深海色の空





 もう戻れないと気付いたのは、彼の熱い手がこの肌に触れた瞬間だった。

「一度だけだ。一度だけ…俺を抱かせてやる」

 跪く彼の前で帯を振り解いて、肌を顕にした。これは小さな賭けでしかない。もし彼がいつものように受け流してしまうのなら、こんな茶番は嗤って誤魔化すつもりだった。
 だが、見上げてくる小十郎の顔が――表情を無くし、咽喉がこくりと上下に揺れた。
 見たことのない真剣な彼の、枯渇していた欲望を見せつけられた気がした。
 伸びてくる腕が、静かに腰に触れて――そしてぐっと引き寄せられた。膝立ちになった彼が自分の腹の辺りに顔を埋めて、腕に力をこめていく。
 触れてきた吐息が熱い。触れる彼の頬が熱い。小十郎の全てが熱くて叶わない。

 ――俺が雪だったら、融けてしまうかも。

 春まだ浅いこの奥州の地で、残雪は至る所に見ることが出来る。春の陽気に当てられて、徐々に解けていくような、そんな暖かさが小十郎から伝わってきていた。

「政宗、様」
「いいぜ、お前の好きにしてくれ」
「政宗様…――」
「お前、俺の名前しか呼べなくなったのかよ?」

 ふふ、と口の中で笑う。そうでもしないと泣いてしまいそうだった。伸びてきた小十郎の手を、どんなに求めていたか――それを突きつけられる気がした。
 とくとく、と早くなる鼓動を感じながら、政宗は小十郎の髪に指先を滑り込ませた。

 ――嫁を貰うこいつに、俺は引導を渡す。

 自分への未練を断ち切らせるつもりだった。だが其れは政宗自身の未練を断ち切る意味合いの方が強かったような気がする。だがこれが過ちになるとは思ってもいなかった。

 ――贅沢は言わねぇ、一度で良いから。

 たった一度でいい。
 それ以外望まない。
 今まで通りの、主と臣下として過ごしていくのに――それ以上を求めたりしない。その為の、自らへの最後通達だった。
 引き寄せられて塞がれた唇が熱かった。この瞬間で全てを崩してしまう予感もあった。もう二度と、元の何も知らなかった関係には戻れないかもしれない。だが、それよりも何よりも、強くこの胸を締め付ける思いを断ち切りたかった。

 ――溺れられれば。

 降り注いでくるのは、壊れ物でも扱うような優しい腕だ。

「政宗様…――政宗、さま…」

 しきりに名前を呼び続ける彼を見上げ、滴る汗を指先で拭った。途切れる息も、揺り動かされる振動も、熱く穿たれる度に跳ねる身体も、全て忘れたくなかった。

 ――この腕が次に抱くのは、俺じゃない。

 それが切なくて堪らなかった。こんな風に優しく触れてくる手が、自分を求めることは決してない。政宗自身で線引きをして「一度だけ」と小十郎に突きつけた。

 ――ぱた。

 静かに落ちてきた滴を指で拭って、口元に向ける。政宗は仰向けになりながら、手首を小十郎に縫い付けられるようにして押さえられていた。
 視線を外すことは出来ない。瞳を上げて眼に入るのは、小十郎の顔――その存在だけだ。

「泣くなよ…――良い男が、台無しだぜ?」
「政宗様、私は…――貴方様を」
「Stop!」

 先を続けそうになった小十郎を遮る。すると、ぽたり、と再び彼の目元から涙が零れてきた。滴が肌に触れて――そのままこの身に染み込めば良いのに。

「それ以上を言うな、小十郎…」
「ですが、小十郎は」
「言っちゃ、駄目だ」

 は、は、と熱に浮かされるかのように細かい息を吐き出す。身体に感じるのは彼の熱だけだ。それだけでいい――それを覚えて居られたらもう、どうでもいい。

「お前は幸せになれ」

 口からついて出た言葉に、小十郎が俯く。それと同時に政宗の左目が洪水を起したかのように涙を溢れさせた。
 家の為、自分の置かれている状況、そして彼の存在――それを思えばこそ、自分達は情を交わしてはいけない。

 ――俺は、小十郎を独り占めしたい。

 だがそれは叶わない願いだ。この先を考えて行くならば、赦される事ではない。子孫を残し、家を継がせなくてはならない。自分達の代で、家を途切れさせる訳にはいかない。

「小十郎、お前は…幸せになれ」

 ――俺が居なくても。

 涙は止め処なく流れて伝い落ちていく。そんな自分を見下ろしながら、小十郎が痛みを耐えるように眉根を寄せていく。

「――なんと、酷いお方だ」

 震える声で小十郎は呟き、そして強く身体を抱き締めていく。政宗は息もつけぬ荒波に揉まれていくだけだった。













100119/100404 up