人魚の涙





 初めて訪れた地で、ずっと邸の中に居ては息が詰まると飛び出した。今頃家臣たちは慌てふためいていることだろう。しかしそれよりも外への好奇心の方が勝っていた。
 邸を抜け出して岩場に辿りつくと、目の前に小さな影があった。体中濡れて、今将に海から出てきたと言わんばかりの姿だった。

 ただ、その髪が。
 その髪が長く濡れて、灰色の光を弾いていた。

「誰…――」

 声をかけてきたその人影に、思わず岩場に隠れた。

 ――じゃぶ、

 応えずにいると水の音が迫ってくる。そして、ふ、と頭上から影が降りてきた。見上げると其処には、随分と綺麗な顔の幼子が居た。

「誰…?」
「あ、わ、我は…――」
「私は、弥三郎、と云う。お前は?」
「…松寿丸」

 見上げている合間にも、ほたり、ほたり、と雫が落ちてくる。岩場からこっそりと身体を現し、濡れた彼に向き合う。

 ――なんて綺麗な。

 瞳が碧色を弾く。紺碧の海と同じ色をしていた。その瞳と、濡れていても解る銀色の髪に、そろそろと手を伸ばした。それを動かずに彼は見つめていた。

「御主は…弥三郎は、人魚か…?」
「人魚なら良かった」
「綺麗だ…我はこんなにも綺麗なものを見たことが無い」

 きらきらと光る銀色、そして紺碧色。肌は肌理の細かい真珠のようだった。あらゆる賛辞を述べてももの足りないほどの美しさが――幼い身体に似合わずに共存していた。

「人魚でなければ、何故濡れている」
「海を」
「海…?」
「海を渡りたくて」

 言葉は切れ切れで、どうにも会話が上手く出来ない――そんな気がした。いや、彼が人になれていないからだろうか。

「此処にいろ」
「え…?」
「我が、何時までも愛でてやる」

 ――だから、此処に。

 手放すことは出来ない。伸ばした手に触れた冷たい彼の肌に、その手首を強く掴んだ。
 自分でも何を言い出したのか――衝動に任せた言葉は、単純でどうしようもなかった。だが、弥三郎は泣き出しそうに微笑むと、少しだけ身を屈めた。

「嬉しい」
「弥三郎…――」

 ――ほた。

 彼の紺碧の瞳から、小さな雫が落ちた。それを受け止めるように腕を伸ばして引き寄せていった。










「昔の夢を見た」

 まだ夜も明けぬ深夜に、褥の中で身体の向きを変えると隣から、ごそ、と動く気配がする。

「何を見たって?」
「貴様に出会った頃の夢だ」
「ふぅん…?」

 身体の向きを変え、うつぶせたままの元就の肩を引き寄せる。そして彼は、よいしょ、と声を掛けると腕を差し出してきた。
 されるままに彼の腕に頭を乗せる。

「お前も大概夢見がちだよな」
「何を言うか」
「だって、それ…俺がさ…――」

 素肌の腕に元就の頭を乗せ、自身は仰向けになる。そして鼻の頭を掻きながら元親は口篭った。歯切れの悪い元親とは逆に、元就は構わず言った。

「人魚かと思ったのだ」
「――…」
「あまりにも美しくて」
「俺にはお前の方が綺麗に見えたけどな」

 ごそ、と足を動かして、元就が乗り上げてくる。それを見上げながら、あの時のように泣け、とわがままを言うと、元親は「勘弁して」と苦笑した。










20090602/090614