Pierce



7話・お兄さんは心配性



 触れ合うようになってから気付いたことがある。

 ――顔を見ながらするのは恥かしい。

 だからいつも佐助に背中を見せてしまうが、彼はそれに厭とも言わずに触れて来る。掴まれる腰――腰骨を擽る掌に、ぞくり、と肌を粟立たせると肩甲骨をぐっと押し付けられた。

「さ…すけ?」
「あのさ、旦那…腰、あんまり浮かせないで」
「でも…ッ」

 自然と突き動かされるままに反応してしまう。それを告げようとすると、強く身体を布団の上に押し付けられる。
 腹ばいのままで枕とシーツにしがみ付いていると、佐助は臀部の割れ目に指先を、つい、と這わせながら、後ろだけでイッて、と囁く。

「あ…――っ、っん」
「イイ声出すようになったねぇ…旦那」
「し…る、か…ッ」
「あ、可愛くないこと言って。余裕あるなら、無くしてあげる」
「――っ、や…ッぅ、あぅ…」

 耳元に囁かれる言葉に嘲るような色が滲み、ぐいぐいと深部を抉られる。幸村は枕により強くしがみついた。
 結局なし崩しにでも関係は続いてしまっている。付き合ってみることにして、暫くは様子を見ていた佐助だが、一度肌を赦してしまえば後はなし崩しになってしまっている。いや、そもそも好いているから出来ることだと幸村は理解している。

 ――顔が好き。

 そんな風に告白したのは嘘でもないから始末に負えない。肩越しに振り返ると、額に汗を浮かべたまま、気持ち良さそうにうっとりと瞳を眇めて居る彼の表情が、否応なしに迫ってくる。

 ――真剣な顔、何だか戸惑ってしまう。

 は、は、と小刻みに吐き出される吐息、それが背中に当たれば、それなりに身震いしてしまう。それに顔だけでなく、本当はどんどん好きになってしまっている――深みに嵌ってしまうとはこういうことなのかと、緩く揺す振られながら考えた。
 幸村がそんな風に思考を散らしていると、ぐ、と深く穿たれた――瞬間、びりびりと背中から戦慄が駆け上がってきて、思わず身を捩ってしまった。

「――ァ…ッ」
「集中、して」
「ン…ッ」
「だんだん感じてくれるようになったね」

 小さく漏れた喘ぎに、嬉しそうに佐助は囁く。だが、そんな事を言われても嬉しくも何ともない。細かい律動は続いているものの、この恋人のやりようにはいつも泣かされてしまう。そもそもの始まりから酷いものだった――言ってしまえばそれはレイプ染みていて、今思い出しても恐怖が先立つ――それに比べたら、多少の事は赦してしまう。殊其れが惚れてしまってからは、障害もない。
 そしてこのザマだ。
 幸村は反論しようと口を開きかけて、そのまま枕の上に顔を埋めた。ばふ、と枕に顔を埋めていると、つつつ、と肩甲骨の合間を彼の手が滑っていく。

「――…ッ」
「俺は、旦那が感じてくれるようになって、さ…嬉しいんだけど、旦那は?」
「――…」
「ね?教えて」

 枕の上に顔を埋めていると、背後から覆い被さりながら、肩をつかまれる。耳元に何度も「教えて」と囁かれ、次第に耳孔に唇が触れてくる。

 ――ふ。

 吐息を耳孔に吹き込まれて、ぞわり、と快感が背に走った。
 幸村は仕方なく顔を起こして――といっても背後から覆い被さられているし、まだ後孔には彼がしっかりと穿たれたままだ――のそりと振り返り、思案しながら呟いた。

「――…怖い、かも」
「怖くないよ」

 ふ、と頬に唇を寄せて佐助が答える。一瞬だけ彼が、ぎくりとしたように見えたから、正直なところを述べてみた。

「いや、俺が俺でなくなるようで…」
「それ、感じてるってことでしょ?」

 明らかにほっとしてみせて、佐助はするりと手だけを下降させていく。

「――ッん、っあ」
「もっと乱れてくれて良いのね」

 割り開くようにして手が臀部に触れる。後は強い律動に耐えるだけで精一杯になっていった。










 いつの間にか会う回数が増え、佐助の家に訪れる事が増えてきていた。そうした朝には少し早く出勤する。
 人通りのまだ少ない道で、こっそり手を繋いだりするのが意外と嬉しい。最初の時が無理矢理だったので、後からこうして甘酸っぱい事をしているわけだ。

「旦那の手ってさ、暖かいよね」
「そ…そうか?」
「うん。診察の時とかさ、触れられると気持ちいいんだよ」

 佐助は掠めるようにして、そっと手を握る。触れた瞬間に既に指先に避雷針でもあったのかと思うほど、びりり、と刺激が走る。そして、どきどきと胸が鳴る。

 ――落ち着け、落ち着くのだ、幸村ッ!

