天の原 天の河 「この嵐が止めば、安芸に進めるんだがな」 ふと元親は吹きすさぶ外を見つめて云った。篝火はゆらゆらと揺れていたが、それも先程の強風で霧散した。 「あいつも今頃、同じことを考えているだろうぜ?」 くくく、と咽喉を鳴らして笑うと、隣から福留が「またそのような」と呆れ顔で云った。 「元親様はいつもあの方のことになると、それが戦場であろうと楽しげでいらっしゃる」 「云ってくれるな、福留」 風にすべて持っていかれそうなほど、辺りには嵐が沸き起こっていた。城内に居ても、がたがたと吹き荒れる風が酷く、声すらもうまく聞こえなくなる。だが海に身を置く自分たちは違う――そんな雑音には慣れていた。 「待ち遠しいなぁ…」 「元親様…それはもはや恋焦がれているとしか」 「ふふふ…いいじゃねぇかよ、俺ぁ、あいつとまみえる瞬間に恋焦がれているってことよ」 視界の先には吹き荒れる波がある。ごうごう、と打ち寄せる波濤が、夜の海だというのに白く浮いて見える。 そして脳裏にはその先に迫る毛利水軍の布陣が浮かぶ。 「――笑えませんな」 「あん?」 「それはもはや」 脳内で敷き詰めた彼の布陣を思っていると、福留が再び溜息交じり、あきれ半分といった風情で腕を組んだ。それを振り返ってみる。彼は顎先に手を添えて、片方の唇を吊り上げて元親に進言してきた。 「狂気の沙汰」 とん、と自分の中に落ちてきた言葉に、元親は一瞬閉口した。確かにそうかもしれない。睦みあうだけの関係でも、親しくしている間柄でもなく――だがその間には同盟も持っているというのに、今更開戦する理由があるはずも無い。 友人と思っていても、情人と思っていても、たぶん彼は頷かない。 ――あいつとの関係に言葉は…形はいらない。 ただ惹かれあうだけだ。 戦場の、あの凛とした姿に。 腕を、すらり、と延べるだけで見事に布陣が生きてくる。そして彼自身が参戦した際の、見事なまでの太刀捌き――それを見るだけで心が躍る。 元親はその瞬間を思い描き、ふふふ、と身体を折り曲げて笑った。確かに狂気の沙汰だ、と口の中で繰り返すと、手にした自分の得物を地面に突き刺した。そして荒れ狂う空に向かって叫ぶ。 「いいじゃねぇか、俺を誰だと思ってやがる?」 「鬼、ですか」 「解ってるじゃねぇか」 ははは、と大声で空に笑い声を響かせる。元親の声に合わせるように波濤が響き渡る。福留が、やれやれ、と額と抑える。 元親はただ翌朝の開戦の様を瞼に浮かべるだけだった。 「口惜しや…この風が止み、細波となれば今頃四国は我のものとなっておったろうに…」 ぱし、と手にした采配を床に叩きつける。時期を見誤った訳でもない。十分に謀略してきた。それなのに、予想外の天候に足止めをくらった。 「天は我には味方せぬと申すか」 ぎり、と口の端を噛みしめた。ただの独り言だ――この強い風の中では誰も聞き及ぶものもいないだろう。明日の開戦を待ち、こうして布陣を敷き詰めている。だが、この嵐で先に進めるものも進めなくなった――再び知略を練らなくてはならない。 元就は手元にあった地図をじっと目を凝らして見つめる。 燭台の灯が、室内にいても時折ゆれていた。 「長曾我部は…今頃、血気に湧いているであろうに」 とんとん、と采配の先で四国を指し示す。脳裏にはあの銀髪の鬼が、楽しげに槍を振るい、暴れまわる姿が浮かぶ。彼の持つ重機で布陣を崩されるのは癪に障るが、あの攻撃があっても崩れない布陣が出来ればと勇み足にもなる。それを思うと、地図の上の開戦の場を想像して待ち遠しくてたまらない。 ――惜しいことを。 今頃、こんな嵐がなければ、あの鬼と刃を交えていただろう。自分の将としての才覚――知と武とを試せる瞬間だったはずだ。それを思うと口惜しく、また待ち遠しくてならない。 はあ、と溜息をつくと元就は脇息にもたれた。そして足を崩すと、その上に腕を乗せ、ゆったりと寛ぐ。 耳には波の打ち寄せる音が響き、ごうごう、としきりに耳鳴りのように響いてきていた。 