白く波が立つ瀬戸海を渡りながら、脳裏に描いたのは数ヶ月前に出逢った相手だった。

 ――随分と愛らしい。

 それが第一印象だった。松寿丸は手に桃色の花を携えて、兄の後ろから着いて行った。兄に、その花をどうするのか、と聞かれても頷くだけで、しっかりと腕に囲いこんで離さなかった。
 四国に足を踏み込んだのはこれが初めてではない。訪問の意図を述べて大人たちの話が始まると、松寿丸は一目散に庭から庭へと駆け出していった。

 ――今日は何ぞして遊ぼうか。

招き入れられた長曾我部の家の一角に松寿丸は足を向ける――子どもの自分にはもう用事はない。目指す場所が近づくと、とくとく、と小さく鼓動が跳ねた。はあはあ、と息を切らして駆け込むと、足を土に取られて転んだ。

 ――ずしゃっ。

 盛大な音を立てて転ぶ。暫く痛みと驚きに起き上がれなかったが、松寿丸は程なくして、むくり、と身体を起こした。するとじわじわと視界が歪んでくる。

「――っう」

 ――何の、これしきのことで男の子は泣かぬもの!

 転んだ膝が痛くて、じわりと涙が滲んでくる。だが松寿丸はぐっとそれを堪えて、立ち上がった。両手に抱え持った桃色の花は何処も汚れていない。その事にほっとして――今度は慎重に歩き出した。

 ――はら、はらはら。

 歩くにあわせて、花びらが舞う。
 膝についた泥を払ってくれる者は此処には居ないが、陽の光に煌く桃色が綺麗で、そんな事はどうでも良くなっていった。
 空は青く、空気は澄んでいる。鼻先に潮の香りが漂う。
 目的の部屋の前に来ると、松寿丸は深呼吸をした。そして、そっと身を乗り出しながら口を開いた。

「――いる、のか?」

 部屋の戸の前で小声で問う。ピチチチ、と鳥が長閑に啼いていた。

「――――…」


 何の返事もない戸の中に向って、松寿丸は軒に足を引っ掛けてもう一度「誰ぞ…」と呼びかけた。

 ――かた。

 とく、と鼓動が跳ねた。戸が目の前で開かれる。小さな、白い淡雪のような指が、戸に触れて――かたかた、と静かに戸が開かれていく。
 松寿丸は息を飲んでその光景を眺めた。戸が半分まで開かれると、ひら、と薄桃色の裾が覗いてきた。

 ――さら。

「だぁれ?」

 銀色の、波を作る長い髪が、潮風に吹かれる。桜貝のような唇が紡ぐのは少し高めの声だ。鈴を転がすかのような声に、人形のように整った容貌が目の前に現れた。

「――ッ、ひ…久しいの、弥三郎ッ」
「松寿丸…」

 声を上ずらせると、はたりと気付いて弥三郎が顔を上げる。驚きもなく――いや、少しだけ瞳が大きく見開かれた――彼は小首を傾げて松寿丸を見下ろしてきていた。そんな弥三郎に胸を張って問う。

「息災であったか、弥三郎」
「うん…」

 こく、と頷く弥三郎が、裾から手拭いを取り出して手を伸ばす。そして松寿丸の手や、頬を拭った。硝子球のような紫紺の瞳が間近で、ぱちぱち、と瞬きを繰り返す。
 松寿丸はその様子に見惚れつつ、ハッと我に返ると、腕に抱えていた花を弥三郎に差し出した。

「ほら、これを見よ。美しいであろう?」

 ぼす、と束になった花を彼の胸元に押し付けると、つ、と白銀の髪が桃色の花に引っかかった。腕に押し付けられた花の束を見下ろして、弥三郎が瞳を少しだけうっとりと眇めてみせた。

「桃の花…そうだ、お雛様をね…戴いたの」
「雛だと?お主、それでもおのこか?」

 のそのそと縁側に乗り上げて眉を顰めると、弥三郎は小首を傾げた。何の表情も映さないのに、声音だけで今彼が残念に思っていることが解る。

「…松寿丸もそういうの?」
「いや…その…」

 口篭りながら側に座ると、俯いた弥三郎の顔を下から覗きこんだ。桃の花に囲まれて、美しく面は映える――だが、彼の顔には表情らしい表情は無い。

 ――人形のようだの。

 松寿丸は小さな手を伸ばして、そっと弥三郎の頬に手を添えた。
 しっとりと吸い付くような感触が掌に触れる。そのまま顔を上げさせて、正面から大きな瞳を覗き込んだ。

「のう…弥三郎…お前、もっと笑わぬか?」
「何故?」
「お前は可愛らしいと思う。笑えばもっと可愛らしいだろうに」
「笑ったって…何の得にもならないよ」

 ふい、と松寿丸の手を振り解くように顔を動かしてしまう。そんな弥三郎の顔を、ぐい、と再び振り向かせた。

「いいや、笑みも使い方次第で謀略の…と、弥三郎?」

 ――ぎゅう。

 真剣に語り出した松寿丸の小さな肩に、くるりと細い腕が絡まる。二人の合間には桃の花が沢山あり、はらはら、と花びらを床に落としていった。
 こうして抱き締められて気付くのだが、弥三郎は綺麗な姿を――女子のような姿をしていても、しっかりとした身体は松寿丸よりも大きい。長い腕に、くるりと抱き締められて、何だか気恥ずかしくなってしまう。松寿丸が口を噤んでいると、耳元に小さな声が囁いた。

