかける。

「あれは…ご自分で言った事を覚えておいでですか?」

 ――俺は俺の厭な部分に、こうして煙草を呑ませているだけだ。

 政宗の耳元に唇を近づけながら言うと、政宗の腕が首に絡んでくる。そして彼は小十郎の肩に頭を乗せた。

 ――昔、よくこうして背中を付け合って、戦場で語らった。

 今生の自分たちは、まったくあの時とは違う生き方をしているが、記憶が時折波のように押し寄せてくる。
 眼科医として働く小十郎の元に、大学生の政宗がこうして転がり込んでくるのも、最初から当たり前のことのように思えるくらいだ。

「Um…堅苦しいなぁ、小十郎」
「――――」
「やりきれねぇよ…お前、俺を置いていってそんな事だけ覚えてやがるなんてな」
「反論できかねますね」
「寒かったぜ…ずっと。この背中が」

 背を丸める政宗のむき出しの背に――掌を這わせると、ひく、と微かに反応する。火照っていた背は、あんなに汗ばんでいたのに、今は既に熱を失っている。
 小十郎は腰を上げてベッドに乗り上げると、政宗の背後に回りこんだ。ベッドの背によりかかると、胸に政宗が背中を預けて「へへ」とはにかんでくる。

「なぁ…覚えてるか?」
「はい?」
「あいつのこと…」
「――――」

 小十郎の指先を手で手繰り、政宗は煙草を持っていた左手の指に舌を這わせはじめる。微かに残る煙草の匂いを、取りこぼさないようにしているかの仕種だ。
 だが話しているのは自分たちのことでもなく、記憶の彼方の出来事――戦国での出来事だ。そして今は、別の人間を「覚えているか」と来ている。

「覚えてるか?」
「誰を、ですか」
「猿飛、佐助。真田の狗」

 ちゅう、と小指を吸い上げてから、政宗が体重をかけて寄り掛かってくる。そして肩越しに振り返る。

「ああ…よく、覚えていますが」
「あいつらが出逢ったら、どうなるんだろうな」
「大団円、ではないので?」
「Ha!そう思えるのなら、お気楽だぜ」

 鼻先を上にむけて嘲るように政宗は笑った。現在、政宗と幸村は同じ大学で――学年も一緒だ。そして幸村もまた戦国の記憶を持っている。容貌もまたあの時と然程変わらないのが不思議だ――いや、自分たちもそうかと考えを改める。見つけてくれと言わんばかりだと、政宗に出逢った瞬間に思ったことをふと思い出す。
 だがそんな思考とは逆に、政宗は淡々と述べた。

「俺は、今生でも酷いと思った」
「――――」

 何が、とは聞き返せない。再び背を向けた政宗を抱き締めながら、彼の掠れていく声に耳を傾ける。

「真田は、酷い男だ」
「――――」
「あいつ、笑ったんだぜ?」

 くしゃ、と眉を歪ませて――口の端を吊り上げながら政宗が振り返る。振り向き様にふわりと唇を重ねてから、政宗は首筋に擦り寄るように鼻先を埋めてきた。

「猿飛が、静かに…見ていられないくらいに、静かに、壊れていったのを俺は教えた」










 もこもこと首元を暖めていたマフラーを外しながら、室内の暖かさにほっとしていると、幸村がまだ咲かない桜を見上げていた。ラウンジの窓際はガラス張りで、すぐ外に桜の樹が見える。そこを定位置にしている幸村と政宗だ――既に幸村はひと講義終えた後のようで、テーブルの上には配布されたプリントが散らばっていた。

