花咲く道を君と歩こう



 その童に気付いたのは偶然だった。広い屋敷内で、とてとて、と歩いていると、庭の木々の中に桃色の着物が見えた。

「ひっく、うう…――ぅっく」

 しゃくり上げる声が聞こえる。声が聞こえた方へと足を向け、庭に降り立つ。ざり、と足元の玉砂利が音を立てると、桃色の着物が揺れた。

「――――…ッ」

 小さな塊――その背後に行くと童は振り返った。白い花に隠れて小さく蹲っていた。
 丸い大きな、葡萄のような瞳が濡れて此方を見上げてきてた。銀色の癖のある髪が揺れて、柔らかそうな印象を受けた。泣いていたせいで、頬も眦も、唇も赤い。

 ――とくん。

 童を見下ろした瞬間、見惚れて動けなくなった。小さな掌に涙の痕があった。

「――っく」

 しゃくり上げ、立ち上がった童は――立ち上がった瞬間に、ぽろん、と涙が一粒落ちた。同じくらいの目線。白い肌が、桃色の着物から覗いていた。

「んっ!」

 勢いよく手を差し出す。すると童は差し出された手を見て、そして此方を観て、小首を傾げた。だがゆるゆると手を差し出し、小さな手を絡めた。
 ぐいぐいと童を率いて部屋に向かう。これ以上、この童を泣かせたくなかった。

 ――我が居る。だから泣くな。

 童に背を向けて言い放つと、うん、とか細い声が響いていた。










「毎度あり〜」

 閉店間際の花屋で盛大な笑顔を晒して元親が花束を客に差し出す。受け取った客も釣られて微笑んでいた。その様子を遠巻きながら見ていた元就は、頭痛がするようだった。しかし用事があるのだから足を向けない訳にはいかない。

「あ、元就ッ!」
「貴様、その能天気な笑顔を押し売りするのは止めぬか」
「ええ?俺、いつもこんな顔だぜ?」

 周りに花を飛ばす勢いで元親が微笑む。笑うと瞳が細くなり、線のようになっていた。

「元就、今日はうちに来れる?」
「――問題ないが」
「じゃあ、少し待っててくれや。仕事あと少しで終わるからよ」

 ――はい、これはいつもの。

 云い様に元就の手に白い花が一輪手渡される。今日は白いバラだった。それを鼻先に向け、すう、と香りを吸い込む。すると仕事の疲れさえも掻き消えてしまうようだった。

「――?どうした、元親」
「いや…――あんたって、本当に綺麗だよな」

 花を手にした元就を見つめて、元親はごそごそと話す。そして中に入っていくと店員に声をかけていく。その度に「アニキ」と彼を呼ぶ声が響いていた。
 元就はバラを手に、辺りを見回す。調度椅子があったので其処に座ると、元親の働き振りを黙ってみていた。
 外に出していた花を軽々と持ち上げ、中に入れていく。それと同時に店員が花のチェックを繰り返していく。ふいに元親が元就の傍のバケツを取りに来た。

 ――ぽん。

 くしゃくしゃ、と元就の頭をついでとばかりに撫でていく。

「元親、我は犬猫ではないぞ」
「うん。大人しく待っててくれや」
「――我を何と心得る…」

 軽く言い放つ元親に、眉根を寄せて不機嫌を訴えるが効いていない。元親はふんふんと鼻歌を歌っていく。そうして元親が通りかかるたび、元就の手元にペットボトルのお茶や菓子などが放り込まれていく。

 ――暇つぶしにでもしろと?