「長曾我部、今、何を思うておるのか…」 元親との関係をどう示すかなど、自分の中ではおよそ重きを成していない――そう思っていた。 逢いたい、逢いたい――そう感じることが増えてきた。だがその逢いたいと願う瞬間はいつも、相対する時だ。戦場の彼の狂気が見たくて、そして自分を試したくて仕方がない。 ――我らはまこと、不敵な間柄だ。 時に元親は恋慕にも似たことを口にする。それを聞き流し、友情だと示されても、打ち流し、二人の間の関係を決めたことはない。 一国領主であるだけだ――それ以外にはいらない。 そう決めてきたのに、どうにも言葉では表せないものはある気がしてならない。 元就はそこまで考えると、ふる、と頭を振り、今の考えを打ち消した。そして再び采配を地図の上に置くと、ふむ、と唸ってみせる。 「さて、明日の暁には嵐は止むだろうか」 ごうごう、と外の嵐は酷くなっていく。だがあの海が晴れてくれることを、胸のうちで待ち望んでいった。 翌朝嵐が止み、波が穏やかになっていた。それを見計らうが直には開戦とはしない。波の上部が穏やかでも内部は荒れ狂っている――潮の動きを見ながら、戦場へと向かう。そして陽が中天に差し掛かる頃に開戦の鬨を上げた。 繰り返される戦場の空気。 陸地のみでは砂埃と硝煙の匂いで充満する場が、開戦ではすべてが潮の中に埋もれていく。 戦い合う時間はそんなに長くない――それなのに、今日ばかりは長引いていった。疲弊した兵達を介抱している家臣らを視界に納めたまま、元就と元親の戦いは終わらない。 ――ガキン…ッ 互いの得物が音を立ててぶつかり合う。腕を突っ張り、輪刀で防ぐが間合いに元親は入り込んでいて押し返すことが出来ない。 「勝負、つかねぇな」 「――…確かに。予測しておらなんだわ」 はあ、はあ、と互いの呼吸がいつもよりも荒かった。見てみれば二人とも血に塗れ、埃に塗れている。不意に元親が――槍に込める力を抜くこともせずに――上空に視線を走らせた。 「空、見てみろよ」 「――…?」 促されるように、兜の合間から空を仰ぐ。陽が落ちかけ、空は彩を見せていた。その中に、うっすらと星の瞬きが増えてきていた。 「天の河だ」 「夏の空だ。変わりなかろう」 これから夏宵の始まる時間だ。夜の帳が下り、漆黒の闇が訪れる時間――その中で星の瞬きと月明かりを頼りに進むだけだ。 ――さら、さらら。 潮風がやさしく二人の頬を撫でていく。長閑な光景とは裏腹に、二人は今にらみ合ったままだった。すると元親が、先程までの鬼気迫る容貌を崩し、幼い頃のようにふわりと微笑んだ。 「いやぁよ、俺気付いちまったわ」 「――七夕か」 二度と取り戻せない過去の光景が、瞼によみがえる。二人で笹の枝に願いを込めて飾りつけたのはいつの事だったか。 目の前の鬼は、柔らかな桃色の着物を着て、対する幼子は松重ねの着物を着ていた。 お互いに手を握り合って浜辺を歩いたのは、いつの事だったろう。元就が、ふ、と口元を綻ばせると、元親もやっと押し込んでいた武器から力を抜いた。 ――がしゃん。 槍が足元に落ちる。 「だから無粋はやめて」 迫る元親に、抗うことなく輪刀を足元に落とし、彼の伸びてきた手に瞼を閉じた。 触れ合った吐息に、腕を伸ばし、元就が元親の首に絡める。そうすると元親は心得ていたとばかりに、腰に、背に手を宛がい、強く引き寄せてきた。 「なぁ、元就…」 「なんだ、元親」 「勝負もつかねぇしよ…七夕だし……」 間近で困ったように元親がたどたどしく話す。もぞもぞとした話し方は、幼い頃と変わりが無い――ただその声が、潮に嗄れているのが心地よくなった。 元就は、ふん、と鼻先を上に向けて胸を張った。 「今宵に免じて、地に足を下ろし睦みあうか」 「だから、露骨なのは止めろって」 触れ合った口唇を離し、肩を組んで歩き出す。元就の言葉に、からから、と笑う元親は片手に二人分の武器を持って歩き出していった。 了 090714 七夕ネタでした。 |