 触れた手が、以外と細くて、長くて、幸村の指に絡まってくる。離れようとしても離してくれないのが、時には困ることもあるが、何となく求められているようで嬉しい。
 嬉しさ半分、戸惑い半分、更に羞恥がうっすらと組み合わさって、幸村は平静を装うのに必死になる。

「先生…こっち見て」
「え…」

 ぎゅ、と絡んでいた指先が手首に滑り、彼の長い指に絡め取られる。もう片方の手も手首を掴まれて、正面から彼が覗き込んでくる。

 ――あ、キス、される。

 自然な動きで彼が正面から顔を寄せてくる。朝日に反射して、佐助の左耳の銀色のピアスが光った。眩しくて思わず瞳を閉じると、其れを合図と受け取ったのか、佐助が唇を重ねてきた。

 ――ちゅ。

「ふ…――ッ」

 一度触れてから、するりと動いて再び角度を変えて触れ合う。逃げようにも手首をがっちりと掴まれてしまって逃げることも出来ない。
 閑静な住宅街の一角で――ほぼ幸村の家の近くだが――まだ早朝と云うこともあって人通りも少ないし、耳に聞こえる新聞配達のバイクの音も遠い。

 ――外、だけど…離れたくない。

 誰が通りかかるか解らないスリルもあるが、それよりも深くなっていく口付けが心地よくて堪らなかった。

「先生…――舌入れるから」
「――…ぁ、さす…け」

 うっとりとした視線で彼を見上げながら、唇を開くと、ぬる、と舌先が触れて来る。其れと同時に彼の舌にあるピアスが歯に触れて、かつん、と音を立てた。

 ――ぬちゅ。

 滑る音が耳に響く。絡まる舌先が熱くて、時折触れる硬い金属が、こりこりと上顎を擽っていく。

「ん…ッ、ぁ、は…ッ」

 あまりに深くなるキスに耐えられなくなってきて、ふい、と顔を背けると、幸村はそのまま佐助の肩に額を押し付けた。

「気持ちよかった?」
「――聞くな」

 はは、と軽く笑う佐助に、火を吹きそうな気持ちで告げると、首だけを動かして彼は頬を摺り寄せてきた。

 ――ちゅ。

「旦那のほっぺって、赤ちゃんみたいに気持ちいい」
「冗談を申すな」
「いやマジで」

 ――だからキスしてもいいよね?

 どんな理屈だ、と反論したいが、佐助は慈しむように幸村の額、こめかみ、頬と唇を触れさせてから、ちゅ、と啄ばむだけのキスを唇に落としてくれる。

「――…ッ」
「こういうキス、バードキスって言うの。知ってる?」

 佐助はそんな事を告げながら、ちゅ、と再び唇を触れさせてくる。柔らかい感触が気持ちよくて、じんわりと胸が熱くなってくる。

「なんかさ、俺…真田先生とこうしている時間が増えて、凄く幸せなんだけど」
「う…――うむ」
「この幸せなのを、どうやったら伝えられるのか解らなくて…」

 ――だから行動で示したくなるんだよね。

 佐助は心底幸せそうに笑む。柔らかい眼差しで、好みの顔で、そんな嬉しいことを告げられたら陥落するしかないではないか――幸村は、じわり、と涙さえ浮かんできそうな程に照れてしまい、真っ赤になった。

「旦那…大好きだよ」
「あ…ッ」

 止めとばかりに甘い声で耳元に告げられる。幸村がもう限界とばかりに、佐助、と口を開きかけた瞬間、カタン、と門戸の開く音がした。
 やけに音が大きく聞こえて、幸村も佐助も其方に首を巡らせた。すると今将に門から出ようしている一人の男性が目に入る――これから出勤だろうか、きちんとした身形の男だ。そして彼は二人を見て、動きを止めると、信じられないものを観るかのように瞳を大きく見開いた。

「幸村…」
「あ…――」

 ぶわあああ、と幸村の顔に朱が昇る。それと同時に無理矢理に幸村は佐助の手を振り解いた。佐助は何が何だか解らずに、幸村と男性を交互に見てから「あ」と声を上げた。

 ――似てる。

 何処と無しに二人の容貌、体格などが似ている。そう思った瞬間、視線の先の男性が幸村の兄であると知れた。幸村は何とか言い訳を考えているのか、取り繕うとして口を開いたり閉じたりしている。