 無言でそれらを受け取り、蓋を開けると咽喉に茶をごくごくと流し込んで、渡された菓子を無言で口に運んでいく。

 ――昔は手を引いてやったというのに。

 小さな手を重ねて、絡めて、手を引いて歩いた。それを頬杖をしながら思い出してしまう。あの頼りなく微笑んでいた童が、今眼の前にいる大男とは到底想像できない。

 ――可憐な、花のような幼子だったものを。

 昔の印象が強すぎる訳ではなく、今とのギャップが激しいだけだ。記憶に残る元親の手は、白く頼りなかった。だが今はどうだろう――腕まくりをしている彼の腕には、しっかりとした筋肉が付いていて、触れると弾力がある。色は未だに白いが、それは元々の色素が薄いからだろう。
 元就は此処に通ってきていた日々を思い出していた。
 家出同然で、就職と共に出てきた。仕事は体力よりも頭脳勝負なので自分には向いていた。家でずっと花だけを見つめて生きていくのは性にあわない。だが出てきてみれば、あんなに回りにあった花たちが、何処にもなくて辛くなってきた。
 ふらりと寄った駅近くの花屋で、彼を見つけたとき、どうしようもなく胸が躍った。
 観たことのある容貌――夢にまでみた幼い日々、それなのに彼は成長して、本人であると確認することは出来なかった。
 だが時々、彼の友人と思しき大男が来て、彼と話している話を耳にすれば、あの時の童であるとしか考えられなかった。

 ――元親。長曾我部元親だ。

 彼の名前を思いだして、何度も涙が出そうになった。そんな自分を抑える為に、いつも仏頂面でこの店先に来ていた。

 ――気付いてくれ、元親。気付け。

 何度もそう思ってきたのに、彼は一向に気付いてくれなかった。あんなに大切にしていた――いや、元々白い花が好きだったのは元親だった――白い花を頼み続けても、彼はなかなか気付かなかった。

 ――随分、我は待ったというのに。

 ひとたび想いが通じてしまえば、彼の自分に向ける好意は深い。その深さが時々怖くなる時もある。

 ――また、いなくなったら…

 こくん、と茶を咽喉に流しながら考え込んでしまう。だがそんな思考も、頭上から降ってきた影に遮られた。

「お待たせ、帰ろっか?」
「うむ」

 指先に車のキーを引っ掛け、くるくると回す元親は満面の笑顔だ。この所、彼の笑顔しか見ていない気がしてしまう。
 車に乗り込むと元親は直に眼帯を取り外し、眼鏡をかける。
 その様子にいちいち胸が高鳴るのは、見慣れないせいだと、自分に言い訳する。

「途中で買い物していくからな」
「――カレーが食べたい」
「はいはい。酒入れすぎるなよな」

 走り出した車の中で、一日の出来事などを話していると、先程の不安が嘘のように掻き消えていった。










 シーフードカレーを鍋一杯に作ったというのに、気付けば二人ですべて食べきってしまっていた。食後にと用意していたフルーツゼリーにスプーンを入れながら、元親が話を振ってきた。

「あのさぁ、元就って今一人暮らしだろ?」
「ああ……それがどうかしたか?」

 ぱく、と葡萄の入っているゼリーを口に入れながら、次は八朔にしよう、と決めながら食に集中する。目の前の元親もまたゼリーに向き合って、ばくばく、と食べていた。

「此処で一緒に住まねぇか?」

 ぽん、と云われた言葉を理解するのに、ゆうに三十秒は止まっていた。元就が顔を上げて確認する。

「――…は?」
「うち、部屋余ってるしよ。お前も出勤するのに、こっちの方が近いんだろ?」

 ――それに今、週の半分は俺んちに来てるし。

 顔を起こしてみれば、元親は頬杖をついて、スプーンを此方に向けていた。勿論、笑顔のままでだ。状況が飲み込めずに元就は焦って、言葉がうまく出てこなくなった。

「し…しかし、いや、待て。そもそも、元親、この家は…――」
「俺ん家」
「だから…――」
「俺が買ったの。勿論、ローンも無ぇよ」

 ――現生で、ぽんと買ったんだぜ?

