深海色の空 触れる。離れる。 触れる。離れる。 ――触れて欲しいのに。 彼が近づくたびに泣きたくなる程に、彼が欲しくてならなかった。 それを繰り返しながら、じっとしていると、目の前で小十郎が手の平に唇を近づけて、ぢゅう、と強く吸い上げてきた。 「…ッぐ」 「暫し、ご辛抱くだされ」 勢い良く吐き出される小十郎の口からは、政宗の血液と――毒がある。本来ならば、簡単に口をつけてしまったら、彼のほうも危うくなる事だってある。 だが、小十郎は自分の損害を省みず、政宗の毒を吸い上げていく。 ――迂闊だった。 そうとしか云えない。 まさか、間者の放った短刀に毒が塗り込められているなんて思ってもいなかった。問い詰めて、目の前で自害した間者が、政宗を傷つけた短刀で自害した。 それはただ刃による死に方ではなく、明らかに毒によるものだった。 「傷みますか、政宗様」 「いや…なんとか、大丈夫だ。それより、お前…」 「私は平気です」 にこ、と笑う口元は、政宗の血液で茶色く汚れていた。政宗は小十郎に手を伸ばすと、其処に触れようとした。 「駄目ですよ、まだ」 「――――…ッ」 ぐ、と動きを止めると、小十郎は持っていた酒で口を濯ぐ。そして横においてあった――勿論、政宗の血に染まっている水だが――水で頬をぬぐい、手ぬぐいで清めていく。 一連の動作を見つめているだけでは、胸がじわじわと焼け付いてくるようだった。 自分の血で汚れた彼の肌、吸い上げられた時の、唇の感触。 それが、現実感を持って目の前に突きつけられる。 「小十郎…」 「はい?」 「小十郎、小十郎…こじゅ…」 彼の名を呼ぶしか出来ない。傷の痛みなんて感じない。口に、彼の名前を呼ぶだけで、じわりと涙が浮かんできた。 ――愛しい、愛しい、愛しい。 そう告げて止まないこの胸を、どうにかして彼と分かち合ってしまいたい。それなのに、目の前の男はそれを良しとしない。 ――俺は、こいつと溺れてしまいたいのに。 後先を考えずに、ただ溺れるだけ溺れてしまいたい。それくらいに彼を感じたいのに、小十郎は頑なだ。 「――政宗様」 ぴし、と場を凍らせるだけの冷酷な響きを持って、小十郎が名を告げてくる。その声に顔を上げると、至極真面目な表情の彼が其処に居た。 「ご容態にかかわります。安静にされておいて下さい」 「――あ…」 「俺の…私の事はお気になさらず」 微笑まれる。 そして触れていた手が離れる。 ――行くな、行くな。 どんな状況でもいい。彼に触れていて欲しい。それなのに、用事が済んだとばかりに小十郎の手は、政宗からひらりと離れてしまう。 手に巻きつけられた包帯が、白く、視界に映りこむだけだ。 「――――…」 ぎゅ、と強く包帯の上から自分の手を握りこむ。すると、ぱし、と小十郎が手をとってきた。 「傷が開きます。あまり強くされずに」 「お前が触れてくれるなら、傷なんて…開いたままでいい」 「ご容赦くださいませ」 「小十郎…――」 ふ、と手から力を抜くと、ほっと安心したかのように小十郎は肩を下ろした。それでも俯いている政宗に、頭上から冷たい言葉をかけてくる。 「熱を冷ますなら、誰か呼んで参りましょうか」 「――――ッ!」 ぐわ、と胸の裡から怒りが込み上げる。カッとなりながら、政宗は側にあった桶を掴んでいた。 ――ばしゃッ。 茶色く、政宗の血に汚れていた桶の水が、頭から小十郎に降りかかる。 「手前ぇ…――ッ、よくも、そんな…」 「――――…」 「俺の…俺の気持ち、知ってるくせにッ」 ぎりぎり、と歯噛みすると、水で乱れた髪を掻きあげて、小十郎が睨みつけてきた。彼に鋭い視線を向けられる事等、滅多にないことだ。 「ですが、私にはどうにも出来ませぬ」 「察しろよッ!」 「否ッ」 ぴしゃ、と小十郎が声を荒げる。だがそれに怯んでいる自分でもない。 「小十郎ッ!」 懇願するように腕を伸ばして彼の胸倉を掴み上げた。すると、小十郎は瞳をそらして、ぐ、と唇を噛み締めてから、声を絞り出してきた。 「貴方様こそ、察してくだされ…ッ」 途端に政宗の手から力が抜けた。 じわり、と傷から血が滲んできて、どくどく、と痛みを伝えてくる。掴み上げた小十郎の胸元は政宗の血で汚れてしまっていた。 だが小十郎は静かに、ただ苦虫を潰したかのように、言葉を搾り出していく。 「この小十郎が、どれ程、身を裂かれる思いをしているか…察してくだされ」 「――ふざけんな」 ぎり、と歯噛みする音が大きい。政宗がその場に立ち上がって小十郎を見下ろすと、真っ直ぐな視線が見上げてきた。 小十郎の視線には、決意こそあれ、動揺は何もなかった。 「線を引いたのは、政宗様ですぞ」 「あ……――」 「あれは、無かったこと、です」 たった一度だけの過ち――身を許した瞬間、止めて置けば良かったと思った。嫁を貰う彼に――彼の全てを攫っておきたくて、赦したあの時。 それが今になってこの身を灼き尽くしてくる。 あの甘い瞬間はもう戻らない――たった一度でいいと、後は全て忘れるのだと、そう言い聞かせて触れたあの瞬間が、恋しくてならない。 「――っかやろう…」 政宗は何も居えずに踵を返すと、その場から逃げるようにして飛び出していった。 100102 up |