no reason



 数年前の出来事を思い出して、佐助は溜息をついた。あの後、分身に彼を麓の里まで送り届けさせた。だが知っているのは其処まで――その先は、彼の姿を見つけることなど出来なかった。
 どこかで幸せになっていて欲しいと思いながら、手放したことに後悔もしてきた。しかしまさかこんな形で再会するとは思っても居なかった。

「お呼びですか、幸村様」
「うむ…佐助、近う」
「は」
「――…」

 真田忍隊隊長という任に就けられてから、直ぐに彼に呼ばれた。それも夜に一人で来いと云う。これは何かあったとしか考えられない。いや、むしろ咎めを受けるのかもしれない。佐助は考えられる事をいくつか脳裏に描きながら、そっと夜半に彼の部屋を訪れた。

 ――じっ。

 注がれる視線が痛い。

「中に入れ、佐助」

 入り口で控えて低頭していると、中に入れと言われる。できれば戸を閉めたくもなかったが、幸村が閉めろと云う。嘆息したい心持で、嘆息を押し込めて前に進み出て、低頭する。すると先程、謁見した時と同じに彼が近づいてきて、片膝を付いた。視線の先には彼の袴が見えた。

 ――つい。

 顎先に手が添えられ、導かれるままに顔を上げる。そうすると幸村と視線がぶつかりあった。いざ幸村の視線とぶつかると逸らす事も出来ない。

 ――吸い込まれそう。

 黒く長い睫毛に彩られた瞳が、しっかりと自分に向けられている。しかもあの時のあどけなさもまだ残っている。しかし其処には成熟した青年がいる。
 火に照らされて、彼の顔の作りがはっきりと見て取れた。だが佐助は白をきるように抑揚無く応えた。

「何でしょうか?」
「某の顔に覚えは?」
「ある筈もございません」
「嘘であろう?」
「いいえ…」
「堅苦しい…ッ」

 ぐ、と幸村の方が先に歯を噛み締めた。眉間に皺を寄せ、怒りを顕にしている。今にも胸倉に掴みかかりそうな勢いだった。

「では善処致しましょう」

 佐助は強すぎる彼の視線から逃れるように、瞼を落とした。そして静かに告げる。すると目の前で幸村が、す、と立ち上がったのがわかった。頭上から見下ろされている気配に、やはり罰を受けるのだろうと思った。

「本当に覚えは無いのか」
「何を指して仰られているか…」

 だが、今は知らぬ存ぜぬで通すことも、まだ出来る筈だ。あの時は自分の無力さに彼を手放し、今度は身分差で悩まされる――そんなのは御免だった。
 どうせなら、此処から新たな関係のみで生きて行くことだって出来る筈だ。
 佐助が覚悟を決めながらも、白を切り通していると、しゅ、と衣擦れの音が響いた。

「あの時はまだ元服前だった」
「――…ッ」

 ばさ、と衣の擦れる音が響き、佐助は床を見た。其処には彼の穿いていた袴がある。何事かと驚きながら見上げると、即座に幸村は膝立ちになった。

「お前は、俺を気に入ったと言ってくれたではないか」
「幸村様」

 さらに髪を結っていた紐を、しゅる、と勢いよく振り解く。そして佐助の肩に手を掛けてきた。
「よもや忘れたとは」
「誰かと勘違いしてんじゃない?」
「違うッ!」
「――…」

 揶揄を篭めて、砕けた物言いをしてみると、幸村は声を荒げた。そしてそのまま佐助の肩に額を押し付けてきた。

「勘違い、なんかじゃない」
「――…」
「ずっと…ずっと逢いたかった。忘れられなかった」

 どきん、と鼓動が跳ねた。
 あの夜のことを忘れられなかったというのなら、其れほどまでに傷は深い。赦して貰えることではないと覚悟してはいるものの、良心が全く痛まないはずは無かった。
 佐助はぼそりと呟いた。

「嫌な事なら、忘れていいのに」
「――…ッ!」

 佐助の呟きに幸村は顔を勢いよく起こした。そして目の前で着物の袷を振り解く。佐助の目の前にむき出しの素肌が現れた。
 予想していた通り、あの時の未発達な身体に、今は均整の取れた筋肉が存在していた。ごくりと咽喉が鳴りそうになるのを押さえながら、佐助は幸村を見上げた。

「幸村様…?」
「あくまでお前が白を切るというのなら」

 ぐ、と佐助の手を取り、ついていた鉤爪を取り外される。そして素肌の掌を、幸村は自分の胸に押し付けた。

「なれば思い出させるまで」

 掌の奥で、幸村の鼓動が伝わってくる。幸村は佐助の手を掴んだまま、胸元からを往復させる。あの時の佐助の手錬を辿るような動きに、ぞく、と戦慄が走った。

「ちょ…やめっ」
「止めぬ」
「幸村…さ、――っ」
「あの時はまだ弁丸だった」
「――…ッ」

 幸村の声がぴしりと言い放つ。確かにあの時はまだ弁丸だった――変声期の掠れた声を思い出す。それと同時に、導かれるようにして佐助の手が、幸村の胸の飾りに触れる。
 その瞬間に、ふわ、と彼の眦が桜色に染まり出した。羞恥を押し込めているのが手に取るように解った。

