breathless 邸から逃げた。 それが初めてではなく、何度も逃げては捕まえられていた。だがその日は、誰も構ってくれるなと、見つけてくれるなと、そう思って遁走した。 遠くで、梵天丸様、と自分を呼ぶ声が響いていた。 時宗丸にだって言わないけれど、時には逃げたくなるときもある。 ――息苦しいんだ。 弟が出来てからというもの母は構ってくれなくなった。いや、その前から城主として、この国を背負うものとして、厳しくされてきた。 だが、甘えたくなる時だってある。 ぐっと胸の中に押し込めているだけは、苦しくて堪らない。 梵天丸は萩の中に隠れると、小さな身体を余計に小さくし、膝をかかえて座った。そして膝に頬をつけて、口元に手を当てる。 少しの呼吸でさえも、勘付かれてしまっては、一人になった意味が無い。 「梵天丸様」 「――…ッ!」 急に頭上から声が聞こえて、飛び上がりそうになった。どきん、と胸が鳴って早鐘を打ち続ける。頭上に聞こえてきたのは小十郎の声だった。 ――なんで小十郎には見つかるんだよ? 「いらっしゃるんでしょう?梵天丸様」 梵天丸は応えずに、口に当てた手を余計に強く口元に押し付ける。近づいてくる気配はないが、背後に居ることは解る。 「出てきてくださいませ。義姉も心配しています」 ――喜多…! その名前を聞くと、彼女の雷が落ちるのを想像して身体を震わせた。すると梵天の震えにあわせて、萩が音を立てる。 ――がさ。 「あ、やっぱり此処でしたか」 「小十郎…」 ひょい、と頭に掛かっていた萩を引き上げて、精悍な顔立ちの少年が覗き込んだ。それを見上げながら、梵天丸は眉を下げた。小十郎は頭上から微笑みながら梵天丸に向かう。 「義姉も、皆も心配しています」 「お前は?」 「は?」 にこにことしている小十郎に、ぷい、と膨れてそっぽを向く。拗ねた風にして言うと、小十郎はきょとんと瞳を見開いた。梵天丸は重ねて念を押しながら問うた。 「お前は?」 ――心配してくれるのか。 がさがさ、と萩を掻き分ける音が背後でしている。そして、ぬ、と影が足元に迫ったと思った瞬間、軽々と身体を持ち上げられた。 「わぁッ!」 背後から小十郎が抱きかかえてきたのだ。そして暴れる間もなく、彼の腕に抱きかかえられてしまう。そして梵天丸が見下ろすと小十郎は彼を見上げながら、瞳が細くなるほどに微笑んだ。その笑顔がやたらと胸を締め付けられる程に綺麗に見えた。 「――小十郎…お前は?」 「はい、勿論、この小十郎も」 ――貴方様のことを想っております。 抱きかかえられて、萩の中から引き出されて、そして息苦しい世界から引き上げられた気がした。まるで水面から外の光を見るために引き上げられたような、そんな感じだった。 「小十郎、俺…時々、池の鯉になったかのように、息が出来なくなる」 「貴方様の負っておられる荷が、重うございますからな…解りました。ならば、この小十郎が貴方さまの荷を分かちます」 「――…ッ」 「だから、息苦しいのなら、この小十郎めをお呼び下さいませ」 小十郎は抱きかかえていた梵天丸を一度、地面に下ろすと背中に乗るようにと告げる。その背に背負われて、梵天丸は彼の暖かさに声を詰まらせた。 「笛…」 「笛をご所望ですか。それならば帰ったら聞かせましょう」 彼に抱きかかえられて邸に戻る間、貴方が憂いを帯びるのなら笛を聞かせましょう、と彼は言っていた。 梵天丸は背中の広さと温かさ、そして彼の気持ちが嬉しくて、涙を堪えて今度は息もつけぬほどになっていった。 目の前で、小十郎が静かに笛を奏でる。彼の指がすらりと動いて、城中に清らかな音色が響く。流麗に奏で続ける小十郎を、政宗は脇息に凭れながら見つめていた。耳にさらさら、と葉擦れの音が届くと、ふと昔のことを思い出した。 す、と一曲終え、小十郎が笛から口元を離すと、政宗は彼の傍に膝を寄せていった。 「なぁ、あそこに行かねぇか?」 「は?」 「これからさ」 小十郎が何を言い出したのかと、小首を傾げる。政宗は続けて、萩の季節だろ、と口元を吊り上げて笑う。 すると彼は溜息を付きながら、笛を袋にしまっていく。その手を取って、政宗は「行こうぜ」と繰り返しせがんだ。すると小十郎は眉間に皺を寄せて、大仰な溜息を付いてみせる。 「もう夜も更けておりますぞ」 「構わねぇよ」 政宗が立ち上がると、しぶしぶと小十郎もまた立ち上がる。そのまま飛び出していきそうな政宗を止める為に彼は間を詰めて行く。 「かくれんぼ、ですか?ご幼少の頃のように」 「解ってるじゃねぇか。此処じゃ、息も付けねぇよ」 ――息苦しくて。 政宗はそういうと、自ら小十郎の胸に額をつけた。そうすると心得ていたとばかりに、彼の腕が回り、肩を引き寄せて抱きしめてくる。 擦り寄るように小十郎の首筋に、鼻先を埋めて、そして腕を伸ばして彼の背に這わせる。そうしていると、この城内での閉塞感も薄れるような気がした。 日々の執務の中だけでは、どうしても息苦しい。戦でもあれば憂さも晴れるというのに、と思わずには居られない。 ――でも、こいつの傍はいつも気持ちいい。 小十郎の傍にいると、そこだけ空気が清浄な気がしてしまうくらいに、安息の瞬間を得られる。それは、政宗自身が彼を必要としているからに他ならないからだが、それを告げるのは癪に障る。政宗は声を押し殺して、皮肉ったように言った。 「外で寝たい気分なんだよ」 「酔狂な」 くふふ、と小十郎が政宗の頭を、子どもをあやすように、ぐしゃぐしゃと掻き混ぜながら、苦笑していく。 政宗は、ぱっと勢いよく振り仰ぐと、少しだけ背伸びをして小十郎の唇に噛み付く。 「――っつ」 がり、と噛み付くと、流石に小十郎も口元に手を当てて横を向いた。政宗は舌を、べえ、と出して悪戯っ子のようにはにかむ。 「でも、本当はお前の腕の中で、息も付けないようになる方がいい」 「――言うようになりましたな」 政宗に噛み付かれた唇を指先で拭い、小十郎が溜息を漏らす。だがその顔は笑っていた。 「だから、行こうぜ」 ――窒息するほどの、恋をしようじゃねぇか。 政宗が小十郎の腕を引っ張る。それを、御免、と横抱きに抱きかかえる。 「小十郎…――おま、何恥ずかしいことしてんだよ」 「いいじゃありませんか。どうせ、誰も見ませんよ」 ――貴方が息苦しいのなら、私の手で掬い上げてあげましょう。 政宗が焦って足をばたつかせるが、彼は構うこともない。小十郎は政宗を抱いたまま、耳元に囁いてきた。政宗は、かあ、と背中が熱くなる気がした。 「お前、本当は結構いい性格だよな」 「貴方様には負けますが」 しきたりだの、礼儀だの、そんなのは関係ない。 政宗は一度眼を瞬くと、声を出して笑った。そして二人は早足で外に出て行くと、記憶にある萩の咲く庭に向かって夜を駆けて行った。 了 090729 |