 ――たぶん、見られている。

 手を繋いでいたことも、キスしていたことも、見られていると予想できた。幸村が傍から見ていても可哀相なほど、冷や汗を掻きはじめていく。

 ――カタン。

 再び門戸の音がした。すると幸村の兄――信之はずかずかと歩んできて、ぴたり、と幸村の前に足を留めた。そして少し上の位置から見下ろし、佐助に一瞥をくれると眉根を寄せた。

「こんな往来で、朝から…」
「あ、兄上…?」
「行くぞ」

 たじろいだ幸村の腕をがっちりと掴みこむと、そのまま勢いに任せて引っ張っていく。幸村も大概馬鹿力だと思っていたが、どうやら兄はそれを上回るようだ――信之の前ではあっという間に大人しくなって腕を引っ張られていく幸村を、佐助はただぽかんと見送るだけしか出来ない。
 だが不意に幸村が振り返り、佐助を目に留め、ぶん、と腕を振り払った。

「ちょ…っと、待ってくだされッ」

 信之の手から幸村が離れる。だがそれに気付いて振り返った信之は、その手を空かさず幸村の頬に打ちつけた。

 ――ぺちんッ

 背後で佐助が、あ、と声を上げた。だが幸村は打ちつけられた頬をそのままに、信之を見上げた。きゅっと口元を引き締めて睨みつけるが、それよりも信之の怒りと驚愕の方が勝っていたのだろう――幸村に厳しい視線を送りながら忌々しげに諭し始めた。

「朝から何てふしだらな…不健全にも程があろうッ」
「――…ッ」

 幸村が、びく、と肩を揺らした。そうしていると幸村の背後に立ち尽くしている佐助を、顎で示してから再び吐き捨てるように言った。

「なんだあの男はッ!見るからに軽そうではないかッ!ピアスをじゃらじゃら付けて」
「兄上…」

 幸村が声を震わせた。ゆるゆると打たれた頬に手を添えてから、ぐい、と其処を擦り、眉間に皺を寄せていく。しかし信之は幸村のそんな変化に躊躇う事無く言葉をぶつけていった。

「お前にはふさわしくないッ」

 其処まで言うと、信之は再び幸村の腕に手を伸ばして、そのまま家の中へと引っ張っていこうとする。だが幸村はぐっと力を入れて堪え、抵抗を見せた。訝しそうに信之が振り返る。すると、ぽつ、と幸村が呟いた。

「――ピアスを、あけたのは某でござる」
「何?」

 信之が聞き返した瞬間、がばりと顔を上げてから、幸村は腕を振り解いて叫んだ。

「兄上には解りますまいッ」
「幸村ッ」

 背中に信之の声を聞きながらも、幸村は彼の腕を振り払って家の中に駆け込んでいった。そしてその後を信之が追う。そんな慌ただしい兄弟喧嘩を見送りながら、佐助は一波乱ありそうな予感に、空を仰いで額を押さえるばかりだった。










 結局慌ただしく飛び出した朝から、幸村は一日不機嫌になっていた。仏頂面に思わず患者が「真田先生はどうしたのだろう」と小首を傾げるほどには、不機嫌になっていた。
 それもその筈だ。己が恋い慕う相手を罵られれば、怒るのも無理はない。

 ――兄上なら解ってくれると思っていたのに。

 幸村にとっては一番の理解者だ。その相手が認めてくれなかったことに落胆もする。怒りと悲しみが一気に押し寄せてきて、幸村は一日どうしたらいいのか判らないほどだった。
 だがそれも帰宅前に佐助に電話をして――あちらはまだ仕事中だったが――穏やかな声を聞いたら、少しは胸のつかえが取れていった。

「今朝はすまなかった、佐助…」
『気にしてないから、大丈夫だよ。それより、ほっぺ、腫れたりしてない?』
「あ?ああ…大丈夫だ」

 電話口で指摘されて、朝に叩かれた頬に手を触れさせる。
 頬に痛みなど残っては居ないが、ちくん、と胸が痛むような気がした。幸村は夜道を歩きながら、佐助の声を聞きながら歩いた。医師と患者と云う立場を超えてから、彼の声は幸村にとって気着心地のよいものになっているし、此処に直ぐに彼が居てくれたら、とも思ってしまう――だがその思いつきに自分でも照れてしまって、口には出せない。

