禊を終えて、新しい着物に袖を通してから、小十郎は静かに邸を後にした。踏みしめる道々には既に雪が敷き詰められ、踏みしめる度に、ぎゅ、ぎゅ、と音を立てていく。
 然程離れているとは言いがたい邸の門前に立つと、勝手知ったるといった風情で中に入り込み、静かに雪駄を脱いだ。肩に降りかかった雪を払いながら、中に足を踏み込んでいく。
 邸の中はいつも以上に人の気配がしているようだった。
 それもその筈で、新春の挨拶に趣く者達が、廊下を行ったり来たりしていた。

「Hey,お前も新春の挨拶か?」
「――政宗様…」

 回廊を歩いていく途中で、声を掛けられた。今、挨拶に向おうとしていた相手が、こんな処で油を売っているとは思ってもいなかった。

「こんな処でさぼっておいでですか?」
「まぁな…かったるいぜ。朝からひっきり無しに挨拶だぜ?皆、口をそろえて同じ事ばかり言いやがる」
「それが慣わしですし、貴方様を皆慕っておいでだ」
「――…Um…それは、解ってる」

 廊下の横の部屋に――障子の中に隠れながら、政宗が小十郎を手招きする。招かれるままに小十郎は廊下から横の部屋に入り込んだ。

 ――たん。

 背後で障子の閉まる音がする。それと同時に、ばたばた、と家人が通り過ぎる音が響いた。その気配の先を見送ったまま、小十郎は自分の胸に飛び込んできている政宗の肩に、そっと手を触れさせた。

「お前、遅ぇよ」
「これでも早いほうだと思いますけど」

 しがみ付く政宗を引き剥がそうとするが、彼は力いっぱいしがみ付いて離れない。それどころか、胸元に頬を摺り寄せてくる。

「俺は新年早々に観るのは、お前の顔が良かった」

 ――皺ちゃくれた爺じゃなくてさ。

 機嫌が悪いのは解っていた。
 だが、唇を尖らせて告げてくる彼からは、どこか幼ささえ感じられる。

「どうせなら…あのまま夜を明かしたかったな」
「お戯れを」
「だってよぅ…」

 数刻前に別れた時の熱を思い出させられそうになって、小十郎は困ったように眉を下げてみせた。だがそんな作り笑いのような擬態は政宗には通じない。
 一年を振り返りながら、ただ指先で熱を持て余したのを、思い出させられてしまう。引き寄せて、抱き締めて、互いの熱を感じていたのに、今はそれが無かったことのように感じられてしまう。だから政宗はそれを確かめようと、こうして身を寄せてくるのかもしれない。

「小十郎…――」

 政宗は両手で小十郎の頬を包むと顔を引き寄せてくる――それを寸前で、ふい、と振り払い、彼を窘める。

「大晦日も、今日も、三が日過ぎるまでは人の出入りの激しい時期でございますよ?」
「だったら俺が行く」

 ――お前のところに、俺が行く。

 立ったままの足の間に、業と政宗は足を差し込んできては誘ってくる。小十郎の腰に手を回してぐっと引き寄せると、ふ、と息を吐きながら胸元に顔を埋めてくる。

「冗談はお止めください。大事になります」
「今はどうだよ?俺が居なくても騒がれてないぜ?」

 確信犯的な笑みを浮かべながら、政宗は小十郎の胸元にしがみ付いて離れない。

 ――梵天丸さまに戻ったみたいな。

 はあ、と溜息しか出てこない。これでは子どもの駄々と変わらないではないか。それが下手に成長している分、性質が悪い。

「ならば、笛は如何ですか?」
「Ah?」
「笛を、貴方様に捧げましょう」

 肩に手を当てて顔を起こさせると、ふと政宗が瞳を見開いた。最近では政宗の前で奏でることは珍しくなってしまったが、以前はよく彼の為に笛を奏でた。
 久々だということから、好奇心がむくりと頭を擡げてきたらしい――彼は、口元に手を宛がって、考え込む素振りを見せてきた。

「小十郎の、笛か…」
「暫し、穏やかになれましょう?」
「俺の熱はそんなんじゃ冷めないぜ?」

 ――その手に乗るか。

 はは、と歯を見せながら伸び上がってくる政宗は、それでもじゃれつく猫のようにしつこい。小十郎はされるままになりながらも――首筋に鼻先を埋めた政宗が「お前、香焚かなかったな」と笑うのを聞きながら、反撃とばかりに彼の背を抱き締めた。

「わ…っ、おい、小十…」
「舞って下さい、政宗様」

 咄嗟の事に驚いた彼の耳元に唇を近づけて、低く囁いた。すると、びく、と政宗の身体が揺れた。

「――…ッ、お前が言うと、何だかいやらしいな」
「私の笛で、舞って下さい」

 畳み掛けるように彼の耳元に唇を近づける。低く囁くと、びくん、と背を丸めて政宗は瞼をきゅっと閉じた。

 ――Shit!

 吐き捨てる政宗が、ばっと身体を引き剥がして障子に手をかける。ぱしん、と勢い良く開け放たれた障子に、朝の光が差し込んできて眩しい。

「OK,其れまでずっと此処に居ろよ」
「畏まってございます」

 眩しい朝日を浴びながら告げてくる政宗に、静かに低頭すると、彼は足音も荒々しく応接室へと向っていった。










 夕刻まで謁見が続いていた政宗だが、早々にそれらを切り上げると、約束通りに小十郎を伴って別室に引き篭った。

 ――約束覚えてるだろ?