「弥三郎は、松寿丸の笑った顔を見られればいい」
「――――ッ!」

 ――ぐい。

 松寿丸は思い切り顔を上に仰のかせた。驚いた弥三郎が、ぱち、と瞬きをする。それと同時に長い睫毛が――銀色の睫毛が揺れた。

「ならば、我にもお前の笑顔を見せてみよ。我はお前が笑ってくれたら…きっと嬉しいと思うッ!」

 頬を紅潮させながら松寿丸は大きな声を張り上げた。一瞬の間を置いてから、からから、と大きな声で笑い出した弥三郎の回りには、色濃い桃の花が散らばっていった。










 家臣が茶菓子にと、ひなあられを置いていった。それに手を伸ばして、ほんのりとした甘さに口元をゆっくりと動かす。
 遠くに見える波濤――その手前に、色の濃い桃の花が見え隠れしていた。のんびりとした昼下がりだ――元就はこのまま横になりたい衝動にかられながら、脇息にもたれかかった。だがそれも直ぐに、荒々しい足音の訪れに眉を顰める羽目になった。

「いよう、毛利元就ッ」
「貴様か…何用か」

 ばしん、と勢い良く戸を開け放って入ってきたのは、長曾我部元親だ。がっちりとした体躯はまさに海の男といえる――さらに精悍な顔つきに、白銀の髪、それが余計に迫力をもって魅せている。元就は脇息に凭れたまま、煙管を手繰り寄せた。
 元親はそんな元就の前に、ずかずかと歩いてくると、はは、と軽く笑った。

「何用ってつれねぇな」

 ――ばさっ

 瞳を上げかけた元就の視界が、ばらばらと濃い桃色に染まっていく。一瞬、目の前に何が降って来たのかと思ったくらいだった。
 だが目の前に落とされてきた花を手にし、ふ、と元就は手元で枝を弄びながら、正面にどっかりと座った元親に矛先を向ける。

「――何のつもりだ?桃の花なぞ…」
「昔は俺に持ってきてくれたじゃねぇか。今日は桃の節句だぜ?」
「――おの子には関係なかろう…」

 散らばる桃は、元就の周りに広がっている。これでは掃除が大変だと思ってしまうくらいだ。だが元親はまったくそんな事は気にしていないようだ。

「まぁたよ…綺麗な花愛でるくらい、いいじゃねぇかよ」
「――…」

 はあ、と溜息をつく元親が、胡坐の上に肘をついた。そしてじっと元就を見つめる。見つめられて、手に桃の花を持ったままで元就もまた元親を見つめ返した。
 じい、と二人でそう見詰め合っていると、何だかおかしな気分になる。これでは戦場の睨み合いのようではないか。場の空気を断ち切ったのは元親だった。

 ――はあああああ。

 深い、深い溜息をついてから、ぬう、と腕を伸ばして元就の頤に触れた。元就は微動だにせずにそれを受ける。そうすると呆れたように元親が再度、ふう、と溜息をついた。

「まったく、何処にお前は笑顔を忘れてきた?うん?」
「――不快な…」
「もっと笑え、元就。花見るときくらい、笑えや」

 ――ぎゅうう。

 元就が眉根を寄せると、元親は頤から手を離して元就の口角を摘むと、ぎゅっと横に引っ張った。

「はなひゃぬか…ッ!」
「ぶ…っはははははは」

 おのれ、と元就が睨みつけると、ぱっと元親は手を離した。引っ張られた頬を擦りながら元就は余計に眉間に皺を刻む。

「お前の笑顔が見られるなら、俺は何でもするんだけどなぁ」

 ――ごろん。

 元親は勝手知ったるという風情で、背後に転がると天井を眺めてごろりと身体の向きを変えた。そして横になりながら、頬杖をついて元就を見上げる。足で足を掻く仕種を見てしまうと、これがあの弥三郎だったとは思えないくらいの変容っぷりだ。
 皮肉るつもりで元就は煙管に火を入れながら、脇息に凭れた。ふう、と紫煙を吐き出すと、元親ははらはらと手で払ってみせる。

「そういう貴様は、よう笑うようになったの」
「だろう?昔、可愛い童に『笑ってくれたら嬉しい』って言われたからな」
「――…ッ」
「笑顔だって武器になる。どんな時でも、笑っててやるよ」

 にしし、と歯を見せて笑う元親が、瞳を細くして笑う。まだ幼い自分には無表情もいいところだったのに、何がこの男を成長させたのだろうか。
 元就は静かに煙管を口に咥えた――それを、すい、と流れるような動きで元親が取り上げ、煙管箱に戻してしまう。そして嬉しそうに、ふふ、と笑いながら近づいてくる。だがまだ彼は横になったままだ。

 ――指は長いのぅ。

 その先に昔は桜貝のような爪があった。だが今は男らしい、硬そうな爪がそこにある。元就は昔と今を交互に脳裏に描くと、小首を傾げて元親に問うた。

「で?その笑いは何の笑いだ?」
「うーん、さしずめ、お前を落としたいって、笑みかな」
「不埒な奴よ」

 ――よく言うわ。

 それだけ言うと、元就は立ち上がった。そして元親の側にくると、す、と膝を落として元親の髪に触れる。

「我を落としたければ、そうやって来い」
「え…」
「今でも、よう似合うておるぞ」

 ――フンッ

 そして直ぐにまた彼を跨いで、隣室へと足を向けていく。

「――鼻で笑いやがった…」

 元親は触れられた髪に手をやって、挿されていた桃の花をくるくると回した。そして暫く逡巡すると、がばりと身体を起こして「元就―ッ」と声を張り上げて彼の姿を探していった。













100302up
他愛ない日常。
子どもの時と今で立場というか性格逆転している二人。
子どもの時に老成した子と、無邪気な子、そして成長して子ども時代をやり直しているひとと、大人になるにつれて感情を押し殺していく人。
なんかキーワードはそんな感じでした。