『でも…旦那のお兄さんっていうから、どんな面白い人だろうかと思ってたんだけど』
「うん?」
『だってさ、あの巾着…』
「そそそそそれは忘れてくれッ!」

 くすくすと咽喉を震わせて笑う佐助に、ハッと気付かされてしまう。まだ相手が佐助と知られる前、信之は幸村に閨の手ほどきとばかりに巾着袋を渡してくれた。
 中に入っていたのはローションとコンドームで、決して笑えるものではなかったが、幸村の為に用意してくれたということは、今でも嬉しい出来事だ――用意したときの信之はたぶん、相手が女の子と信じて疑わなかっただろうが。

「でもあれ貰った時にさ、結構盛り上がっちゃったよねぇ」
「そういう、は、は、破廉恥なことを、さらりと言うなッ」

 思わず電話口に向って叫びそうになる。
 あの日の翌日は腰が痛くて堪らなかった。何度も腰を叩いている幸村を、ほんわりと見つめていた兄を今でも覚えている。

 ――兄上が一方的に…あんな風に取り乱すのを、初めて観た。

 今朝の剣呑な雰囲気の信之を思い出し、再び沈みそうになった。キイ、と家の前の門戸に手をかけると、電話口の先では佐助が同僚らしい人に呼ばれている音が響く。

『何はともあれ、そんなに落ち込むことでもないよ、旦那』
「そうだろうか…」
『ちょっとくらい障害があっても良いじゃない。余計に燃えるって』
「佐助…今度は、いつ…」

 後ろ手で門を閉めてから、ドアを開ける。すると玄関に既に信之の靴があるのに気付いて、幸村は其処まで言うと口を閉ざした。

『あ、ごめん…ちょっと仕事ッ。後でまた連絡するよ。旦那、おやすみ』
「ああ…おやすみ」

 静かに携帯電話を下ろして、通話の途切れた画面を見つめる。そして幸村は玄関のドアを閉めながら、息を吸い込んで「ただいま帰りました」と声を張り上げながら、家の中に入っていった。
 しかし返答は無い。
 いつもならば、幸村よりも信之の方が帰りが遅い。幸村のように個人経営のクリニックで働いているのではなく、大学病院の内科で勤務している兄だ。余程のことが無い限り仕事を優先させる人だ。

 ――兄上を尊敬している。

 改めてそう感じながらも、反感する気持ちを否めない。幸村は静かに自室への階段を上がり、晩飯を摂る為にリビングに向った。
 すると既に食卓には夕飯が揃えられており――幸村の席の向かい側には、茶を手にした信之が鎮座していた。

「幸村、そこに座りなさい」

 もとより信之の正面が幸村の指定席だ。言われる間もなく、其処に座る。ふと見上げた信之は未だに眉間に皺を寄せて渋い面持ちだ。
 既に腹の虫が、ぐうぐうと先ほどから鳴っており、直ぐにでも箸を付けてしまいたくなるのだが、幸村は信之を伺いながら食事に手をつけずに黙った。

「今朝の事だが…」
「――…」

 信之が口羽を切る。こく、と軽く咽喉が鳴るが、幸村はそれでもじっと押し黙っていた。すると苛立ったように信之は、手にしていた湯飲みを荒々しくテーブルの上に置いた。中の茶が飛ぶくらいには、其れはぞんざいな動きだった。

「聞いているのかッ」
「…聞いております」
「聞こえぬぞ!」

 幸村は小声でもぞもぞと応えた。すると空かさず信之が刺を指してくる。流石に幸村も、かちん、と来た。がばりと顔を起すと、一言一言をはっきりと告げるように大声を張り上げる。

「聞・い・て・お・り・ま・すッ」
「――…ッ」
「兄上はこれでご満足かッ」

 はあはあ、と肩で息をしながら信之を睨み付けると、信之はぱちぱちと瞬きをしてから、ぐ、と咽喉元を詰まらせた。そして震える声で――怒りと悲しみが相まってだろう――拳を握りこむ。

「お前…この兄に対してその物言い…やはりあんな男とつきあってはならん。既に影響されおって」
「な…それとこれとは別でござろう?」
「別なものかっ!」
 ――ばんッ。

