深海色の空



 貴方がいなくなった日々は、貴方と過ごした記憶を繰り返す毎日でした。



 楽しいことも、辛いことも、数多くあったけれども、貴方を失ったあの日ほどの闇は、どこにもなかった。

「なぁ、小十郎…お前、俺の傍にずっと居るっていったよな?」
「言いましたな」

 静かな室内で、たった二人で其処に在る。昔はよくあった事なのに、それぞれに家を持つ――次代を持つようになってからはそうも言っていられなかった。
 それでも今は二人きりだ――ただ、彼は床に伏せて身体を起こすこともままならない。

「俺の右目はお前なんだぜ?」
「そのお言葉、この片倉小十郎、ずっと胸に抱いて逝きます」

 小十郎の枕元に座り、彼の額に手を添えてゆっくりと撫でた。すると、細くなった手で小十郎は政宗の手に自分の手を添える。

「なぁ…お前、本当に」
「――…」

 口篭りながら、ずっと言わなかった言葉を口にした。

「本当にこれで良かったのか?」
「――はい」

 ずっと疑問を持ってきていた。あの日、彼に縁談を薦めなければ、自分がこの立場にいなかったら、もしもを考えない日は殆どなかった。だが自分よりも先に、この奥州のことを考えなくてはならない立場だった。

「俺は…――」
「迷うことはございません。後悔も、何一つ…」
「小十郎…――」

 ゆっくりと小十郎は首をめぐらせて政宗を見上げた。病身で尚、政宗を気付かう素振りが滲み出ていた。

 ――後悔、しなかった筈ねぇじゃねぇか。

 何度も彼の伸びかけた手を見ないふりをした。伸ばされた手が己の肌に触れることなく、握りこまれるのを――拳が握られるのを何度も感じていた。それなのに、小十郎は後悔はしていないと言う。
 身体を起こそうとした小十郎の肩を押し、そのまま床に伏せさせる。それを申し訳なさそうに苦笑されてしまう。政宗が彼の本意を探るように、ただじっと見つめていると、小十郎は溜息をついた。
 そして思い切ったように告げてきた。

「あの日、貴方様を抱きましたこと、今でも思い起こせます」
「俺、は…――」

 あの日――たった一度、彼の前にこの身体を差し出した。目の前で帯を振りほどき、賭けに出た。そして伸ばされた小十郎の腕に、ずっと触れてきていた暖かさに、何度も泣いた。あの時の涙は、何の涙だっただろうか。今のこの状況を知っていたら、あんなことはしなかった。

「あの一度、あれで十分。貴方様のお傍にずっと居て、居続けて…居続けられたことが」

 ――いちばんの、幸せでございました。

 瞼を閉じて小十郎が言う。彼の胸の上に乗せられていた手に、政宗は手を添えた。そしてぎこちなく、ゆっくりと指を絡ませていく。強く握って、握り返してくる力の弱さ――それに目頭が熱くなる。

「俺は、お前がずっと欲しかった」
「ええ…――解ってます」

 瞼を開けて小十郎は、ふふふ、と笑った。知っていました、と。

 ――ぽた。

 じわりと視界が歪んでくる。そして薄く微笑む彼の上に、涙が幾筋も落ちていく。

「線を引いたのは、俺だ。嘘をつき続けたのは、俺だ。なぁ、小十郎、俺を責めろよ」
「いいえ、責めませぬ」

 政宗が小十郎の胸の上に頭をつけて、身体を押し当てる。すると小十郎は昔のように、背中に腕を回して、あやすようにゆっくりと撫でて来た。

「責めて、恨んでも良かったのに、どうして…」
「お慕いする貴方様を、どうして恨めましょう?」

 顔を起こしてみれば、涙に濡れた目元を、小十郎の指先が拭っていく。

「俺を置いて逝くなよ」
「すみませぬ…初めて、貴方様のお傍を離れまする。でも、貴方様を迎えに行きます」
「どれくらい、待てばいいんだよ」

 どれ程に自分は情けない顔をしているだろうかと思う。それでも、そんな顔ですら、彼の前でなら晒せる。あふれてくる涙を小十郎は何度も拭っていく。そして両腕を伸ばして、政宗の頭を抱え込むと、自分の胸に押し当てた。
 微かな小十郎の香の香りと、温もりに、そのまま政宗はしがみ付いていく。

「私が居なくても、十分に楽しんで、人生を謳歌された頃、お迎えに参ります」
「お前が居ないのに、楽しむことなんて…」
「いいえ、いいえ…――貴方様の、人生を楽しんでくださいませ」

 小十郎は静かに政宗に諭す。だが政宗はそれに何度も首を振った。子どものように、置いて行くな、と繰り返すしか出来ない。

 ――これを、俺は亡くすんだ。

 この愛しい腕を、声を、存在を。
 こんな最期を得るのなら、戦場で共に果てた方が良かった。そう口にすると、あれは夢のような日々でした、と小十郎は楽しそうに笑って見せた。



 彼が息を引き取った日、見送ることも出来なかった。彼の最後は家族が見取ったとのことだった。訃報を受けた時、空は群青色に染まっていた。

「馬鹿野郎…――これから、俺の背中は誰が守るんだよ」

 憎まれ口を聞く人はいない。政宗はただ一人咽び泣くしか出来なかった。







2009.07.26/091103 up