 そう云った彼に、にこり、とだけ笑いかけてから笛を口元に引き寄せる。慣れた――馴染んだ感触に、気持ちが穏やかになる。だがそれも、目の前で政宗が舞い始めるまでだった。
 ひらり、と舞ってみせる政宗は、時に流麗に、時に激しく、静かに小十郎を射抜いていく。動きに合わせて彼からどんどん視線を外せなくなっていった。

 ――しん。

 最後の音を奏で終わり、口元から笛を外す。

「お見事でございます」
「はッ…お前…――鬼かッ」

 ぜえぜえ、と息を切らして政宗が膝に手を当てる。屈んだ拍子に、ぽとん、と扇が彼の懐から落ちた。

「何の事ですか?」
「三曲も続けてやるんじゃねぇよッ!疲れるだろう?」

 だんだん、と足で地団駄を踏んで、政宗は怒り心頭だ。だがその弾けっぷりを観て、小十郎は静かに笛を膝の上に下ろしながら、微笑んだ。

「ですが、政宗様の舞は流麗ゆえに、見惚れてしまいます」
「――煽てたって何にも出ないぞ」

 はー、と長い呼吸を繰り返して、政宗がその場に座り込む。観れは、外は雪が降っているというのに、彼の肌の上には玉のような汗が浮かんでいた。
 舞うことは、政宗が好きなこと――そして奏でるのは自分の役目、そう決めてきた。だが今、彼の前で笛を吹くと苦笑するしかなくなってくる。
 昔は彼の子守唄にしかならなかった笛が、今では饒舌に語って仕方ない。

「小十郎…」

 手招きをする政宗のもとに膝をすすめると、政宗はごろりと小十郎の膝に頭を乗せて大の字にひっくり返った。

「新年から此れかと思うと…悪くねぇな」
「そうでございますか?」
「戦の方が、楽しめるがな」

 ――この雪じゃ、外になんて出て行けねぇけど。

 笑う政宗の頬に、しっとりと掌を添えると、政宗は気持ちよさそうに瞼を眇めた。それを見下ろしながら、小十郎は片手に持った笛を指先でなでた。

「やはり駄目ですね」
「何が?」
「私の笛は、駄目です」

 がば、と身体を起こして政宗が詰め寄る。

「そんな事ねぇぞ。父上もお前の笛が好きだったし、俺も…その、大好きだ」

 云いながら、語尾は弱弱しくなっていく。政宗はそのまま、しおしおと身体を屈めて再び小十郎に寄り掛かった。眺めの前髪が、さらり、と小十郎の肩に掛かる。
 そうして寄り掛かる政宗の背に手を回して、宥めるように撫で下ろした。

「駄目ですよ」
「――小十郎」
「私の笛は、以前よりも饒舌になりました。これでは、包み隠せません」

 すり、と猫のように擦り寄る政宗を、両手で抱き締めて、その温もりに身を浸す。彼が幼い時から近習として側に仕えてきた。
 ただ、側近として、臣下としての感情ではない、別の感情に満たされた瞬間の動揺を、今でも覚えている。だが、政宗はそんな自分さえ受け入れてくれた。

「私の笛は、貴方が恋しいと、語って、止みません」
「――――ッ」
「私以上に、饒舌です」

 ふふふ、と口の中で笑いをくぐもらせる。彼の舞を見ながら、何処までも羽ばたける彼を操るように吹く笛は――彼を制御したいという欲望に他ならない。彼を自分から飛び立たせない様に、羽根を毟ってしまいたい程の、そんな征服欲だ。
 だが目の前の政宗がそんな檻に閉じ込められる玉ではないことをしっている。
 だから、切なくて、距離をおきたくてならなくなるのに、離れられない。

「そういうのはなッ!」
「政宗様」

 がし、と急に政宗が小十郎の後頭部を掴んできた。無理矢理に仰のかされた首が、痛みを訴える。だが膝立ちになって覆いかぶさってくる政宗に歯向かうことが出来ない。

「そういう事は、本人に言えッ」

 噛み付く勢いで彼の唇が降って来る。それを受け止めながら、膝に乗り上げてくる政宗の腰帯を解いていく。

「政宗様は、私をどうなさいたいのか」
「あのなぁ、舞って、神様に捧げるものなんだぜ?」
「――…」
「神でさえ、制御するのが、舞だ。お前は笛で俺をどうにかしたいと思うだろうけど…」

 ちゅ、ちゅ、と政宗が額や頬に口付けてくる。まるで雛が餌をねだるかのようで、それに応えながら、小十郎は政宗の背に手を添えた。彼の下肢に手を差し入れ、熱くなった其処を撫で上げると、ひく、と息を飲むのが解った。
 様子を窺うように見上げると、頬を上気させた政宗が小十郎の頭を両腕で抱え込んでいる。

「政宗様…――」
「俺が、お前を操ってんだよ」

 ふ、と詰める呼吸が切なそうに揺れる。だが次の瞬間には、ぐしゃぐしゃと政宗は小十郎の髪を乱してはにかんだ。

「だから、いちいち考えずに、ただ俺を愛せ。ずっと、俺の元で笛でも、睦言でも吐き続けろ」

 そしてそのまま、つつ、と手を滑り落として、小十郎の胸元に掌を這わせる。
 心臓の上にある掌に、小十郎は自分の手を重ねた。

「ならば、この胸の鼓動が奏でるままに」

 悩むのも馬鹿らしい。彼が全てだ――それは、年が何度廻っても、新しくなっても変わらない。
 乱していく政宗の肌に唇を寄せて、その肌に吸い付きながら、小十郎はただ夢中で貪るしか出来なくなっていった。



 外に降る雪は、しんしん、と静かに降り積もる。
 深くなる雪に、全て音が閉ざされても、掌に触れる鼓動は耐える事無く奏で続けられていった。













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