「お前に拓かれた身体だ。お前しか知らぬ…身体だ」
「な…」
「だから、お前に反応する筈だ」
「――…ッ」

 すす、と掴んだままの佐助の手を、自分の腹へと滑らせ、幸村が咽喉を鳴らした。そして身体を寄せながら、佐助の耳元に囁いてくる。

「佐助」

 ふ、と幸村の切ない声が、吐息と共に耳に触れる。佐助は大きく溜息を付いた。

「勘弁して」
「――…ッ」
「俺に自覚させないでくれよッ」

 ――だんッ。

 言い様に幸村の手を取り、彼の背に空かさず腕を廻して床に押し倒した。我慢など出来るはずも無かった。

 ――惚れてたんだ…いや、今だって。

 元服を向かえ、離れていた時期もあるというのに、どうしても耐え切れなかった。こんなに脆く崩れ去る理性なのかと、辟易としてしまうが仕方ない。
 佐助は彼に乗り上げるようにして床に押し付けると、ふわり、と波紋を描くように彼の長い髪が広がっていた。
 幸村は佐助を見上げながら、静かに手を伸ばしてきた。

「あの時、敵に攻め入られた時…俺は一時的に預け置かれていた。父上の謀略の駒として、人質として、あの場に居た。お前に出会わなければ、此処にこうしてある筈もなかった命だ」
「――…そんな大ごとな…」
「あの場で武勲も立てられず、元服もせず、散るかもしれなかった。それをお前は救ってくれた…」

 組み伏せられたままで、幸村が手を伸ばしてくる。その手を受け止めていると、幸村は佐助の肩に腕を引っ掛けてきた。勢いに任せて佐助は幸村の背に腕を廻し、上体を起してやる。
 白状したことに満足そうな笑みを浮べた幸村が、佐助の首に腕を絡めて胸をつけてくる。やはり彼の肩口に鼻先をよせると、香の香りがするから不思議だった。

 ――この香りだ。

「忘れられなかったのは俺の方だ」
「さ、すけ…――っ」

 ぎゅう、と強く抱き締めると、幸村は不思議そうに名前を呼んできてくれた。佐助はただ苦笑するしかない――あまりに切なくて、涙が滲んできそうだった。

「酷いだろ?名前も教えなかった。無理矢理、組み伏せた相手を…その相手に本気になるなんてさ」
「斯様なことはない」
「旦那…――」

 ゆったりと顔を起こして、幸村が正面から佐助を見つめてくる。そして恥ずかしそうに視線を彷徨わせてから、ぼそ、と呟いた。

「あの時から…俺は一人寝が寂しいと…」
「――…はは」

 思わず笑うしか出来なかった。だが幸村は困ったように目線を上に向けて、佐助に向って何度も瞬きを繰り返した。

「お前の闇が訪れるのを、ずっと…」

 彼の言葉に全てが救われるような気がしてしまった。
 出会いは最悪だった――それなのに、その一夜で恋に落ちた。こんな事があってもいいのかと思ってしまう。
 佐助は再び出会えたことに感謝したい気持で、ぎゅう、と強く幸村の身体を引き寄せた。合わさる胸元に互いの鼓動が解けそうだった。

 ――俺が手に入れていいんだ。

 確かにある温もりに、手触りに、胸が熱くなる。その実感に胸を焦がしていると、ぼそぼそと幸村は耳元に呟いてきた。

「それに約束したではないか」
「え…」

 不思議そうに聞き返すと「何だ、忘れたのか」と幸村は唇を尖らせてきた。そして顔を寄せながら、そっと鼻先を触れさせる。

「今度こそ」

 彼の熱い吐息が唇に触れる。それを感じながら、そっと伸びてくる幸村の指に頬を包まれて、佐助は柔らかく幸村の頭を撫でた。

「今度こそ、口付けてくれるのだろう?」

 小さく告げられた告白に、そうだね、と頷く。まさかあの時のことをしっかりと覚えているとは思ってもいなかった。そして佐助は強く掻き抱くようにして彼を引き寄せると、唇を奪うだけではなく、静かに床の上に彼を押し倒していった。










 触れ合う肌に擦り寄りながら、佐助は腕枕に乗っている幸村の額をなでていく。あれから肌を合わせて、明烏が啼くまではと褥を共にしていた。

「あんまり撫でるな…」
「起しちゃった?」

 ――よく寝てたけど。

 佐助が笑うと、幸村は身体を縮めて寄り添ってくる。そして顔を起こして、むちゅ、と佐助の唇に貪りついた。

「ちょ…旦那、もう駄目だって」
「いいではないか」
「やだな〜、淫乱ッ」
「――…ッ、斯様に言うなッ」

 佐助が笑うと、幸村は真っ赤になって肩を押した。そして佐助の胸に乗りかかりながら、怒り出す。宥めるようにして佐助は彼の唇を何度も啄ばんだ。

「佐助…」
「んー?」
「もうよい…から、んぅ…」

 徐々に深くなる口付けに、幸村の瞳が蕩けだす。それを見上げながら、彼の肌を撫でていくと、ぱたん、と胸の上に身体を落としてきた。

「どうしたの、旦那…」
「もう俺の方が無理だ…また、いずれ」
「はいはい」

 はふ、と息をつく幸村が愛しいと感じてしまう。出会った形が違ったら、もっと違う関係だったかもしれない。しかし過去は変えようが無い。
 佐助は幸村を二の腕で強く抱き締めると、そうだ、と思いついたように声を上げた。

「まだ旦那に言ってなかったことがあるんだよね」
「何だ?」

 ぎゅっと抱き締められたままの幸村が、顔だけを起こす。彼の唇に再び口付けてから、佐助は笑顔になった。

「あんたのことを、愛している」
「――…ッ」
「愛しているよ、幸村様」

 ぶわ、と目の前の幸村が真っ赤になった。火を吹く勢いで熱くなっていく身体を感じながら、同じように小さく告げてくる幸村の声を聞き、佐助はより強く彼を腕に閉じ込めていった。







 end



20110503SCC up/120325up