 あの時の不動産屋の顔が面白かった、とからからと笑いながら元親が話すが、元就は頭が痛くなりそうだった。確かにこの二階建ての家は元親一人では広すぎるだろう。
 からん、とスプーンを置いて元親が手を伸ばしてくる。

「な?甲斐性ならあるぜ?」

 ――だから一緒に住もう?

 元就が思考停止に近い状態で呆けていても、元親は構わず手を伸ばしてきて、元就の頬に触れる。そして元就の傍に来て、額に、頬にとキスをしていく。

「おい、どさくさに紛れて何をしている」
「んー?何って…」

 ハッと気付いて元親を押しのけようとする。しかし時は既に遅い――ぐ、と強く肩を押され、床に背中が当たる。元就は横を向いて眉を潜めた。

「そんな気分じゃない」
「何だよ…――釣れないなぁ」

 元親はつまらなそうに口を尖らせる。しかしそのまま元就の首筋に吸い付き、強く掻き抱いていく。

「ん…――っ、だから、やめろ…と」
「聞かねぇよ」

 首筋から、つつ、と舌先を滑らせて元就が胸に吸い付く。片方の乳首に舌先を触れさせると、そのまま強く唇で挟み込んで吸い上げていく。ちゅ、ちゅ、と何度も吸い上げては、舌先で捏ねて行く。

「ぅあ、あ……――」
「ちゃんと声、聞かせろよ」
「――…や、あ、……――ぁん」

 耳に囁きかけながら、元親の手が下肢へと伸びて行く。
 元親の手に翻弄されていくのが癪に障るが、彼の手管で身体の力が抜けてしまう。せめてもの抵抗とばかりに、足の間に身体を滑らせてきた元親の横っ腹を、思い切り膝で打ち付けてやった。










 一緒に住もうと云われた。
 それから一週間、そんな事を言ったことも嘘のように、その話題が消えていた。いつものように日々を過ごし、元就もまた変わることなく花を買いに行く。

「元就、はいこれ」
「――なんだ、これは」

 閉店間際の店先で、こんもりとした――だが片手で持てるくらいの小さな、白い花々が目に入る。真ん中には元親の庭に咲いている梔子が一輪、そして回りに白いトルコキキョウとカスミソウ、その周りを蒼葉で飾っている。ご丁寧に周りを包むセロファンもリボンもすべて白かった。

「何って、ホワイトブーケ」

 元親は可愛いつもりなのか――いや、実際元就の眼に愛らしく見えてしまったから重症かもしれないが――小首を傾げて微笑む。
 元就はそのホワイトブーケを観て、眉根を顰める。

「我は頼んでいないぞ」
「あー…ええと、な。受け取って欲しいんだけど」

 途端に元親が慌てて口ごもる。眼に見えて焦っているのが解ってしまい、未熟な、と胸内で毒づく。しかし口に出していない分、彼には聞かれていはいない。
 じろり、と睨み上げて元就が聞く。

「――…何かあるのか」
「一緒に住もうぜ?」

 こくん、と再び先程とは逆に小首を傾げて、元親が取り繕う。その姿に、はあああ、と深い溜息を付いた。

「またその話か。で、これと何の関係がある?」
「プロポーズ?」

 元親は、かくん、と反対側に今度は小首を傾げる。

「ふざけるなッ!」
 ――ばしッ

 思い切り裏手でブーケを振り払った。するとブーケは宙に舞っていく――それを店員が飛び込んでキャッチしていた。それに対して元親は「いいぞ、お前ら」と声をかけると、彼らは「アニキーッ!」と勝ち誇ったように腕を振り上げ、ホワイトブーケを作業台に戻していく。それを見送ってから、元親は再び元就に向き合う。