 両手で信之はテーブルを叩くと腰を浮かせた。

「そもそも兄上は佐助に対しての悪口雑言、未だ謝られておりますまいッ」
 ――だんッ。

 負けじと幸村も拳をテーブルに打ちつけて腰を浮かせる。両者睨みを利かせながら、ぎゃあぎゃあと言い合いを繰り広げてった。

「謝る道理などないっ」
「いいえ、謝って頂きますッ」
「幸村、お前はいつからそんな分からず屋になったのだ?」
「兄上こそ、頑固にも程がございますッ」
「ええい、ええい、やはり駄目だ!今すぐ別れろッ」
「兄上に指図されとうござらんッ」

 言い合うたびに、ばん、ばん、とテーブルを叩く。その内、叫ぶのにも疲れ始め、肩で呼吸を繰り広げていく。
 はあはあ、と呼吸は荒い――だが、両者とも譲らなかった。

「十二時だ…」
「は?」

 荒い呼吸の下から、ぽつ、と信之が呟く。

「明日から門限十二時だ!一秒たりとも遅れてはならんっ」
「なんですと…っ」

 幸村の鼻先に人差し指を突きつけて、信之が宣言する。幸村は突きつけられた門限に身を乗り出した。幾らなんでも、今更門限を決められるなんて在りえない。しかも自分は男だ――婦女子でもないのに、何故、と理不尽さが込み上げてくる。

「本来なら二十一時と言いたいが仕事もある。妥協して十二時だッ!」
「兄上…――ッ」
「加えて外泊禁止!」

 更に畳み掛けて信之は言い放つ。流石にそれはどうにかして欲しい。休み前に最近では佐助の家に遊びに行くのが楽しみで――そして彼と過ごす時間が楽しくてならなかった幸村にとって、それは非常に酷な宣告だ。

「兄上、それは横暴…」
「以上だッ!」

 信之はそれだけ言い放つと、がたん、と立ち上がり、自室へと向ってしまう。幸村は告げられた内容を反芻しながら、はあ、と溜息をついた。

 ――ぐうううう。

「――――…」

 溜息と共に空腹で腹も鳴る。テーブルの上には自分用の食事も乗っている。逼迫しても腹は減るから不思議なものだ。

「はぁ…如何いたそうか…」

 一人で呟きながら、静かに椅子に座ると、幸村は食事に口をつけていった。










 信之の決めた門限に、始めは「まさか、そんな」と驚くだけだったが、何処かで「本気ではなかろう」と思っていた。だがそれはとんだ間違いで、信之は殊更に幸村に厳しくなっていた。
 十二時五分前には既に玄関に待機して、時計を見て待っている。
携帯で話をしていれば十二時きっかりに通話を切られる。更にはこっそり連絡を取ることも出来ないように、そのまま携帯を朝まで取り上げられる。
朝出勤する時には、幸村を送っていく。時間さえ合えば、帰りも迎えに来てしまう。

 ――これでは息をつく暇もござらん。

 一日の業務を、あと少しで終えるという頃合に、幸村は深く溜息をついた。仕事の合間だけは見張られることもなく、自由ではある。だがそれは仕事――心休まる瞬間ではない。

 ――佐助に逢いたい。

 幸村はデスクの上に、ことん、と頭を乗せて、そんな風に脳裏に思った。
 無理矢理だったとはいえ、彼と初めて口付けたのも、触れ合ったのも、この診察室だ。時計をちらりと見やれば、時間は診察時間を過ぎる頃合だ。ますますあの時の事を思い出してしまう。

 ――逢いたい。声が、聞きたい。顔が、見たい。

 デスクの上に頭を乗せたまま、指先を唇に向ける。そして、ふ、と滑らせるように動かすと、幸村は小さく呻くようにして吐息を漏らした。

 ――コンコン。

「――――…ッ」

 不意に診察室のドアをノックされて、ぎくり、と身を起す。幸村は慌てて身を起しながら、開くドアに向って声を掛けようとして、そのまま口をぽかんとあけてしまった。

「セ―ンセ。来ちゃった」
「さ…佐助?」
「そ。中々逢えないからさ、診察受けに来たよ」

 佐助は長い前髪をピンで留めた姿で、相変わらず左には五つのピアス、そして右に二つのピアスをつけた姿で、からから、と椅子を手繰り寄せて座り込んだ。

「――…ッ」

 正面に座り込んだ佐助は、身を少しだけ伸ばして覗き込んでくる。すると幸村の視界が瞬時に潤みだした。

 ――参った。

「わ、旦那?どしたの、俺様が来て泣くほど嬉しかったの?」
「佐助…ぇ」
「それとも、お兄さんに苛められた?」

 幸村は気付くと腕を伸ばして、佐助の首を片腕で引き寄せていた。鼻先に嗅ぎなれた彼の香りが触れる。それだけなのに、胸が締め付けられるように切なくて、嬉しくて、腕に力を入れてぎゅっとしがみ付いた。

