深海



 ――欲しいと思っていた。



 主は自分よりも幾歳も離れていた。成長を見守っていくうちに、兄心とも、親心ともいえない感情が芽生えていく。それは与えられた役割だからという訳でもない。
 自分から進んで、この人の後ろに回ろう、この人を支えよう、と決めてきた。
 それはある意味、贖罪に酷く似ていると思った。

 ――この腕に預けられた身体、そしてその瞳に刃を突きつけたのは己。

 彼は幼子だとしても、じっと此方を見てきていた。腐り始めた眼球の奥で、じっと見つめてきた。そして総てをこの腕に託して、一声、悲鳴を上げた。
 あの時の抑えきれなかった悲鳴が忘れられない。主を手にかけてしまったことへの罪を抗う術は知らない。

 ――あの時の目が、声が、温もりが忘れられない。

 ただそれが罪だと思っているうちは良かった。変容する感情に苛まされるなんて思ってもみなかった。

 ――あの方が欲しい。

 だからこの感情はただの劣情――消し去るしかないと諦めてきた。

「聞いておられるか、政宗様」
「ああ?聞いているぜ」
「なれば、そのようなお姿を晒されるな」

 目の前で主――政宗は横になったまま、手にした書状をぱらぱらと気紛れにめくっている。それをいちいち報告する身にもなって欲しいものだが、この態度以外では彼はしっかりと内容を把握していた。

「俺が自分の部屋でどんなかっこうしてようが関係ないだろ」
「心持の問題です」
「ふぅん…?」
「政宗様」
「心持って、誰のだ?」
「――――ッ」

 ぎく、と思わず息を飲んでしまった。きらり、と蒼く澄んだ色が――彼の片目から注がれてくる。その視線に総てを見透かされる気がした。
 言葉に窮していると、彼は傍にあった脇息を手繰り寄せ、しな垂れかかる。微動だにできず、見つめるしか出来ない。背筋に厭な汗が流れていく気がした。だがそれも彼が視線を逸らしたのと同時に納まる。まるで蛇に睨まれた蛙だ。
 彼は軽く舌打ちをしてから、傍に散らかしていた書状を一枚つまみあげる。そして煙管を吹かしながら、ぺらり、と目の前にその書状を掲げた。

「小十郎、お前にいい話がきている」
「は……?」
「縁談だ」

 さ、と目の前が暗くなる気がした。何と応えたらいいのか、即座に対応できない。

「受けるか?」
「……それが命令だとするのでしたら」
「そうか。なあ、小十郎」

 かたかたと震えだした拳はどうしてだか解らない。怒りなのか、緊張なのか、何の震えだったろう。
 だが、そんなものはただの予感でしかなかった。彼は総て知っていた――ふい、と口元が紫煙を吐き出し、彼は確実に、はっきりと言った。

「お前、俺が欲しいんだろう?」
「政宗…様?」

 ばれていた――それがどんなに背徳的で、羞恥に満ちているかしれない。隠してきた劣情を、相手に悟られていたことがどんなにか恥ずかしいことか。
 彼の名前を口にするしか出来ない。それなのに、彼は徐に立ち上がると、目の前に来た。そして見下しながら、目の前で帯を解いていく。

 ――しゅっ。

 衣擦れの小気味良い音が聞こえる。落ちる着物の音なんてどうでもいい。止めることも出来ない。

「一度だけだ。一度だけ…俺を抱かせてやる」
「――――…っ」

 拒むことは出来なかった――手を伸ばし、腕に抱き、彼の腰にからみつかせたまま、衝動に突き動かされるしか出来なくなっていった。随分と余裕もなく、主に対して――いや、焦がれ焦がれ焦がれ続けてきた。その相手を前にして、余裕なんて微塵もなくなっていた。

「お前は幸せになれ」

 掻き抱く合間に、彼がそう笑いながら言った言葉が、この胸に傷を埋め込むことなんて、感知することは出来なかった。

 ――たった一度だけ。

 それは深い深い、彼の想いだった。











 ――欲しいと思っていたのは、本当は…

 掻き抱く男を前にして、涙が止まらなかった。こんな時でしか誤魔化せない自分が厭だった。
 本当は嫁なんて貰ってほしくない。
 ずっとずっと傍に居て、抱きしめて、甘い言葉を吐き続けて欲しい。でも其れは叶わない夢だ――この戦国乱世、そんな生易しいことでは国すら危うくなる。
 この肩には何万という民の命が掛かっている。

 ――俺は人柱でもいい。野望だけあるだけでいい。

 でもその片棒を、担がせたくなかった。それでも求める気持ちは止まない。

 ――本当は知っていた。

 彼が自分を欲しがっていることを。いつも手を伸ばしては引っ込めていることを。目を逸らすことを――その総てが、自分に対する彼の気持ちだと思えば、何もかもを独占したような気持ちになれていた。
 でもそうも言っていられない。

 ――だから、俺を生かすために。

 誘いに乗ってくれるかは賭けだった。彼の前に立ち、帯を解く。本当ならば、この自分がそんなあられもない格好などさらすべくもない。

 ――どうか、一度だけ抱きしめて。

 賭けだった――そして、それがたった一度の過ちだった。











2007/05/11(Fri)