「やっぱり駄目?」
「き、貴様、何を考えているのだッ!」

 ふるふる、と怒りに身体を震わせて元就が怒鳴る。激昂する元就とは裏腹に、元親は至って冷静なままで、ひょうひょうと応える。

「だってさぁ、俺達良い感じじゃねぇか?いっそ、一緒に暮らしてさぁ…」
「帰るッ」

 くる、と踵を返して背中を見せると、直ぐに元親の手が伸びてきて手首を掴んだ。

「どこに?」
「我の家だッ!」

 振りほどこうとして振り返る。すると真剣な眼差しの元親が、両肩をぐっと掴んできた。

「送ってくって。待てって」

 ――ばしっ。

 思い切り身体を捩って元親の手を振りほどく。そして元就は再び踵を返して進み出る。それでも背後に直ぐに元親が追いかけてきた。

「ええい、追ってくるな、この虚けッ」
「元就ぃ、待てってば」
「死ねッ、莫迦者ッ」
「元就ッ!」

 くる、と身体を反転させて正面から彼に叫ぶと、元親は勢いよく元就の身体を引き寄せ、有無を言わせずに自分の胸の中に閉じ込めていく。

「――…ッ」

 鼻先に梔子の甘い香りがする。元就は元親の身体から匂った甘い香りに、ぐ、と咽喉を詰まらせて、彼に抱きしめられていった。










 いつものように助手席で元就は窓の外を見つめていた。対向車線のライトが明るい。

「元就、俺、ふざけてないからな」
「――……知らぬ」

 運転しながら、元親が静かに話す。車の中には音楽も何も流れていなく、ただ二人の声だけが響く。

「一緒に住んでさ、離れてた分も、これからもずっと一緒に居たいんだ」
「――…」

 元就はちらりと元親のほうへと視線だけ流した。彼は眼鏡をかけたまま、前を見据えていた。そして信号が変わり、車が止まると元就の方へと顔を向ける。

「だから、受けてくれよ」
「貴様、その前に我に言うことがあるだろう?」
「――あ、まさか」

 ふん、と窓のほうへと顔を向け、元就が言い放つ。信号が変わって、次の角を曲がると直ぐに元親の家だ。

「順序を間違えるな、馬鹿者」
「ははは、お前らしい」

 ハンドルを動かしながら、元親が咽喉の奥で、くつくつ、と笑う。その間ずっと元就は窓に肘を乗せて外を見つめていた。

 ――キッ。

 見知った光景を眼に収めていると、不意に元親が車を止めた。そして、名前を呼んでくる。呼びかけに応えて元親の方を振り向くと、彼はゆっくりと元就の手をとって、手の甲にキスした。
 手の甲に触れた唇が、かさり、と乾いている。それなのに元親の手は冷たくなっていた。

「愛してる、元就」

 彼の緊張が見えた気がした。今キスした手を、元親は強く握りこんできた。そして身を乗り出してくる。

「だから、俺のものになって」

 真剣な元親の顔が、泣いていた幼い頃と重なる。あの時も葡萄のような綺麗な群青色の瞳で此方を見ていた。
 元就は掴まれている手を動かし、指を絡める。それだけで元親の手が、熱くなって来た。

「間違えるな」
「え?」

 聞き返した元親に、かちん、とシートベルトを外して身体を寄せる。そして元就は手を伸ばして彼の唇に自身の唇を押し付けた。
 元就からのキスに驚いたのか、元親が瞳を見開いて、咽喉をこくりと鳴らす。

「我が貴様のものになるのではない。貴様が我のものなのだ」
 ――解ったか。

 ふん、と胸を張って元就が告げると、徐々に元親は肩を震わせて笑い出した。そして左目を掌で覆う。その間から、涙が一筋流れていた。

「適わねぇよ」

 ――帰ったら、梔子の花でブーケを作ろう。

 そう云いながら、嬉しそうに手を絡める。家までの距離がもどかしくてならない。元就がついでとばかりに、家に着いたら抱きしめろ、と言うと、元親は嬉しそうに笑っていった。













090720 花屋アニキ、落ち着きました。