「なんか…逆だね」

 しがみついてくる幸村の背中を引き寄せて、佐助はゆるゆると背中を撫でながら、くすくすと咽喉の奥で笑った。

「最初は俺が追いかけるばかりで…あんた、逃げ回っていたのに」

 背中を撫でる佐助の手が、心地よくリズムをとっている。そしてその手が次第に上に向ってきて、幸村の頬に触れると手の甲が幸村の口元に触れた。

 ――つん。

 手の甲からそのまま指先で、幸村の薄めの唇に触れる。そして佐助は幸村と視線を合わせる様に額をつけながら言った。

「でも今は俺が追われる側だなんて」
 ――自惚れてもいい?

 言葉を飲み込むようにして、唇を塞がれる。触れるだけだった唇が開き、舌先が互いの歯列をなぞり出す。

 ――かつん。

 歯に、佐助の舌ピアスが触れて、幸村は思わず咽喉を鳴らした。この数日触れていなかったせいもあり、少しの刺激でも追う様に動いてしまう。
 上顎を舌先で擽られ、ピアスがじっとりと手繰っていくのに、ん、ん、と鼻先から甘い吐息を出しながら応える。

「ふ…――佐助…」

 間近で熱い吐息を絡ませあいながら、唇を重ねていると、ぞくぞくと戦慄が身体中に廻っていく。引き寄せられながら、徐々に彼が触れるところに――それが、微かに触れた吐息でも――いちいち反応してしまうようになっていく。
 幸村は濡れた唇を、ぺろ、と舌先で舐めながら、佐助越しに時計を見上げた。頬や額に佐助はまだ、ちゅ、ちゅ、と小さなキスを落としてくれている。

 ――そろそろ診察時間が終わる。

 幸村はキスで痺れている舌先を動かして、ゆったりと口を開いた。

「佐助、その…他に」
「うん?ああ…俺で最後だったよ」

 直ぐに意図を読み取って佐助が応える。それを聞くと、幸村は「そうか」と小さく頷いてから、一度佐助から離れた。

 ――カタン。

 椅子から立ち上がる幸村を、佐助は不思議そうに見上げている。その視線を受けながら、診察室のドアまで行き、鍵をかける。
 そして幸村は側にあった簡易ベッドの前にいくと、しゅる、とネクタイを解いて見せた。

「十二時門限だ」
「え?」

 振り返りながら佐助に告げる。白衣をばさりと脱捨てて、デスクの方へと放り込み、ベッドの上に乗り上げながら、幸村は視線を横に流しながら――正面から告げるのは流石に照れくさい――唇を尖らせながら告げた。

「さっさとやるぞ、佐助」
「わ〜お、旦那ってば大胆」

 一瞬、瞳を白黒させた佐助だが、即座に意図を読み取って、椅子から立ち上がる。歩きながらベッドに近づいて、ふにゃり、と眉を下げて見せた。口元には揶揄うような笑みがあるが、佐助から拒むような素振りは見られない。

「ふざけるな。俺は必死なんだからな」
「まあ、旦那がその気になってくれるのは嬉しいんだけどね」
「だったら問題なかろう?」

 ――ぎし。

 簡易ベッドが軽く、安っぽい音を立てる。乗り上げてくる佐助を受け入れるように、彼を見上げると、彼の冷たいピアスの感触が頬に触れてきて、後はただいつものように佐助にしがみ付いて喘ぐだけで精一杯になっていった。










 一度、抜け穴を見つけてしまうと、こっそりと二人で会うのが容易いことのようになっていった。勿論、信之の妨害は変わらない。
 ほんの三十分の間でも逢えると、即座に身体で感じあってしまう辺り、即物的だと思ってしまうが、言葉で言い尽くせない分、身体で表現してしまえばいいような気にもなってしまっていた。

 ――恥ずかしいのは変わらないけれど。

 まだ門限も何も無かった時のように、甘く過ごしたいのも山々だが、そんな時間はない。上手い具合に察知して、携帯を鳴らしてくる信之に焦ることもあるし、飛び出すようにして離れることもある。
 そんな状態をかれこれひと月ほど繰り返しながら、わざと合わせた昼休みに、食事をしながら佐助がこっそりと身を屈めて告げてきた。