「お前、今度はどうするの?」
「どう、とは?」

 向かい側に座りながら、持って来た熱いコーヒーを差し出す。すると彼は中に砂糖を二つとミルクを足していった。

「あんたの居なくなった後のあいつを、俺は知ってるからさ」
「それは…政宗殿はほんに義理堅くていらっさる」

 ――託して正解でした。

 嬉しそうに幸村は両手でカップを包んでから、瞼を落として微笑んだ。だが政宗にしてみたら笑んでなど語れない話だ。ち、と舌打ちが飛び出してしまう。

「余程、恨み言を言おうかと思ったぜ。こんな使えない奴、俺に託しやがってって…」
「使えませんでしたか」
「ああ…」
「――――…」

 意外だ、とばかりに瞳だけ幸村は向けてくる。ふうふう、と彼がコーヒーを冷ますたびに湯気が上がった。それを横目で眺めながら、政宗も自分のコーヒーに口をつけた。

「あいつはお前の狗で有り続けた」

 頬杖をついて窓の外の――まだ芽吹かない桜を見上げた。

「静かに、誰も触れられずに、壊れていったよ」

 どんな反応が返ってくるのかと、一呼吸おいてから視線を流した。その瞬間、ぞくり、と政宗の背に戦慄が走った。

「そうでござるか…」

 ――ふふ。

 幸村は両手に包んだカップを手元に置いて、その表面を見つめながら嬉しそうに微笑んでいた。それはそれは嬉しそうに――満足しているかのように微笑んでいた。

 ――あいつは見てられないくらいに、壊れたのに。

 幸村がいなくなった後に、約束だ、とやってきた佐助を思い出す。見るからに目が死んでいて――こいつはもう駄目だと思った。それでも命を断てない彼に、何度も引導を渡してやろうかとさえ思った。

 ――独眼竜、殺してくれ。

 何度もそう懇願される度に、歯噛みしては、幸村を恨んだものだった。それなのに目の前の彼は嬉しそうに微笑んでいる。

「笑うのか?」
「嬉しいから、でしょうな」
「酷い男だな、お前」

 ぴん、と指先を伸ばして幸村の額を小突く。すると幸村は困ったように目尻を下げていった。

「某を、壊れるほど、恋うておったのかと思うと、嬉しゅうて嬉しゅうて…」

 ――笑うしか出来ませぬ。

 小突かれた額を擦りながら、幸村は尚もはにかんで話す。政宗は頬杖をつきながら毒づくように吐き出した。

「酷ぇ、男」
「ずっと、手の内に飼って、飼いならして。痩せ犬にしてきました」

 ――触れたのは、たった一度。

 その言葉に、我が耳を疑った。
 頬杖を離して、確認をこめるかのように幸村に視線を動かすと、幸村は「ふ」と小首を傾げながら口元に笑みを作った。だがその瞳は笑ってはいなかった。

「九度山を出るときに、たった一度許したきりです」
「――筋金入りだな」
「最期の、切り札でしたから」

 ――佐助を繋ぎとめるための。

 そこまで言うと、幸村は再び甘いコーヒーに口をつけた。知らなければ、恋慕の情だけで済んだものを、死に行くと分っていて許したのだ。それを聞いて政宗は胸が焼けるようだった。










 話し終えると政宗は青灰色の瞳を肩越しに向けてきた。小十郎は自分の腕の中に彼を収めたまま――触れる素肌の感触を味わうように撫でていく。

「如何思う、小十郎」
「深いんでしょうなぁ」
「――……」
「想いが深すぎて、変容させなくてはならぬほど、深く…愛してしまったんでしょうな」

 ――真田の気持ち、解らなくもない。

 苦笑しつつも、己の中にもそれ程に政宗を思う気持ちはある。彼に万一のことがあれば、この身を鬼としてもいいとさえ思う程の、激情を確かに内包している。
 政宗は溜息を付きながら身体を少しずらして、片腕を首にかけてくると、乱れている小十郎の髪を余計にぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。

「お前は?」
「はい?」
「お前は俺を、狂うくらいに好きか?」
「今も、昔も」

 ――変わらず。

 政宗の細い腰に腕を回しながら、再び引き寄せるように彼の足に腕を絡める。そうすると心得ているとばかりに政宗が身体の向きをかえて――向き合うようになりながら――小十郎の腰に両足を絡めはじめていく。

「俺は欲しいものは手に入れる。手に入れたら、籠に閉じ込めてでも側に置き続けるぜ。離れることはゆるさねぇ」
「貴方も十分に酷い男ですよ」

 倒れこまないように背を支える。肩甲骨の感触が掌に当たる――自分と比べると随分と華奢な気がするが、今も昔も彼の手触りは何物にも変えがたい程に馴染むものだ。

「Ah?戯言はいらねぇよ」

 ぐ、と背後に体重を掛け始める政宗に誘われて腰を浮かすと、ぎし、と再びベッドが鳴いた。弾む勢いに任せて、政宗の唇に触れていく。

「俺は酷い男じゃなくて、一途なんだよ」
「そんな口は塞いでしまおうか」

 キスの合間にそんな戯言を交わしながら、飽きる事無く身体を重ねていく。離れていた時間を埋めるように、互いを確かめるように、繰り返される行為――熱に浮かされて潤む政宗の瞳を見下ろしながら、小十郎は手の中の彼を失いたくないと想った。

 ――もう、置いて逝きたくない。

 置き去りにされた彼と、先立った自分――気付いた時には、政宗に会いたくて、会いたくて、眠れなかった日々を、もう繰り返したくはなかった。

















091222 up