ラプンツェル・脱走





 ――この鳥篭の中だけが私の生きる場所だから。

 事実を述べただけだった。それを聞いて目の前の幼子は、フン、と鼻を鳴らした。まだ幼いというのに、その仕草には貫禄があり、鼻で笑われたのが何処までも嘲られていると感じるほどだった。

 ――自ら籠の鳥となってなんとする。生を怠慢するな。

 ぴしゃりと言われ、反論できなかった。
 だが実際に自らが動けるのはこの邸の中だけだった。
 銀色の髪を長く伸ばし、下女達と話に興じる――周りには女達しかいなかったからだ。
 この手に武具を持つことを夢見てはいけないのだと思っていた。

 ――戦は厭なもの。

 口を尖らせると、目の前の幼子は背伸びをして、そして思い切り胸を一突きした。

 ――どん。

 ぎりぎりと睨みあげてくる瞳は強い。反撃も反論も出来ない。だが圧倒された。そしてもう一度強く、どん、と突かれて尻餅をつく。いきなり何をするのかと睨みつけると満、足したかのように見下ろしながら彼はいった。

 ――悔しかろう。悔しいと思うのなら、我を倒しにまいれ。
 ――……――ッ。

 そして彼はそのまま邸を出ていってしまった。彼がどうして此処にきたのかは解らない。
 たぶん家同士の何かが起こっていたに違いない。だがその理由は自分には知らされていなかった。
 でも、あの瞳が、あの言葉が、耳から離れなかった。
 彼は何度と無く邸を訪れ、何をするでもなく二人で時間を過ごした。










 数日して彼が帰ってしまったと聞いた。
 居ても立っても居られなかった。聞いたままに駆け出し、家臣や下女が止めるのも聞かずに邸を飛び出した。

 走って、走って、走り続けた。

 着物の裾が足に絡みつき、何度よろめいたかわからない。
 足が縺れる。砂に囚われる。
 走った先には砂浜があった。その先には黒い海が、その波を鱗のようにさざめかせていた。

 ――ばしゃんッ。

 はあはあと切れる息もそのままに、ざぶざぶと中に入る。
 だが泳ぎも中々上手く出来ない。
 腰の辺りにまで迫った海水を感じ、その場に立ち尽くした。

 ――ざぶざぶ。

 海水は足に縺れる。どんどん沈み行くようで、視界の先には暗い海しかない。

 ――何やっているんだろう。

 濡れた身体からは潮の香りしかない。

「はて、そこの御仁。入水でございますか」
「――――…」

 砂浜から声を掛けられ、ゆっくりと振り返った。それと同時に背に流れる髪が、銀色の波紋を作っていた。

「いや…泳ごうかと」
「泳ぎには早ようございます。御身、大事に」
「主には関係なかろう」
「ございます」

 ざ、と砂浜から声をかけてきた青年――いや、まだ少年の気が抜けてはいない――が、波打ち際に歩みを寄せる。

「私はここの神官でございますれば」
「死なぬから…気にするな」
「いいえ、弥三郎様」
「――…俺を知っているのか」
「予想したまで」

 さあ、と彼は手を差し伸べてくる。逡巡してから、踵を返して波の合間を歩んだ。徐々に海から抜けると足が重く感じられた。

「この海を渡るのは、もう少し先に」
「会いたいひとがいるのだ」
「会いにいきましょうぞ、でもそれは今ではございません」
「――逢いたいよ、松寿丸」

 わっと押し寄せる感情に任せて両手で顔を覆った。すると彼は目の前に膝をつき、頭を垂れた。

「機が熟すまでお待ちくだされ」
「逢いたい、逢いたい……」

 熱に浮かされたように繰り返す。それでも彼は頭を垂れたままだった。
 それに合わせて、ぽたぽた、と髪から雫が垂れていった。
 雫が垂れる髪の端を、さらりと掬い取って、彼はそこに口付けた。そして見上げてくると「今は耐えてください」と告げた。

「何時になれば…」
「貴方様が強くなれば」
「それは何時」
「貴方様次第。私はその時にお供いたしましょう」

 小気味良く返される返答に、しゃくりあげそうになっていた咽喉は落ち着き、涙も乾いていった。
 すん、と鼻を鳴らしながらも、濡れたままで彼に手を差し伸べる。

「お前、名前は」
「谷、と申します」

 そうか、と告げ、彼に誘われて邸へと戻っていった。砂浜を抜ける瞬間、背後を振り返るとそこには黒い海しかなかった。

 ――籠から飛びたって、いつか行くから。

 呼ばれるままに、歩を進める。
 それは決意の夜だった。











090522/090601 時代考察とか一切無視。