「ほんとにいいの?」
「俺がいいと言っているのだから、悪いわけはなかろう?」

 ――今日は学会だ。

 朝方、信之がそう言っていたから、邪魔は入らない。それでも家に連絡を入れるといっていたのを思い出して苦笑してしまう。過保護にも程があるだろう。
 だがこのチャンスを逃すつもりもなく、幸村は佐助を自宅へと誘っていた。

「先生、お願いあるんだけど」
「――…な、んだ?」

 声を潜めてくる佐助に厭な気配を感じながら、幸村は甘くした紅茶から口を離した。佐助はまだ残っていたサラダを突きながら、上目遣いに告げてくる。

「生でやりたい」
「――――…ッ!厭だッ」

 びく、と幸村は肩を震わせてから、かあああ、と頬に朱を上らせた。こんな昼日中からする話ではない。だが佐助が引き下がる様子もない。外からの光を受けて、彼が俯くと耳元のピアスがきらりと光った。

「えー、だって生の方が気持ちいいし…」
「絶対に厭だ」

 ぷい、と顔を反らすと、ちら、と視線だけを向けてくる。

「何で?」
「――…そ、れは…」

 ぶわああ、と首元にまで熱が篭ってくるような気がした。答えるのは簡単だろうが、あえて口にするのは恥ずかしい。幸村は俯きながら、何度も口をぱくぱくと動かしながら、蚊の鳴くような声で、ようやく理由を佐助に告げた。

「後が…大変だから」

 はた、と佐助の動きが止まる。そして、ううん、と考えるような素振りを見せてから、彼は困ったように眉を下げて見せた。

「あ〜…なるほど。最初の時、中に出したっけ?」

 ――こくり。

 幸村は言葉の変わりに頷いてみせる。すると流石に佐助も強くは言えないのか、後頭部を手でがしがしと掻いてから「そうか〜」と軽く頷いていく。

「ま、仕方ないか。でも久しぶりにゆっくり出来そうだし、俺様サービスするんだけど」
「サービス?」
「ご奉仕しますよ、旦那」
「な…――っ」

 へらり、と笑ってみせる佐助の目元が、すう、と細くなる。伸びてきた手が、頬に触れて――指先が幸村の耳たぶに触れる。軽く其処を指で、くるりと愛撫されて、ぞわ、と背筋に戦慄が走った。幸村はふるふると小刻みに震えだすままに「破廉恥な…ッ」と真っ赤になりながら言うと、佐助は何故か嬉しそうに微笑んでいった。










 自宅に佐助を呼ぶのは初めてだった。
 最初、佐助は幸村の部屋を見て、あれこれと楽しそうに話しており、久しぶりにのんびりと過ごすことが出来ていた。触れ合うだけで、どきどきと胸が鳴るし、じっと整った彼の顔を見つめていられるのは楽しいというよりも、心地よいものだった。
 だから、赦してしまった――他ならぬ佐助の望みなら、と昼は拒んだものの、彼のしたいようにさせてしまったから始末に追えない。
 そして案の定、立てなくなってしまい、結局、佐助に抱えられながら風呂場までつれて行ってもらった。

 ――俺も大概だなぁ。これが惚れた弱みというものなのだろうか。

ぱしゃぱしゃと跳ねる湯を眺めながら、そんな風に反芻していると、胸元からじんわりと暖かさが込み上げてくるようだった。
 シャワーで軽く身体を流してから、ふわふわと浮くような心持で部屋着に着替えると、リビングから佐助の声が響いてきた。しかしそれは一人の声ではなく、誰かと言い争っているかのようだ。

「――…?」

 誰と話しているのだろうか、とそっと足音を消しながら向うと、途端に鈍い音が響いてきた。

「貴様…ッ、我が弟になんて事を…――っ」
 ――ガツッ

 耳に届いた声に、幸村は驚いてリビングに駆け込んだ。すると目の前には、頬を打ち付けられた佐助が床に転がっている姿が眼に入った。

「佐助…、大事無いか…――っ?」
「あ、旦那。うん、まぁ…ちょっとね。お兄さん、怒らせちゃった」

 へへ、と力なく笑う佐助の頬が、即座に赤くなっていく。しかも拳で殴られたようで、歯で唇を切ってしまったのだろう――じわ、と口の端が裂けて血が滲みかけていた。

「兄上…」

 幸村は床に転がった佐助の元に駆け寄りながら、低い声で背後に立つ信之に声をかけた。学会だと言っていたから、今日中に戻るとは思っていなかった。いや、通常なら戻れるはずも無い――其処までして妨害したいのかと、落胆するが、今はそれよりも腹の底からふつふつと込み上げる怒りの方が勝っている。
 いつもとは違う幸村の絞り出すような声に、信之が少しだけたじろいだ。

「ゆ、幸村?」
「今度と云う今度は…」

 ぶるぶると拳を奮わせ、唸るように言うと、勢いよく顔を上げた。

「佐助の顔に傷をつけるとは、いくら兄上でも赦せませぬッ!これは某の所有物にございまするぞッ」
「な…ッ」

 佐助を指差しながら腹の底から声を絞り出して言うと、信之は言葉を詰まらせた。そして指を指されている佐助は自分でも指差してから、瞳を少しだけ大きく見開く。

「え、ちょ、旦那、マジ?」

 ――俺様、大感激〜。

「ふざけている場合ではないわ、馬鹿者ッ」

 ばし、と軽口になった佐助の頭を平手で打ちつける。勢いで叩いてしまったが、佐助は頭を擦りながら「酷いなぁ、もう」とぶつぶつと言っていた。だが幸村はそんな佐助にはかまわずに、彼の肩を掴みこみながら信之を睨み付けた。

「兄上、今一度申し上げるっ」

 くる、と振り返った幸村が佐助の肩を引き寄せた。

「え、だん…――んッ」

 呆気にとられた佐助の反応が追いつくよりも先に、幸村は佐助の唇に自分の唇を押し当てていた。触れた際に切れた箇所に当たったのか、彼が「ん」と小さく声を上げる。そして幸村の口にもまた鉄錆の味が触れてきていた。
 幸村はゆっくりと佐助から顔を離す――流石に此処で彼の顔を見つめる事は羞恥心が先走って出来なかったが、見下ろしてきている信之に視線を流すことは出来た。

「これは、某のものでござる」
「――…ッ」
「兄上がなんと言おうと、手離すつもりはござらん」

 幸村はそのまま佐助の肩を引き寄せて、自分の胸に護るようにして抱き締めた。その間、佐助はと言うと幸村の行動に度肝を抜かれて、軽い機能停止状態に陥っていた。
 ぐぐぐ、と悔しそうに歯噛みしてから、信之はくるりと踵を返した。

「勝手にしなさい…だが認めた訳ではないからなっ」

 それだけ言うと、ばたばたとリビングから自室へと向っていく。荒々しい足音が響いていく。信之が去ってから幸村は力なくその場に、へなへなとへたりこんだ。

「旦那…大丈夫?」
「ん?ああ…いつか解ってくれるといいのだが」

 幸村はほっと胸を撫で下ろした。すると、佐助は胡坐を掻きながら、ふふふ、と嬉しそうに笑いながら幸村の肩に額を乗せてきた。

「でも俺様、感動しちゃった」
「え…?」
「ちゃんと愛されてるんだなーって思って」
「――…ッ、あ、当たり前だろう?」

 ぐ、と今度は佐助の腕が背中に回ってきて、先程とは逆に佐助の胸に抱き締められる。細身なのに、しっかりとした力のある腕に抱き締められて、何だか気恥ずかしくなってしまう。

「だって俺様の顔と身体だけ好きなのかなーって思ってたからさ」
「ぬ…それも、あるが…」
「え…ッ」

 はた、と顔を見合わせてから、佐助は再びふわりと表情を緩めた。そして優しく幸村の背中を撫でていく。それがまた子どもをあやすようで心地よい。

「ま、いいか」

 幸村を抱えた佐助が、額や、頬にキスしながら「ねえ、旦那」と呼びかけてきた。顔を起して小首を傾げて見せると、佐助はにこりと微笑んでくる。

「手離さないでね」
「無論、そのつもりだ」

 こくりと頷く幸村に、佐助が掬うようにして唇を重ねてくる。何度もキスを繰り返しながら、佐助の頭を引き寄せると、手に彼のピアスの感触が触れてきていた。










 翌朝、再び学会に出向く信之を見送ると、彼は幸村と佐助を一瞥してから、佐助に向って「いい気になるなよ」と釘を刺していった。

「兄上…ちゃんと仕事してくだされ」
「ホント、旦那のお兄さんて弟に対して過保護だよね」

 玄関先で並んで見送りながら、そんな風に話す。だが今は全く不安になったりはしない。視線を合わせてから、引き寄せられるように再びキスをした。肩と肩が触れ合う。
 朝日に、きらり、と佐助のピアスが光っている。二人はこっそりと繋ぎあった手を、ぎゅ、と強く握ると、楽しそうに微笑むだけだった。







 end



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